第一章 村上家と奥田家の間で
全部で五章構成になっていますが、全部で6000字程度なので、すぐ読めると思います。
都心の一角。
周辺の高級マンション群に並べば、いささか場違いに古びた建物がある。
ここが、村上渡とその家族の住む社宅だった。
外廊下を渡る風は、夕げの匂いを運んでくる。
ありふれた夕暮れの社宅の一場面。渡はその素朴な空気が好きだった。
ただ、社宅は「人間関係が煩わしい」とよく言われる。
上司も部下も同じ棟に住み、顔を合わせれば職場の延長になり、そこに家族まで巻き込む。気を遣うばかりで息が詰まる、と。
そう言って社宅を避ける社員は少なくなかった。
だが渡には、その感覚がどうにも理解できなかった。
同じ会社の者同士だからこそ、暮らしは静かに整う。隣人とのトラブルもほとんどない。半年に一度の一斉清掃でも、誰ひとりさぼらない。
家族ぐるみの付き合いが社内の調整を軽くすることもある。妻にこぼす愚痴も「誰々のお父さん」の話となれば、むしろ笑い話に変わる。
渡には、むしろ普通のマンションより暮らしやすいように感じられた。
そんなある日のことだった。
夕食を並べようとしていた妻の佐和子が、ふと口にした。
「拓哉、先生から学級委員にどうかって言われたみたい」
「そうか」
渡は短く応じた。
小学四年の息子・拓哉は、成績もよく、運動神経にも恵まれている。クラスの輪の中心に立つことも多く、教師からの信頼も厚い。学級委員という言葉は、自然と彼に結びつくように思えた。
ところがそのとき、佐和子は言葉を継いだ。
「それがね……駿平くんも、立候補するらしいの」
渡の手が止まった。
駿平——同じ社宅に住む奥田則彦次長のひとり息子。渡にとって則彦は直属の上司で、尊敬する人物でもある。
その息子は、どちらかといえば不器用で、学業にも運動にも目立ったところはない。そんな駿平が、自分から「やる」と言ったという。
食卓の上で、湯気がゆらめいた。
渡の胸の奥に、微かな揺らぎが広がる。理由のわからぬ波紋だった。
ただ、その夜の記憶の底に、確かに残った。
***
同じ棟の別戸、奥田則彦は書斎の椅子に腰を沈めていた。
居間からは駿平と聖子の声が洩れてくる。
少し上ずった駿平の声。いつもより言葉がはっきりしている。学級委員に立候補すると言い出したのだ。部下の村上渡の息子、拓哉も立候補しているから、投票による多数決でどちらかに決まるらしい。
「いいじゃない、駿平」
聖子の明るい声。ためらいも含みもない。
則彦は目を閉じ、額に手を当てた。
——投票になるのか。
駿平と拓哉で投票になれば、結果は見えている。誰の目にも、どちらがふさわしいかは明らかだ。
冷静に言えば、答えは決まっている。
けれど、学級委員など所詮はクラスの雑事を担う役目だ。どちらがやっても大差はない。
今日の駿平の声には、いつもと違う張りがあった。引っ込み思案な性格もあって目立たないが、能力が低いわけではない。きっかけさえあれば、伸びるかもしれない。
自分から「やりたい」と言ったのだ。この役目を担わせ、飛躍の糸口にしてやりたい。
それなのに投票とは……。
もし落ちれば、芽生えたばかりの小さな芽を摘むことになる。
重ねて拓哉のことを思う。
勉強でも運動でも、彼にはこの先いくらでも活躍する舞台が用意されるだろう。拓哉にとって学級委員は大したことのない役目であるはずた。
一方、駿平には大きなきっかけになり得る。
ふと、心に浮かぶ。
もし——もし拓哉が譲ってくれたなら。
駿平の芽は、誰にも踏まれずにすむのではないか。
則彦は深く息を吐いた。
それは苦しみにも似ていたが、声にはならなかった。机上の書類の端が揺れて見え、思いだけが夜の静けさに残った。
次は第二章です




