第7話 静謐に揺れる青藍
体育館は朝の匂いがした。ワックスと木の粉、湿った空気に混じる汗の気配。バレー部のネットが張られ、ボールが天井の鉄骨に低く響く音を残す。ボクは扉の脇で靴紐を結び、ユイの声を待った。
「一列、間隔を一定に。サーブ練、二十分」
短い指示で、人の配置がすっと整う。ユイはホイッスルを首にかけたまま吹かない。代わりに、手のひらを軽く上げて、下ろす。その上下だけで、全員の呼吸が揃う。ボクはコートの端に立ち、球拾いをしながら、そのリズムに自分の体の内側が勝手に合わせられていくのを感じていた。
青藍の視線が、線を引く。まるで目に見えない糸がコートの上に張られて、そこからはみ出すと足首が軽く引かれるみたいに、隊列が乱れない。ユイは怒鳴らない。誰も急かさない。ただ、基準をそこに置く。置かれたものに、みんなが従う。
サーブの順番がボクに回ってきた。フォームを作り、呼吸を吸う。ネットの向こうでユイが小さく頷いた。それだけで肩の力が抜け、ボールは思っていたより素直に高く上がり、白い軌道のままコートに落ちた。床に触れた瞬間の、軽い破裂音。ユイが「いい」と短く言った。褒められた、というより、正しい位置に置けた、という感覚だった。
練習が終わる頃、窓から差す光が少し強くなっていた。ボクがボールを片付けていると、ユイが近づいてきた。汗で前髪が額に貼りつき、いつもより少し幼く見える。
「藤井くん。昨日の続き」
「基準の、話?」
「それも。——見せるね」
ユイはコートの中央に立った。誰もいないのに、そこに円が描かれたみたいに見える。彼女は壁側の時計を一度見て、息を整え、床に落ちていたボールを片手で軽く弾いた。弾んだボールが肩の高さまで戻ってきたとき、ユイはそれをキャッチする直前に、手のひらをわずかに止める。
音が小さくなる。
ほんの一秒に満たない瞬間だった。けれどボクには、ボールが空中で動きを躊躇したように見えた。躊躇、という言葉がふさわしいかどうか分からない。ただ、ボールの軌道が微かに、基準線に沿って修正されたように感じたのだ。ボールはユイの手の中に、ほとんど音もなく収まった。
「揃えるだけじゃ足りないときがある。揃い過ぎて、動けなくなるから」
ユイはボールをもう一度弾き、今度はキャッチせずに肩の後ろへ流した。床に触れる寸前、ボールがふっと浮く。実際には浮いていない。そう頭では理解していても、目は別の答えを映す。青藍の線が、何かを微調整している。その何かを、ボクの言葉はまだ持っていない。
「私は線を引くことが得意。でも、線は人を切ることもある」
「切る?」
「区切る、かな。——境界が強すぎると、そこから先に行けなくなる。だから、基準に“遊び”を入れる」
ユイはボールをネットの向こうへ押し出し、ボクを見た。
「昨日の掲示も、そうだよ。正しく貼るだけなら簡単。でも、人が立ち止まりたくなる余白は、数字で決められない」
ボクは頷いた。ユイが見せたのは、エクスプレッションの片鱗なのだと直感した。感情に動かされる力でも、豪快な技でもない。青藍の線で、世界のテンポを小さく調律する。名前のない仕草に、誰かが気づけば、流れが変わる。
体育館の扉が開いて、後輩が数人入ってきた。ユイはいつもの委員長の声で指示を出し、片付けの段取りを整える。ボクはモップを引きながら、先ほどの静かな瞬間を何度も反芻した。音が小さくなる一秒。その一秒の向こうに、まだ知らない青藍がある。
授業は流れた。国語の教科書は季節の詩に入り、数学の板書は微分の予告で終わり、英語のリスニングはヘッドフォンの擦れる音がやけに大きかった。昼休み、アカネが机に突っ伏しながら「眠い」と呟く。ボクが笑うと、彼女は片目だけ開けて「よしちんは?」と言う。ユイはそれを横目に見て、机の角に揃えたプリントの端を指で軽く叩いた。音はほとんどしない。叩く、というより、整える。彼女の指先の動きは、朝の一秒とよく似ていた。
放課後、中央公園の掲示板を確認してから、るるぽーしょん恩音へ向かう。エントランスの吹き抜けは昨日よりも人が多い。週末のイベントの準備が加速しているのだろう。スタッフの足音、エスカレーターの機械音、誰かの笑い声。音が多いのに、空気は騒がしくない。線が引かれているからだ。ユイは二階の掲示スペースで立ち止まり、紙の端に指を滑らせた。
「昨日の“遊び”、効いてる」
誰かがポスターの前で足を止め、スマホを構える。それを見て、ユイがごく小さく笑う。笑いは短く、けれど確実に存在した。その笑いを見て、ボクは自分の胸の中の何かが一段、静かに移動するのを感じた。彼女の基準に、ボクもまた、形を与えられつつある。
館内を一周して外に出る。空は薄く青を深め、群青に変わる直前の色になっている。ユイはバッグのポケットから小さなメモを取り出し、折り目を確かめた。
「バレーの顧問から、試合の調整。来月の頭」
「忙しくなる?」
「なる。でも、時間は作る」
彼女はそう言ってから、一拍置いて続けた。
「——藤井くんに、お願いがある」
ボクは姿勢を正した。ユイが誰かに「お願い」を口にするのは珍しい。彼女はいつも自分で線を引き、その上を歩く。人に荷物を預けない。
「明後日、朝。中央公園の池の前で。十五分だけ、時間を貸して」
「いいよ」
即答した。理由を聞く前に口が動いた。ユイは視線を少しだけ逸らし、また戻す。
「ありがとう」
それだけ。彼女は深追いをしない。説明を省くのではなく、必要な線だけを残す。その線の先で何が起こるのか、ボクは知らない。知らないまま、頷いた。
別れてから、駅までの道を歩く。路面電車の線路が夕焼けを二本に割り、遠くでベルが短く鳴る。スマホが震えた。画面には、短いメッセージ。
『今から、オインタウン。来れる?』
アカネだった。続けてもう一通。
『退屈、潰す』
ボクは立ち止まり、空の色を確かめた。深くなる前の青。青藍の手前の、まだ白が混じった空。親指が「行く」と「ごめん」を行き来する。ためらいは短く、しかし確かにあった。ボクは「今日はやめる」とだけ返し、送信する。メッセージの文字は黒く、迷いは透明だ。透明なものは、残りやすい。
家に着くと、机の上のノートを開いた。昨日のページの下に、新しい余白を作る。ペンの先で、今日見た線を一本ずつ描き直す。コートの中心に置かれた円、ボールの音が小さくなった一秒、掲示の余白に人が立ち止まる角度。描きながら、ボクは思う。ユイの基準は、彼女の外側だけでなく、内側にも引かれている。だからときどき、彼女自身を締めつける。朝の一言は、その痛みの形だった。
スマホが再び震えた。今度は委員会のグループメッセージだ。来週の掲示当番の調整。ユイの文章は簡潔で、誤字がない。ボクは割り当てに承諾の印をつけ、画面を閉じた。
窓の外で風が鳴る。雲の帯がゆっくりと動き、路面電車の最終の光が遠くを横切る。ボクはベッドに横になり、天井を見上げた。目を閉じると、午前の体育館の匂いが戻る。音も戻る。ホイッスルのない合図、揃った呼吸、足裏の摩擦。静けさが、音の形をしていた。
眠りに落ちる直前、ボクは考えた。境界が強すぎると、先に行けなくなる。じゃあ、弱すぎたら? たぶん、形が崩れる。だからユイは“遊び”を残す。残せる人だ。ボクはまだ、その遊びを作れない。だから、彼女に見せてもらう。明後日の朝、十五分。短いけれど、これまでで一番長い十五分になるかもしれない。
翌朝。目覚ましより早く起きた。眠気は薄く、体の内側で何かが静かに回っている。制服に袖を通し、ノートを鞄に入れる。家を出ると、空気は少しひんやりしていた。恩音駅のホームで、路面電車が光を引きながら滑り込む。車内には新聞を読む人、窓にもたれる学生、イヤホンの音漏れ。ボクは窓の外の景色を目で追いながら、ユイの「お願い」を反芻した。
教室に着くと、ユイは黒板の端のチョーク粉を指で払っていた。粉が舞わないように、手を低く、短く動かす。朝の挨拶を交わすと、彼女は「放課後、池」とだけ言い、席に戻った。ボクは頷く。言葉は少ないのに、意味は十分だ。
授業は淡々と進んだ。国語の先生が詩の比喩を説明するとき、ユイは一度だけ窓の外を見た。雲が薄く伸び、光が教室の床に帯を作っていた。数学の小テストでは、最後の一問でボクは手を止め、ユイが先にページを閉じる音を聞いた。英語のディクテーション、理科の小実験、社会の年表。雑音のような日常の粒が、今日は少しだけ輪郭を持って見える。どれもこれも、線の上にある。
放課後。中央公園の池は風で細かくさざめいていた。ユイは時間ぴったりに現れ、ボクと並んで水面を見た。彼女の横顔は、朝よりも強い。
「十五分だけ、ここで立ってて」
「立つだけ?」
「うん。時計、見ないで」
ボクは頷いた。ユイは何も合図をしない。立ち方の指示もくれない。池の水面を見ていると、遠くで子どもの笑い声がして、犬が水を飲む音がして、風が木の葉を裏返す。時間は最初、長く感じられ、次に短く感じられた。変化は目に見えない。けれど、確かにあった。ボクの内側のテンポが少しずつ、外の景色に合わせていく。合ってくる。焦りが薄れ、呼吸が楽になる。
いつの間にか、ユイが横で息を吐いた。ふっと、ほんの小さな音。ボクはそれを合図だと思って目を閉じた。まぶたの裏で青藍が揺れ、その揺れが水面に重なる。
「——十五分」
ユイが言った。時計は見ていない。なのに、分かった。ボクの体の中の針が、ちょうどそこで止まったからだ。
「これが、私の“次”。人に時間を置く。置いて、崩れない線を作る。藤井くんは、ちゃんと待てる人だね」
ユイは笑った。その笑いは、強い色を帯びていた。ボクは返事を飲み込む。喉の奥に、人に見せたことのない熱が小さく灯っている。灯りは弱いが、消えない。
「ありがとう」
ユイは言って、視線を水から空へ移した。群青の手前の青が、そこにあった。彼女はバッグから小さな紙片を取り出し、ボクに差し出す。次の掲示のラフ。紙の上には、正確な線と、わずかな遊び。
「手伝ってくれる?」
「もちろん」
答えると、ユイは満足そうに頷いた。青藍の線が、ボクの中に一本、確かに残った。
その夜、ボクはノートの最後のページに、今日の十五分を一行で書いた。『待つことが、動くことになる』。書いてから恥ずかしくなり、ペンで薄く線を引いて消そうとした。でも、インクは完全には消えない。少しだけ残る。それでいい、と思った。
ベッドに潜り、目を閉じる。青藍が静かに揺れる。耳の奥で、遠くのベルが鳴った。明日の予定を頭の中で並べる。朝練はなし。放課後は委員会。夜は——スマホが震えた。知らない番号からの通知。画面を開くと、短い文。
『久しぶり。今度の水曜、空いてる? オインタウンのプールで』
送信者の名前を見た瞬間、胸の奥の針が一度だけ大きく振れた。幼い頃からの水の匂い。呼び名。封じ込めていた記憶が、静かに浮上する。ボクは息を飲み、画面を閉じた。
台所でコップに水を注いだ。蛇口の水は冷たく、口に含むと舌の奥に薄い金属の味が広がった。塩素の気配。ありふれた水道水なのに、脳のどこかが勝手にプールの匂いを呼び覚ます。天井の白い光、規則正しく並ぶコースロープ、合図のホイッスル、スタート台のざらつき。息を止めると、胸が昔の拍動を思い出す。九歳の夏、十歳の冬。数え方は曖昧なのに、水中の時間だけはやけに正確に戻ってきた。
メッセージの送り主の名前は、見慣れた漢字だった。二画目の止めの強さ。宛名で呼ばれた記憶。ボクの中で封印していた小さな箱の蓋が、音もなくずれた気がする。開けるのは怖い。けれど、逃げ続けるほどの言い訳も、もう残っていない。
返事は、明日に延ばす。けれど、胸の中の針は静かに進み始めていた。ユイの青藍が引いた線の上を、もう一本の線が重なろうとしている。二本の線が交わるところに、ボクは立っているのだと思う。
カーテンの隙間から夜風が入り、紙の端がわずかに鳴った。ボクはスマホを伏せ、枕元のノートを閉じる。まぶたの裏で、池の水面が揺れ、体育館の木目が流れ、路面電車のベルが遠くで滲む。名前のない色が、静かに濃くなる。
——明日の放課後。恩音市の水の匂いのする場所で、もう一度、過去が現在に追いつく。ボクは深く息を吸って、灯りを消した。
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