表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第一章 村上家と奥田家の間で

全部で五章構成になっていますが、全部で6000字程度なので、すぐ読めると思います。

都心の一角。

周辺の高級マンション群に並べば、いささか場違いに古びた建物がある。

ここが、村上渡とその家族の住む社宅だった。


外廊下を渡る風は、夕げの匂いを運んでくる。

ありふれた夕暮れの社宅の一場面。渡はその素朴な空気が好きだった。


ただ、社宅は「人間関係が煩わしい」とよく言われる。

上司も部下も同じ棟に住み、顔を合わせれば職場の延長になり、そこに家族まで巻き込む。気を遣うばかりで息が詰まる、と。

そう言って社宅を避ける社員は少なくなかった。


だが渡には、その感覚がどうにも理解できなかった。

同じ会社の者同士だからこそ、暮らしは静かに整う。隣人とのトラブルもほとんどない。半年に一度の一斉清掃でも、誰ひとりさぼらない。

家族ぐるみの付き合いが社内の調整を軽くすることもある。妻にこぼす愚痴も「誰々のお父さん」の話となれば、むしろ笑い話に変わる。

渡には、むしろ普通のマンションより暮らしやすいように感じられた。


そんなある日のことだった。

夕食を並べようとしていた妻の佐和子が、ふと口にした。

「拓哉、先生から学級委員にどうかって言われたみたい」

「そうか」

渡は短く応じた。

小学四年の息子・拓哉は、成績もよく、運動神経にも恵まれている。クラスの輪の中心に立つことも多く、教師からの信頼も厚い。学級委員という言葉は、自然と彼に結びつくように思えた。


ところがそのとき、佐和子は言葉を継いだ。

「それがね……駿平くんも、立候補するらしいの」

渡の手が止まった。

駿平——同じ社宅に住む奥田則彦次長のひとり息子。渡にとって則彦は直属の上司で、尊敬する人物でもある。


その息子は、どちらかといえば不器用で、学業にも運動にも目立ったところはない。そんな駿平が、自分から「やる」と言ったという。


食卓の上で、湯気がゆらめいた。

渡の胸の奥に、微かな揺らぎが広がる。理由のわからぬ波紋だった。

ただ、その夜の記憶の底に、確かに残った。


***

同じ棟の別戸、奥田則彦は書斎の椅子に腰を沈めていた。

居間からは駿平と聖子の声が洩れてくる。

少し上ずった駿平の声。いつもより言葉がはっきりしている。学級委員に立候補すると言い出したのだ。部下の村上渡の息子、拓哉も立候補しているから、投票による多数決でどちらかに決まるらしい。


「いいじゃない、駿平」

聖子の明るい声。ためらいも含みもない。

則彦は目を閉じ、額に手を当てた。

——投票になるのか。


駿平と拓哉で投票になれば、結果は見えている。誰の目にも、どちらがふさわしいかは明らかだ。


冷静に言えば、答えは決まっている。

けれど、学級委員など所詮はクラスの雑事を担う役目だ。どちらがやっても大差はない。


今日の駿平の声には、いつもと違う張りがあった。引っ込み思案な性格もあって目立たないが、能力が低いわけではない。きっかけさえあれば、伸びるかもしれない。

自分から「やりたい」と言ったのだ。この役目を担わせ、飛躍の糸口にしてやりたい。

それなのに投票とは……。

もし落ちれば、芽生えたばかりの小さな芽を摘むことになる。


重ねて拓哉のことを思う。

勉強でも運動でも、彼にはこの先いくらでも活躍する舞台が用意されるだろう。拓哉にとって学級委員は大したことのない役目であるはずた。

一方、駿平には大きなきっかけになり得る。


ふと、心に浮かぶ。

もし——もし拓哉が譲ってくれたなら。

駿平の芽は、誰にも踏まれずにすむのではないか。


則彦は深く息を吐いた。

それは苦しみにも似ていたが、声にはならなかった。机上の書類の端が揺れて見え、思いだけが夜の静けさに残った。

次は第二章です

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ