第二章 佐和子と聖子の間で
夕食の片づけを終えたころ、佐和子のスマホが小さな音を立てた。
画面に浮かんだのは「聖子」の名。渡の上司——奥田次長の妻であり、駿平の母だった。
表示されたメッセージは、たった一言。
「拓哉くんも学級委員に立候補するのね?」
それ以上でも、それ以下でもない。
だが、佐和子はしばらく指を動かせなかった。
自分の息子ながら、拓哉が学級委員に立候補すれば、相手が誰であろうと当選は確実だ。
ましてや、相手はあの駿平くんである。
クラスメートがそちらを選ぶはずがないことは、火を見るより明らかだった。
そんな結果が見えている中で、「お互いがんばろうね」とは返せない。
かといって、「そうなのよ!」と明るく返したところで、会話が転がり、いずれ“投票”の話に行き着くのは目に見えていた。
どんな言葉を選んでも、どこかの角に触れてしまう。
それがわかるからこそ、佐和子は画面を見つめたまま、指を止めていた。
「……どう返したらいいのかしら」
独り言のような声に、渡は顔を上げかけて、やめた。
湯気の立つ茶の表面がわずかに揺れ、その波紋のように言葉が遠のいた。
やがて画面が自動で暗転し、部屋の明かりだけが残る。
二人の間に流れる空気が、どこか薄く、頼りなく感じられた。
***
書斎の灯りを落とし、奥田則彦は静かに扉を閉めた。
廊下の先からは、食器の触れ合うかすかな音が聞こえてくる。駿平はすでに自室に引き上げ、居間には聖子だけがいた。
テーブルの上には、湯気を立てる急須と湯呑みが並んでいる。
聖子は湯を注ぎながら、何気ない調子で言った。
「ねえ、佐和子さん……既読はついてるのに、返事がないの」
則彦は椅子を引いて腰を下ろした。
「村上の奥さん?」
「うん。さっき“拓哉くんも立候補するのね?”って送ったの」
聖子の声は、まるで今日の天気の話でもするかのように軽かった。
湯呑を則彦の前にそっと置く。湯気がふわりと立ちのぼる。
「……まあ、返信しにくいんじゃないかな」
「どうして?」
「さあな」
それ以上の言葉は出なかった。
言えば角が立つ。黙れば違和感が残る。
——なぜ、こんな無邪気な言葉をためらいもなく送れるのだろう。
投票になれば、勝っても負けても何かが残る。
まして、部下の妻へ上司の妻が送れば、『辞退を促しているのでは』と受け取られてもおかしくない。
そんな想像ができないのは、聖子の気質ゆえだ。
幼いころから、彼女は周囲に守られて生きてきた。
義父母は、聖子をひとり娘として何不自由なく育てた。その甘やかしが、彼女の中に“空気を読む”という感覚を育てなかったのだ。
そして今、同じ甘さが孫の駿平にも向かっている。
義父母は同居を望んでやまないが、そんな環境では、駿平はますます弱くなってしまうだろう。
だからこそ、この歳にもなって社宅住まいをしている。
彼を“家族の庇護”から少しでも遠ざけるために。
「明日、会社で村上には一言フォローしておくよ。」
──確認しておく、ではない。
どこか、妻の不始末の尻拭いをするような響きがあった。
だが聖子は、そのわずかな含みに気づくそぶりさえ見せなかった。
則彦は湯呑を手に取った。
立ちのぼる湯気が鼻先をくすぐり、口に含んだ茶は少し苦かった。