表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第三章 渡と則彦の間で

朝の出社時、エレベーターの扉が開くと、渡の姿が見えた。

則彦は軽く会釈を返した。

「おはよう」

「おはようございます」

それだけ。

互いに一礼し、違う方向へ歩いた。


デスクに差し込む朝の光は白く、どこか冷たかった。

椅子に腰を下ろすと、昨夜のメッセージのことがふと頭をかすめる。

——返事はまだない。

たかが子どもの話だ。それなのに、胸の奥のざらつきが拭えない。

気にしすぎだ、と自分に言い聞かせながらも、心は落ち着かなかった。


「昨日、うちのが余計なメッセージを送ってしまってね」

そう切り出す想像をしてみる。

一言で済む話だ。

だが実際に口に出そうとすると、それはあまりに唐突で、不自然だった。

職場で家庭のことを持ち出すのは野暮だし、妻同士のやりとりに男が口を挟むのも違う気がする。


会議の合間、何度か渡の席のほうに視線を向けた。

彼はいつも通り、資料をめくり、淡々と報告をしている。

その表情に探るような気配はなく、むしろ何事もなかったかのような静けさがあった。


——もう、触れない方がいいのかもしれない。


そう思って視線を戻した瞬間、心のどこかに小さな針が残った。


***

定時の少し前。フロアの時計の針が、ほぼ同時に一分を刻む音を立てた。

則彦は書類を閉じ、席を立つ。


「お先に」

振り返ると、渡が軽く頭を下げた。

「お疲れさまでした」

その声は穏やかで、どこにも棘はなかった。

それでも、則彦の胸の中には、わずかな手遅れのような感覚が残った。

言葉を探すには、もう時間が遅すぎたのだ。


エレベーターの扉が閉まるとき、則彦はもう一度だけ、言葉を探した。

だが、何をどう切り出せばいいのか——

それが思いつかないまま、階数表示の数字が静かに降りていった。


***

オフィスに残った渡は、静かにため息をついた。

照明は半分落とされ、光と影の境目がデスクの上にできている。

奥田次長の席は、もう空だった。


パソコンの画面を前にしても、手は止まったままだった。

視線は書類を追っているようで、何も読んでいない。


朝から何度も機会はあった。

言葉を交わせば、それで終わったかもしれない。

けれど、どの瞬間も、ほんの一呼吸のためらいが口をふさいだ。

そのためらいが、今になって重くのしかかっていた。


言えば、気まずくなる。

言わなければ、何も変わらない。

そのどちらも選べずに、一日が終わっていく。


時計の針が十九時を指していた。

渡はマグカップを手に取り、ぬるくなったコーヒーを一口だけ飲んだ。

舌に残る苦みが、妙に現実的だった。


窓の外では、街の灯りが遠くまで伸びている。

同じ空の下で、それぞれの家が、同じ一日を終えようとしている。

渡はその光の群れをしばらく眺め、何も言わずに立ち上がった。

机の上の書類を整え、ゆっくりと出口に向かう。

背後で、自動扉が静かに閉まる音がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ