第三章 渡と則彦の間で
朝の出社時、エレベーターの扉が開くと、渡の姿が見えた。
則彦は軽く会釈を返した。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけ。
互いに一礼し、違う方向へ歩いた。
デスクに差し込む朝の光は白く、どこか冷たかった。
椅子に腰を下ろすと、昨夜のメッセージのことがふと頭をかすめる。
——返事はまだない。
たかが子どもの話だ。それなのに、胸の奥のざらつきが拭えない。
気にしすぎだ、と自分に言い聞かせながらも、心は落ち着かなかった。
「昨日、うちのが余計なメッセージを送ってしまってね」
そう切り出す想像をしてみる。
一言で済む話だ。
だが実際に口に出そうとすると、それはあまりに唐突で、不自然だった。
職場で家庭のことを持ち出すのは野暮だし、妻同士のやりとりに男が口を挟むのも違う気がする。
会議の合間、何度か渡の席のほうに視線を向けた。
彼はいつも通り、資料をめくり、淡々と報告をしている。
その表情に探るような気配はなく、むしろ何事もなかったかのような静けさがあった。
——もう、触れない方がいいのかもしれない。
そう思って視線を戻した瞬間、心のどこかに小さな針が残った。
***
定時の少し前。フロアの時計の針が、ほぼ同時に一分を刻む音を立てた。
則彦は書類を閉じ、席を立つ。
「お先に」
振り返ると、渡が軽く頭を下げた。
「お疲れさまでした」
その声は穏やかで、どこにも棘はなかった。
それでも、則彦の胸の中には、わずかな手遅れのような感覚が残った。
言葉を探すには、もう時間が遅すぎたのだ。
エレベーターの扉が閉まるとき、則彦はもう一度だけ、言葉を探した。
だが、何をどう切り出せばいいのか——
それが思いつかないまま、階数表示の数字が静かに降りていった。
***
オフィスに残った渡は、静かにため息をついた。
照明は半分落とされ、光と影の境目がデスクの上にできている。
奥田次長の席は、もう空だった。
パソコンの画面を前にしても、手は止まったままだった。
視線は書類を追っているようで、何も読んでいない。
朝から何度も機会はあった。
言葉を交わせば、それで終わったかもしれない。
けれど、どの瞬間も、ほんの一呼吸のためらいが口をふさいだ。
そのためらいが、今になって重くのしかかっていた。
言えば、気まずくなる。
言わなければ、何も変わらない。
そのどちらも選べずに、一日が終わっていく。
時計の針が十九時を指していた。
渡はマグカップを手に取り、ぬるくなったコーヒーを一口だけ飲んだ。
舌に残る苦みが、妙に現実的だった。
窓の外では、街の灯りが遠くまで伸びている。
同じ空の下で、それぞれの家が、同じ一日を終えようとしている。
渡はその光の群れをしばらく眺め、何も言わずに立ち上がった。
机の上の書類を整え、ゆっくりと出口に向かう。
背後で、自動扉が静かに閉まる音がした。