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第四章 渡と佐和子の間で

玄関の扉を閉めると、外の冷たい空気が背中に溶けていった。

廊下を抜けると、煮物と出汁の混じった匂いが鼻をかすめる。

灯りのともった台所の奥で、佐和子がエプロンの裾を押さえ、

鍋の蓋をそっと開けていた。


「おかえりなさい」

その声は、静かな湯気のように淡かった。

渡はうなずき、コートを脱いで椅子の背に掛けた。

その間も、台所では味噌汁の鍋が微かに鳴っている。

佐和子は湯気を確かめるようにおたまを沈め、ひと口、味をみてから火を止めた。


「ちょっと冷めちゃったから、温め直したの」

「ありがとう」


渡は椅子に腰を下ろし、箸を取った。

味噌汁の表面に、湯気がゆらゆらと揺れている。

佐和子も向かいに座ったが、箸を持たず、テーブルの隅に伏せられたスマホを見ていた。

二人の間に、食器の触れ合う音だけが漂う。

言葉を探しているのに、どちらも口を開けない。

沈黙が長く伸び、湯気の層のように部屋を包んでいく。


渡はご飯茶碗を半分ほどで箸を置いた。

佐和子がようやく顔を上げる。


「ねえ、奥田次長、何か言ってた?」

渡の箸の先が止まった。


「……何かって?」

「ほら、駿平くんのこと。学級委員の」

湯気がまたゆらいだ。

渡は視線を落としたまま、低く答えた。


「そんな話、会社でするわけないだろう」

その声は、思っていたより硬く響いた。

佐和子は少し目を伏せて、箸を揃えた。

「そっか……でも、もしかして気まずかったりしないのかなと思って」

渡は一瞬、何を答えればいいのかわからなかった。


言葉を探すうちに、湯気が冷めていくのが見えた。

「……返信、まだしてないのか?」

「うん。どう返せばいいかわからなくて」

「早く返しておいたほうがいい」

「焦って書いて、余計に変なことになるのが嫌なの」

「時間を置くほど、余計に変になる」


渡の声が、思っていたより強く出た。

その瞬間、佐和子の目がわずかに揺れた。

「昨日は何も言わなかったじゃない」

「昨日は……」

言葉が途中で止まり、空気だけが喉を抜けていく。

渡はテーブルの縁を指で軽く叩いた。

小さな音が、沈黙の深さを測るように響いた。


「……佐和子。わかってるよな」

「何を?」

「駿平くんの父親は俺の上司なんだ。それも、同じ社宅に住んでる。少しは……俺の立場も、考えてくれ」

言い終えた瞬間、渡の胸に重いものが沈んだ。

自分の口から出たその言葉に、どこか取り返しのつかない響きを感じた。


「そんなこと言われても」

佐和子の声は、かすかに震えていた。

渡は言葉を飲み込んだ。

胸の奥で何かが軋み、喉の奥が重くなる。


「……じゃあ、どう返せばいいの?」

佐和子がぽつりと言った。

その声は、疲れの底から絞り出したようだった。


「そんなの、“はい、そうです”って返しておけばいいじゃないか」

「今さら? 昨日ならまだしも、一日も置いちゃってるのに、そんな簡単に返せないよね。適当なこと言わないでよ!」

佐和子の声が、静かな部屋を裂いた。

その響きが、ふすまの向こうの空気まで震わせた。


渡ははっとした。

ふすまの向こうには拓哉の部屋がある。

いつもなら生活音がかすかに伝わるのに、今夜は妙に静かだ。襖の向こうで拓哉が耳を澄ましているのかも知れないと思うと、背筋に冷たいものが走った。


渡は流しへ向かい、水を出した。

蛇口からの水音が、感情のかわりに部屋を満たしていく。


佐和子はもう何も言わなかった。

その沈黙が、声よりも鋭く渡の背を刺した。

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