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第6話 青藍を映す水面

 朝の路面電車は、まだ通学の人波が途切れなかった。恩音駅のホームから伸びる車両の窓に、湿った夏空が薄く映り、窓の外を流れる街の屋根が揺れて見える。藤井義隆――ボクは吊り革に掴まりながら、昨日の朝練の余韻を思い返していた。ユイの声、テンポ、そして基準。音で揃えることの確かさ。頭のどこかに、まだ残響が響いている。


 教室に着くと、ユイはすでに席についていた。机の上には教科書とノートが整然と並び、ペンのキャップは右に揃えられている。アカネはその横で頬杖をつき、窓の外を見ていた。二人の姿が並ぶと、同じ教室の中に二つの異なる温度が同居しているのが分かった。燃える赤銅と、澄んだ青藍。ボクの居場所はそのあいだにある。


 一時間目の国語。先生が黒板に文章を書き、作品の意図を説明する。クラスの数人は退屈そうに視線を逸らしているが、ユイは黙々とノートを取り、必要な部分だけを正確に写していた。書き終えるとページ全体を眺め、ほんのわずかに頷く。その所作は一本の線を描くように無駄がなく、青藍の水面に石を投げても波紋ひとつ生まれないような静けさをまとっていた。


 二時間目の数学。先生がチョークを走らせ、関数の増減を説明する。隣でユイは数式を追いながら、筆圧を一定に保って解を書き写す。間違いに気づくと、一度だけ線を引いて修正し、再び速度を取り戻す。その姿を見ていると、音楽のテンポを合わせて演奏するオーケストラの指揮者のように思えた。彼女の基準がある限り、周囲は大きく崩れない。


 三時間目の英語。ユイは発音の練習でも声を張らず、しかし一定のリズムで音を刻む。教師が指名すると、ためらわずに教科書を読み上げた。抑揚は大きくないのに、響きが教室全体に広がる。誰かがつまずくと、ユイはさりげなく口を動かして助け舟を出す。その声を受けた生徒が安心したように読み進めると、教室全体が少しだけ落ち着いた。青藍の調律は、騒がしさを鎮める方向へ働く。


 四時間目の理科。化学式を板書する先生の手が止まったとき、ユイがすっと手を挙げて質問した。「ここ、酸化数の計算が合っていません」。先生は苦笑しながら訂正し、クラスがざわめく。指摘は鋭いのに、言い方には棘がない。彼女はただ、基準を整えただけだった。ボクはその冷静さに胸を突かれる。同じ教室にいても、自分とはまるで違う高さで物事を見ているように思えた。


 五時間目の社会。戦後の復興についての説明を先生が続ける間も、ユイは真っ直ぐノートに要点を記す。アカネは窓を叩く風に気を取られ、ボクは板書よりもユイの横顔を見ていた。ペンを走らせる速度、目の動き、すべてが基準のように整っている。そこには隙がないようでいて、どこか張り詰めたものが漂っていた。


 六時間目の体育。バレー部のユイは授業でも自然と中心に立った。ボールを上げる動作、仲間への指示。その全てが的確で、見ている者を従わせる。ボクも偶然レシーブを受ける機会を得たが、手に響く衝撃と共に、彼女の存在の重みを感じた。アカネが後方から「よしちん、決めろ!」と声を上げる。熱と冷が、体育館の空気で交錯した。


 放課後。中央公園の掲示板の前には、既にユイが立っていた。紙の束を足元に置き、テープを切り分けている。風で髪が揺れるたびに、青藍の色が夕暮れの光を吸い込んでいく。彼女は顔を上げ、短く言った。「手伝って」


 二人で紙を押さえ、空気を抜いていく。指先が触れるたび、昨日の冷たい温度がよみがえる。ユイは角を合わせ、テープを貼り、気泡を残さないように慎重に仕上げていく。ボクの背の高さが役立つ場面では、彼女が短く指示を出し、そのたびに作業が効率的に進んだ。掲示板の前を通りかかる人が「ご苦労さま」と声をかけ、ユイは小さく会釈する。その動作すら基準に従うように整っていた。


 作業の合間、ユイは少し黙り込み、空を仰いだ。「基準ってね、時々、自分の首を絞めるの」その言葉は風に消えそうなくらい小さかった。ボクが問い返そうとしたとき、ユイは首を横に振り「忘れて」と短く言った。彼女の視線の奥に、揺れる青藍の迷いが映っていた。


「藤井くん、オインタウン行ったことある?」


 唐突な問いに、思わず手を止めた。


「あるよ。家族と」

「私はあまり行かない。人が多いから。でも、掲示物を出すことはある」

「委員会の仕事?」

「そう。あそこに掲示すると、人の流れが変わる」


 ユイは紙の角を整えながら言った。淡々とした口調だが、その奥に小さな迷いが潜んでいるように聞こえた。人を動かす基準を示す立場でありながら、自分の迷いは隠し通さなければならない。そんな矛盾が、彼女の言葉にわずかな揺れを生んでいた。


 張り替えを終えると、ユイは池のほうへ歩いた。夕方の風が水面を波立たせ、光が揺れている。彼女は立ち止まり、ゆっくり息を吐いた。


「藤井くん、迷うことは悪いことじゃない。でも、迷いを隠すのは疲れる」


 その言葉に、ボクは答えられなかった。ユイが初めて自分の弱さを口にしたように感じたからだ。彼女はそれ以上言わず、水面を見つめ続けた。青藍の瞳が、揺れる波に映っていた。


 しばらくして、ユイは振り返った。


「明日、るるぽーしょん恩音に一緒に来て。掲示の確認。ついでに……少し見せたいものがある」


 ボクは頷いた。理由を聞く前に、ユイの声がそれを許さなかった。基準の言葉に従うのは、もはや自然なことだった。


 その夜。机に向かっても、数字は頭に入らない。代わりにノートの余白に「青藍」という文字を書いた。書いたそばから消したくなったが、インクは紙に残る。水面のように揺れる思考の跡が、そこにあった。窓の外では、遠くを走る路面電車の音がかすかに響いていた。生活のリズムの一部になったその音に、ユイの声のリズムが重なる。迷いと基準。矛盾する二つの線が、今はまだ平行のままボクの胸の中に存在していた。


 ベッドに横になってからも眠気はすぐに訪れなかった。天井を見つめ、今日一日のユイの言葉や仕草を反芻する。委員長としての彼女と、一人の少女としての彼女。その境界が、少しずつ揺らぎ始めているように思えた。ボクはスマホを手に取り、短いメッセージを打った。「明日、行く」。送信してからしばらく、画面を見つめ続けた。青藍の残像が、視界の奥に焼きついていた。


 眠りが浅く訪れたころ、夢の中で路面電車が走った。車輪の音はバレーのテンポに重なり、掲示板の紙が風に鳴った。ユイの声が「一、上、二」と数える。その間にアカネの笑い声が挟まる。熱と冷のあいだで、ボクは立ち位置を何度も変えた。どの位置にいても、誰かの視線がボクをまっすぐに捉える。目が覚める直前、池の水面に投げ込まれた小石が、波紋を幾重にも広げていった。


 朝、目覚ましより少し早く起きた。窓の外は薄く曇り、路面電車のベルが遠くで鳴った。ボクは制服の襟を正し、ノートを鞄に入れた。ページの端に昨日の「青藍」が残っている。インクの滲みを指でなぞると、ほんのわずかに手に色が移った気がした。色は消えない。消えないなら、次に重ねる色を決めればいい。


 駅へ向かう道でアカネに会った。彼女は片手でスマホを掲げて「今日、暇?」と聞く。ボクが首を振ると、アカネは肩をすくめて笑った。「じゃ、明後日」とだけ言い、先に走っていった。背中が角を曲がる直前、アカネは振り返りもせず手をひらひらさせた。熱は速い。けれど、その速さがすべてを決めるわけじゃない。


 電車の中でユイからメッセージが届いた。「放課後、中央公園に寄ってから、るるぽーしょん恩音」。句点のない短い行。余白が多いのに、意味ははっきりしている。ボクは「了解」とだけ返した。了解、という言葉には責任の匂いがある。引き受けること。迷いを抱えたままでも、線の上に足を置くこと。


 授業の合間、ユイは黒板の端に残ったチョーク粉を指で払った。粉が舞わないように手を低く動かす。彼女の指先には小さな白がつき、ハンカチで一度だけ拭った。何も言わず、誰にも見せびらかさない所作。そういう積み重ねが、基準の正体なのだとボクは思った。


 放課後までの時間は、妙に速かった。ベルが鳴るたびに、ボクの中の迷いと基準が入れ替わる。どちらが先でも同じところに辿り着く、というユイの言葉を思い出す。辿り着く場所は一つじゃないかもしれない。けれど、今日の終点は決まっている。中央公園、そして、るるぽーしょん恩音。


 約束の時刻。公園の掲示板には、昨日貼り直した紙が風を受けてかすかに鳴っていた。ユイは時間ぴったりに現れ、ボクに一瞥をくれただけで作業に取りかかった。古いポスターの角がめくれていないか、掲示の順番は正しいか。彼女は一枚ごとに視線を走らせ、必要ならテープを足す。ボクは脚の長さで上段の確認を手伝い、指示を待った。


「ありがとう。行こう」


 ユイはそれだけ言って歩き出した。路面電車の駅までの道は、放課後の人波で混み合っている。二人の歩幅は自然と合い、会話は短い。会話が短いのに、沈黙は気まずくない。線を共有しているからだ。


 るるぽーしょん恩音のエントランスは、まだ夕方の光を抱いていた。ガラスの壁に空が映り、吹き抜けを渡る風が涼しい。ユイは案内板の前で立ち止まり、二階の掲示スペースを指さした。そこには学校行事の告知と、地域イベントのポスターが並んでいる。


「これ、私が出した」


 ユイは一枚の端を指で押さえ、気泡がないか確認した。紙の質は昨日の公園のものより厚い。指を滑らせる角度が慎重になる。誰も気づかないような差異を、彼女は見逃さない。


「見せたいものって、これ?」

「半分はね。もう半分は――」


 ユイは吹き抜けの向こうを指した。イベントスペースのステージでは、週末に向けた設営が進んでいる。照明の角度を合わせるスタッフ、ケーブルを束ねる人、注意書きを貼る人。誰もが役割の線の上を歩く。基準が重ねられていく音が、低く空間に滲んでいた。


「基準は、人を縛るだけじゃない。人を動かすための線。線があるから、自由に動ける。それを見せたかった」


 ユイの声は大きくなかったが、吹き抜けに吸い込まれながら、確かに届いた。ボクは頷いた。自由になるための線。たしかに、線がなければ、ボクはどこへも踏み出せない。


 施設を一周して外に出ると、空は薄く群青に変わっていた。ユイは時計を見て、短く息を吸った。


「ありがとう。今日はここまで」

「また明日?」

「また明日」


 別れ際、ユイはほんの少しだけ笑った。青藍の色が和らぐ。笑いは短く、消えるのも速い。でも、確かにそこにあった。


 家路の途中、路面電車の窓に自分の顔が映る。瞳の奥に、青藍の残光が残っている。アカネの赤銅と、ユイの青藍。二つの色が交互に瞬いて、やがて重なり、見たことのない色になった。名前のない色。ボクはそれをしばらく眺め、目を閉じた。名前がなくても、今はそれでいい。明日、必要なら名前をつければいい。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

本作は今回から毎週〈火曜・金曜〉更新 で続けていきます。

少しゆっくりになりますが、そのぶん一話一話を大切に仕上げていきますので、これからもお付き合いいただけると嬉しいです。

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