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第9話 呼吸が合う水

 水曜の放課後、路面電車の窓に雨上がりの雲が薄く流れた。ホームのベルが二度鳴り、オイントラムはゆっくりオインタウンの角を曲がる。ボクは車内で鞄の中身を確認した。ゴーグル、スイムキャップ、タオル。スマホの画面には「19:30 レーン3」とだけ表示されたメッセージが光っている。余計なやり取りはない。合図はそれだけで足りた。


 スクールの自動ドアが開くと、湿った空気が体にまとわりついた。受付でカードをタッチし、ロッカーに向かう。更衣室の鏡に映る自分の顔は、少し緊張している。髪を手早くまとめ、シャワーを浴びてからプールサイドへ出ると、天井の照明が水面に細い銀色の道を敷いていた。レーンロープに区切られた水が、時間ごとに表情を替えるのが分かる。


 観覧席に上がる階段の壁に、色あせた大会ポスターが並んでいる。地方予選の写真、記録会の案内。端の一枚に、背泳ぎのスタート姿勢をとる少女の横顔があった。キャップに小さく「MINASE」と印字されている。水の粒が飛沫になって頬に貼りつき、目だけがまっすぐ前を見ている。日付は五年前。ボクは思わず足を止めた。


「それ、やめてほしいんだけどね。」


 すぐ後ろから声がして振り向くと、真澄が立っていた。視線はポスターではなく、ボクの表情を見ている。


「かっこいいよ。」


「若かっただけ。」


 彼女は肩をすくめ、先に歩いた。階段の踊り場のガラスに、今の彼女と過去の横顔が一瞬だけ重なる。二枚が重なって、すぐ離れた。


 レーン3の手前で、真澄が腕時計をちらりと見て、ボクに頷いた。ジャージの袖を肘までまくり、笛は首から下げていない。彼女は指で「一度だけ」と合図した。


「入る前に、深呼吸を一回。数えずに、広く吸って、静かに吐く。水はそれを覚えるから。」


 ボクは縁に指を添え、胸いっぱいに吸った。塩素の匂いの手前に、わずかな金属の味。吐く息がゆっくり肩を落とす。真澄は頷いて、続けた。


「最初の二往復は、なにもしない。速く泳がない。数えない。水が決める速度で泳いで、帰ってきて。」


 了解の代わりに、ボクは静かに水へ滑り込む。肩の線を壊さないように、掌の角度だけを意識して、ひと掻き、もうひと掻き。耳の外で波が立つ音、内側で泡が弾ける音。意識を手放すと、速度が勝手に決まっていく。二十五をタッチして折り返す。天井の梁が、一定の間隔で流れる。


 戻ると、真澄はレーンロープに片手を置き、短く言った。


「いまのは“何もしない”の中に、ちょっとだけ欲が入った。最後の五メートルで、指が水を追い越してた。」


「追い越す?」


「そう。水より速く動くと、相手が離れる。人でも、同じ。」


 比喩の奥で、観察が立っている。ボクは頷き、もう二往復。最後の五メートル、指先の角度をほんの少しだけ変え、呼吸を小さくする。水がわずかに近づき、肩の前で収束する感覚。縁に上がると、真澄の口元に小さな笑いが乗った。


「さっきより、寄った。じゃあ、次。」


 彼女はボードに白い線で円を描いた。レーンの幅の半分ほどの、見えない輪。


「ここで“静水”を作るよ。私が作るんじゃない。よしちんが作る。揃えるんじゃなくて、合う。呼吸を合わせるだけで、音が薄くなる瞬間が来る。探して。」


 ボクはうなずき、指定された位置に浮いた。仰向けで、背面を水に預ける。天井の白が目にしみる。吸う、吐く。胸が上がり、下がる。左耳に水、右耳に空気。波紋がロープにぶつかる音が、だんだん遠ざかる。合う――という言葉が体のどこかに届いた瞬間、世界が半歩だけ静かになった。音ではなく、ざわざわの粒が引く。胸が水に沈みすぎず、浮きすぎない。


「いま。」


 真澄の声が、届く。目を開けると、彼女の掌が水に半分沈んでいた。掌の周りの泡がほどけるように消えていく。ボクの呼吸と、真澄の掌の沈み方が、同じテンポで上下している。偶然と必然の境目に、薄い膜が張る。


「それが“合う”の入り口。」


 立ち泳ぎに切り替えると、ふくらはぎに柔らかい流れがまとわりついた。真澄はレーンの外に下がり、板に次の図を描く。


「背泳ぎ。目線は天井の二本目の梁。呼吸は“吸う二、吐く四”。数えなくていい。体が覚えれば、数は勝手についてくる。」


 背中から入水して、静かに伸びる。梁の影が二本目で止まるように、顎を上げすぎず、胸を沈めすぎず。吐く息を長くすると、肩の後ろに水がまとまり、耳の横で音が薄くなる。二十五を折り返すと、さっきよりも体が軽い。戻ると、真澄は「いいよ」とだけ言った。


「ドリルを入れよう。スカーリング。手首だけで揺らすんじゃなくて、前腕まで使って、たらいの水を押さえて逃さないみたいに。骨で押すんじゃない、皮膚で包む。」


 プールの端で前傾になり、両手を胸の前で左右に切る。手首を固めると水がざらつき、柔らかくすると掌の下で水がつながる。視線を落とすと、指の間の泡が丸くなった。真澄は「それ」と短く合図する。


「次はサイドキック。体の側面で水を感じる。キックの音が大きいのは“頑張ってるふり”。静かに、薄く、でも切らさない。」


 横向きで進むと、脇腹に水の帯がまつわりつく。呼吸が上に逃げようとするのを、胸の針で抑える。二十五、往復。戻ると、真澄は顎に手を当て、少し遠くを見る目で言った。


「うん、合う。……ねえ、私の話、少ししてもいい?」


 ボクは縁に肘を置き、頷いた。


「高二の夏。県の予選で、最後の五十の後半で肩が熱くなった。熱いのに、冷えるみたいな変な感じ。タッチしたあと、腕が上がらなかった。そこから“水が重い”日が続いて、誰にも言えなかった。言葉にしたら、そこで全部終わる気がして。……でも、言わなくても、終わるものは終わるんだよね。」


 真澄は笑おうとして、笑い切らないまま息を吐いた。


「それでもプールに来た。来ないと、もっと嫌われる気がしたから。走っても、筋トレしても、戻らないものがある。じゃあ、違うところを鍛えようと思った。呼吸。合うこと。水に寄ること。そうしたら、少しだけ、扉が開いた。昔は海のオープンウォーターに出てみたかったけど、今は、目の前の人の中に海を見ればいいんだって思えるようになった。」


 彼女は掌を水に沈め、またあの薄い膜を作った。止まる一秒。音が引く。ボクの胸の針が、それに呼応してかすかに止まる。


「合うのは、優しさじゃない。甘えでもない。合わせるって、相手を見ないとできないから。私がよしちんを誘ったのは、昔から“見ようとする目”を持ってたから。」


 胸の奥が熱くなる。言葉が喉でほどけ、形にならない。真澄はそれ以上は踏み込まず、ボードの図を消して、さらりと言った。


「じゃ、続き。キャッチアップ。片手を前で待たせて、もう片方で掻く。急がない。待つことを、体に教える。」


 キャッチアップに入ると、焦りが露わになる。待てない。掻きたい。進みたい。ボクは自分の欲の重さを水に見せられて、少し笑った。戻ると、真澄も笑った。


「それそれ。欲は悪くない。見えてると、扱える。」


 そのあとの時間は、ゆっくり削られていく鉛筆みたいだった。太かった線が細くなり、尖りすぎる前で止める。真澄は合図を減らし、ボクの呼吸に合わせて視線だけで指示を出した。何度か、また“音が薄くなる瞬間”が来た。来るたびに、胸の奥に小さな灯りが増えた。


 どこかのレーンで、子どもたちの笑い声が上がった。遅い時間の親子コースだ。小さな浮き輪が波を立てる。真澄はわざとそのタイミングに合わせて、ボクにもう一度静水の円を作らせた。雑音の中の静けさ。できる。ほんの一秒。でも、確かに。


「そこで、終わり。」


 真澄が区切った。体を縁に引き上げると、脚が少し震えていた。疲労の震えというより、何か細い線を渡り切ったあとの余韻だ。タオルを受け取り、髪を押さえる。真澄はボードを脇に抱え、短く言った。


「今日はここまで。……よくできたね。」


 それだけで十分だった。ボクは頷き、シャワーで塩素の匂いを流す。更衣室で服を着替え、ドライヤーの音を背中で聞きながら、さっきの静けさを反芻する。音が薄くなる一秒。胸の針。寄る水。言葉は少しずつ増えるのに、核心はまだ名前を持たない。


 ロビーに出ると、夜のオインタウンはすでに閉店のアナウンスに切り替わっていた。ガラスの向こうに駐車場の灯り。雨は上がり、アスファルトに水の筋が残っている。自動ドアの外で深呼吸をひとつ。外気が肺に入ると、体の内側に残っていた水温が薄くなった。


「よしちん。」


 呼ばれて振り向くと、真澄がジャージの前を小さく引き寄せながら立っていた。髪はまだ少し濡れていて、照明の下で暗い色に光る。


「今日の“合う”、忘れないで。来週は、もう少しだけ踏み込む。」


「どこまで?」


「水を止める、の一歩手前。照明が落ちる時間に合わせる。音が少ないほうがいいから。」


 止める。あの“止まる一秒”を、意図して作る。その意味を想像して、喉が乾いた。自販機で水を買って一口飲むと、舌の奥に薄い金属の味。プールと同じ味がした。真澄は笑って手を振り、スタッフ用の通用口に消えた。


 駅までの通路を歩く。動く歩道の上で、今日の練習の断片が順番を変えながら浮かんでは沈む。肩の線、背中の梁、胸の針。スカーリングの泡。待つキャッチアップ。スマホが震いた。画面に短い通知。ユイからだった。『掲示、明日朝一で貼り替え。余白は昨日と同じ。』短いのに、安心する。ボクは『了解』とだけ打った。すぐに、もうひとつ通知。アカネ。『金曜、退屈潰す。遅れるな。』ボクは苦笑して、『検討中』と返した。


 路面電車のホームに着くと、レールの間に雨水が溜まり、薄い星の反射を抱いていた。電車が来るまでの数分、ボクは池の縁に立つみたいにその水面を見つめた。呼吸を合わせる。水が寄る。薄い膜が張る。たぶん、ここでも作れる。作れたとして、それが何に繋がるのかは、まだ分からない。それでも、針は前に進む向きに止まっていた。


 電車に乗って、ひと駅だけ先の恩音中央公園で降りた。公園の池は、夜の照明に押しつぶされて鈍い色をしている。ベンチに腰を下ろし、誰もいないのを確かめてから、そっと息を合わせてみる。吸って、吐く。プールほど敏感ではない。でも、風が弱まった瞬間、池の一角で波紋が薄く重なり、音が引いた。ほんの一秒。ボクは思わず笑った。ユイと座ったベンチの板に、今度は別の線が刻まれる。


 家に帰ると、母が「遅かったわね」と言い、ボクは「練習」とだけ答えた。夕食の皿の上で湯気が薄く立ちのぼる。湯気も水だ、とどうでもいいことを思いながら箸を動かす。食後、机に向かってノートを開く。『合う』『止める一秒の前』『片手で骨を立てる』『乱れの中の静けさ』『スカーリング=包む』『待つキャッチアップ』『池でも薄い一秒』。短い行で並べる。ページの端が湿って、指に冷たい感触が残った。


 風呂の湯に浸かると、全身の筋肉が順番にほどけた。水温はプールより高い。胸の針はすぐに溶けて形を崩す。それでも、底に薄い線だけが残る。湯から上がって、髪を乾かし、ベッドに倒れ込む。目を閉じると、真澄の掌が水に沈む瞬間が、また来た。今度は、彼女の肩の古い痛みが影のようにそこに重なる。水は誰にでも優しいわけじゃない。嫌うこともある。彼女はそれを知っていて、まだそこに立っている。


 スマホが一度だけ震えた。真澄から。『今日はありがとう。次は少しだけ難しくなる。怖かったら、途中でやめてもいい。でも、たぶん大丈夫。よしちんなら、合うから。』


 返事を打つ前に、ボクは一度だけ深呼吸をした。吸って、吐く。肺が広がる間に、名前のない色が胸の内側で薄く揺れた。『了解。来週も、行く。』送信。画面を伏せる。


 灯りを消すと、暗闇の中で今日の水が静かに沈んだ。耳の奥で、泡が弾ける音が遠ざかる。眠りに落ちる手前で、あの輪――見えない静水の円が、ボクの周りにもう一度だけ張られた気がした。そこに体を預ける。薄い膜が、崩れずに持つ。


 玄関のマットに落ちた水滴が、円を描くように寄り合って、一つにまとまった。気のせいだ、と言い聞かせる前に、それは乾いた。


 次は、その膜の向こう側へ。止める一秒の、前。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

今後の更新予定日は【火曜・金曜】の22:00です!

よろしくお願いいたします!

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