第8話 水面に揺れる記憶
オインタウンの東側、駐車場の端にガラスの箱みたいな建物がある。入口に描かれたイルカのロゴは少し色あせて、だけど夜になると青く光る。ここが「オインタウン水泳スクール」。ボクは小学生のころから、夏も冬もこの匂いに通ってきた。塩素とゴムと、少しだけ金属の匂い。息を吸うと肺の奥が冷えて、体が思い出す。ここでは、うまく息継ぎができなかったことも、初めて二十五メートルを泳ぎ切った日の眩しさも、全部水にしまってある。
自動ドアが開くと、室内の水音が一段だけ大きくなる。ガラス越しに見えるメインプールでは、子どもたちが列になってバタ足をしていた。白い泡が縁に寄せられ、天井の照明が水面に千枚の刃みたいな光を落とす。その向こう、プールサイドに立つ指導員の横顔を見た瞬間、胸の奥の何かが呼吸を変えた。
水無瀬真澄――二十一歳。今はスクールの若手指導員。昔はここで一緒に水に触れてくれた年上の選手で、ボクの最初の“やさしい先生”。肩で揃えた髪は濡れても形が崩れにくいように結われ、スタッフのジャージの下から、鍛えられた背中のラインがわずかに見える。声は以前より少し低く、でも透きとおってよく通る。笛を使わなくても、視線が集まった。
「列を崩さないで。はい、三歩進んで、揃えて、吸って――吐く」
号令は大きくない。それなのに、子どもたちのキックの音が同じテンポに整っていく。真澄が掌を軽く下ろすたび、水面の泡立ちがすっと薄くなる。光が一瞬だけ静まり、また砕ける。気のせいだと言い切れるけれど、ボクの目はその“揃っていく瞬間”を見逃さない。胸の内側で、波が昔のリズムを探し始めた。
受付を済ませ、ロッカーでジャージを畳む。鏡に映る自分の顔を見て、思わず苦笑する。高校一年、成長途中の体つき。筋肉がついたところもあれば、まだ頼りないところも残っている。シャワーをくぐると、皮膚が一枚薄くなったみたいに感覚が冴えた。
水に入る前に、プールサイドで一瞬だけ目を閉じる。小学生の頃の記憶は、水に触れるたびに勝手に起き上がる。最初の頃、ボクは顔を水につけられなくて、何度も途中で立ち上がった。咳き込み、悔しくて泣きそうになって、それでも誰にも見られたくなくて唇を噛んだ。その肩に触れた手があった。
『だいじょうぶ。嫌がると、水も嫌がるよ。』
それが真澄だった。中学生で、選手コースの練習を終えたあと、時々ボランティアで低学年のクラスを見に来ていた。「義隆、って言いにくい。よしちん、こっちのほうが速そう」と笑って、ボクの額の水を指で払った。あのとき、塩素の匂いの向こう側に、別の涼しい匂いがした気がした。名付けられる前と後で、世界の色が少し違って見えることを、ボクは水の中で初めて知った。
今、足先で水を探る。温度は記憶どおりで、ほんの少しだけ季節の端に寄っている。縁から滑り込むと、身体の周りに薄い膜ができる。耳の外では歓声と笛、耳の内では鼓動と泡の音。クロールでゆっくり二往復、フォームを確かめる。肩の可動域、肘の角度、入水の深さ。昔ほどは速くない。でも、沈まない。沈まずに進むだけで、今は十分だ。
壁をタッチして顔を上げると、真澄がこちらを見ていた。手の甲で水滴を払って、口元だけで笑う。
「久しぶり、義隆。……いや、やっぱり、よしちん。」
「今でもそれ、使うの?」
「当たり前でしょ。私の中で、その名前のほうが速いんだから。」
軽口の調子は昔のままなのに、視線の奥にあるものは変わっていた。教える側の目だ。誰かをきちんと見て、崩れないように支える責任の色。ボクは縁に肘をかけて息を整える。心拍が少し速い。運動のせいだけじゃない。
「時間、大丈夫? 少しだけ見るよ。」
「……お願いします。」
コーチ台が空く時間帯だった。真澄はスケッチブックのような防水ボードを手に取り、白い線で簡単な図を描く。ストロークの弧、体幹の向き、視線の落ちる位置。説明は短く、要点が早い。ボクは頷き、水に沈む。
言われたとおりに、息を吸って、三カウントで吐く。右、左、右。視界の端に天井の梁が流れていく。二十五をターンして戻ると、真澄が足元の水を指でそっと触れた。
「今の、最後の四ストロークだけ呼吸が乱れたね。水が少し広がってた。」
「広がってた?」
「うん。体から離れてた。水が嫌がると、触ろうとする手を避けるから。」
擬人化だ、と一瞬思う。けれど、真澄が言うとそれは比喩ではなく観察の言葉に聞こえる。ボクはもう一度泳いだ。今度は最後まで呼吸を揃える。戻ると、彼女は短く頷く。
「いい。今のは、水が寄ってた。」
言い方が好きだった。技術の話をしているのに、身体や数字を越えたところで世界を撫でている感じ。ボクは縁に腰掛け、足を水に浸す。ふくらはぎを撫でる流れが、さっきより穏やかだ。
「選手は、やめたの?」
思い切って聞くと、真澄は少しだけ目を細めた。天井の光が瞳に細い線を引く。
「やめたよ。高校の最後で、肩を壊した。完全にじゃないけど、前みたいには回せない。だから、教えるほうに来た。水から離れないために、ね。」
あっけらかんと言うけれど、その一行の裏で何度も夜が明けたことを、ボクは想像する。彼女の肩に残る薄いテープの跡、ジャージの中で動く呼吸。失ったものと残ったものの重さは、人に見せると軽くなるわけじゃない。だけど、言葉にしないと動かない種類のものもある。真澄はそれを知っているから、今ここにいる。
「……それでも、ここにいるのは、好きだから?」
「うん。水が、まだ私を嫌ってないから。」
そう言って、真澄はプールに片手を差し入れた。掌が水に沈む瞬間、波紋が広がりかけて――止まる。止まった、ように“見えた”。一瞬だけ、光が薄い膜を作って、彼女の手の形に沿って水がまとまる。呼吸を合わせると、音が小さくなる。心拍が水に移る。ボクは思わず息を止めた。
彼女は何も言わずに手を上げ、指先から滴が落ちるのを見届けてから、立ち上がった。エクスプレッション。その言葉が頭の中に浮かぶ。誰にも教えられていない種類の“調律”。彼女はそれを、当然のように、しかし見せびらかさずに持っている。
子どもクラスが終わると、プールは急に静かになった。水面のざわざわが一枚の薄い布みたいになって、照明の白をゆっくり返す。真澄は時計を見て言った。
「一般の枠まで、あと三十分。よしちん、泳ぎたいなら、もう一往復、フォームだけ。」
「わかった。」
もう一度、入水。さっきより深く、長く伸びる。壁と壁の間で、世界は単純になる。伸びるか、沈むか。呼吸を忘れないこと。隣のレーンを年配の男性がゆっくり歩いている。水はそれぞれの速度に合わせて別の形になる。速度が違っても、同じ水だ。
上がると、真澄がタオルを差し出した。ジャージの袖口からのぞく腕に、日焼けの跡が残っている。夏の積み重ねの色。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
タオルで髪を押さえながら、彼女は笑って言った。
「ねえ、来週の水曜、時間ある? 選手コースの枠が空くの。レーン一つ、貸せる。」
胸の奥で、何かが静かに跳ねた。以前、夜に届いたメッセージと同じ文面。あれは、彼女からだったのだ。
「……ある。行く。」
「じゃあ決まり。細かい時間はまた送る。」
会話はそれだけ。約束はそれだけで十分だった。ボクは頷き、ロッカーへ向かった。廊下の床は濡れて、ライトの光が細く揺れている。シャワー室からは打ち付ける水音。ドライヤーの温風が耳をくすぐる。髪の根元が乾くと、昼間の汗と夜のプールの匂いが、混ざらずに並んでいることに気づく。
更衣室を出ると、ガラスの外にオインタウンの夜景が広がっていた。駐車場のランプが真珠みたいに点々と続き、遠くではオイントラムがゆっくり曲がり角を抜けていく。ガラスに映る自分の顔は、いつもより少しだけ色が濃い。水が残した色だ。
エスカレーターを降りると、フードコートの端で、部活帰りらしい中学生が紙コップの氷を鳴らしていた。映画館から出てくる人の流れ、ゲームコーナーから聞こえる電子音、ベビーカーの車輪。るるぽーしょん恩音とは違う、オインタウンの生活の音。ボクはベンチに座り、スマホを取り出して時間を確認する。通知は一つ。クラスの連絡。もう一つ来るはずのメッセージは、まだ来ない。
ふと、ガラスの外を白い雨粒がかすめた。降り始めたらしい。駐車場に出るのをやめて、モール内の連絡通路を歩く。冷房の風が濡れた腕の皮膚を薄く締める。通路の途中で、掲示板に足が止まった。学校のボランティア募集の紙が新しくなっている。角のテープの貼り方、余白の取り方。ユイの“基準”の指が、ここにも薄く触れていた。青藍の線は、こんなところまで伸びている。ボクは指先で空を弾く真似をして、息を整えた。
オインタウンを出るころには雨脚が強くなっていた。屋根のある場所を選んで駅へ向かう。路面電車のホームで、濡れたレールが街灯を二本に裂く。電車が来るまでの短い時間に、ボクは今日の水の手触りをもう一度思い出す。寄ってくる水、離れていく水。嫌がる水、受け入れる水。言葉にすると逃げてしまうけれど、体は覚えている。
家に帰り、机に向かってノートを開いた。ユイの回で使ったページの続きに、新しい見出しを書く。「水」。その下に、今日の感覚を短い行で並べる。『吸う三、吐く三』『最後の四で乱れ』『水が寄る』『止まる一秒』『掌の膜』。言葉は簡単にしかならない。それでも書いておく。言葉にしておかないと、次のときに同じ場所に立てないから。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、スマホが震えた。画面に浮かんだ名前に、指先が一瞬だけ固まる。水無瀬真澄。短いメッセージ。
『来週水曜、19:30から。レーン3。入る前に一度だけ深呼吸して。入ったら、最初の二往復は何もしないで泳いでみて。』
指示は具体的で、余白がある。ボクは『了解』とだけ返す。送信を押した瞬間、胸がすっと軽くなった。約束の線の上に、体が乗った。
ベッドに横になって天井を見つめる。瞼の裏で、水面が薄く揺れる。真澄が手を沈めたときの、あの“止まる一秒”を何度も再生する。あの一秒は、ボクの中にある別の一秒――アカネの赤銅が机の端を焦がした朝の一秒、ユイの青藍が時間を置いた池の十五分の中の一秒――と、細い線で繋がった気がした。色は違うのに、どれも温度を持っている。温度のちがいが、ボクを同じ場所に連れてくる。
目を閉じる前に、もう一度だけスマホを開く。未読が一つ増えていた。アカネからだ。『今度の金曜、オインモールで退屈潰す。来る?』という短い文。笑ってしまう。返信は急がない。今は、水の線を優先する。『また連絡する』とだけ打って、送信する。
窓の外で雨が静かに続いている。街の灯りが水に砕かれ、細かい粒になって流れていく。耳の奥で、路面電車のベルが一度だけ鳴った。寝返りを打つと、シーツの涼しさが皮膚に広がる。眠りの手前で、真澄の声が浮かぶ。『入る前に一度だけ深呼吸して』――合図はそれだけ。線はもう引かれている。あとは、水に入るだけだ。
眠りに落ちる直前、ふと、押し入れの奥にしまった小箱のことを思い出す。進級のたびにもらったワッペンや参加賞のメダルが無造作に入っている箱。子どものころは誇らしくて何度も蓋を開けては並べ替えていたのに、中学に上がるころには触れなくなった。できるだけ忘れたかったからだ。速くなれない自分を見たくなかったから。箱は重くはないのに、持ち上げるたび、胸の奥が沈むあの感覚。もし次の水曜がうまくいったら、久しぶりに蓋を開けてみよう。埃を払って、一枚だけテーブルに出してみる。過去に触れるのは苦手だ。でも、水は過去を薄めずに、新しい温度で包むことができる。今日の真澄の手がそうだった。あの膜に、ボクは何度でも触れられる気がする。
そしてその先で、ボクはまだ知らない“水の次”を見ることになる。名前を持たない色が、今夜の雨に静かに混じっていく。
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