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第5話 青藍に揺れる声

 始業前の教室は、夜の雨を少しだけ残した匂いがした。窓ガラスは薄く曇り、拭かれた跡が斜めの筋を作っている。恩音駅へ滑り込む路面電車のベルが遠くで鳴り、軌道の上を渡る風が黒板の縁をかすかに鳴らした。ペンケースのファスナー、椅子を引く音、ページの擦れる音。ばらばらの音が同じ教室に集まりながら、まだ一つの和音になりきれていない。そんな朝だった。


「静かにして。既に予鈴は過ぎてるよ」


 ぴんと張った糸のような声が教室の空気を縫い止めた。教壇の脇に立っていたのは一ノ瀬ユイ。クラス委員長。長い髪を後ろでひとつにまとめ、胸の前で出席ノートを抱えている。姿勢は揺れず、視線の高さも揺れない。声の輪郭は冷たいのに、刺さらない。水で濡れた石のように、しっとりと重さがある。


 ユイは黒板の時計を見上げ、ページを繰る。日直が遅れていると判断したのだろう、自然に点呼を始めた。彼女が名前を呼ぶたびに、教室の音の粒が一つずつ位置を決めていく。


「藤井義隆」

「……はい」


 返事が半拍遅れた。ユイの目が短くこちらに向く。青藍の絵の具を薄く延ばしたみたいな視線。熱はない。けれど、その冷たさは呼吸を整えるための温度に見えた。


 担任が入室し、ユイから出席簿を受け取る。彼女は会釈して席に戻る。窓際では三神アカネが頬杖をつき、視線を外に流していた。二つの視線は、朝の教室を正反対に引っ張っている。焦げる熱と、冷える澄明。ボクの背骨はそのあいだでまっすぐを探していた。


 一時間目の現代文。先生は抑揚少ない声で作者の意図を解説する。ボクはノートの余白に線を引き、途中から線を点に変えた。向こう隣のユイは、黒板の文字を必要なところだけ拾い、ノートの端に短く自分の言葉を書き足していく。書き終えてから一度だけページ全体を眺め、首を小さく縦に振った。その所作は、良く張られた弦を軽く弾くみたいに無駄がない。


 二時間目の数学。先生のチョークが黒板を進むと、ユイの手元は均一な速度で追う。分数の約分に入る直前、彼女は一度だけ筆圧を落として見直し、そのあとで速度をわずかに上げた。弦を張り替える手際。視線の動きが音になって聞こえる気がした。


 小休憩。窓を開けると湿気の冷たさが頬を撫でる。ユイは廊下から戻ってきた男子に短く目を向け、靴音の大きさを指摘した。責める調子ではなく、ただ基準を示すだけの言い方だったのに、男子は思わず背筋を伸ばして頭を下げた。委員長とは、きっとこういう人のことを言うのだろう。命令で動かすのではなく、基準で周囲を整える。


 昼休みの少し前、バレー部の顧問が廊下からユイを呼んだ。ユイは「はい」と一言で応じ、席を立つ。玄関から見える体育館では、午前の部活が終わらずに延びているらしい。彼女は廊下に出る前、ボクの背丈を一瞬だけ見上げた。


「藤井くん、部活、入らないの?」

「……帰宅部だから」

「もったいない。背があるのに」


 足音は軽い。けれど根っこが深い木みたいに、踏むたび重心が安定する。言葉が短いのに残るのは、たぶんその重心のせいだ。


 昼休み。購買でパンを買って教室に戻る途中、体育館の脇を横切る。扉の隙間からコートが見えた。ユイはコートの端でボールを受け、素早くセットする。指先でボールの回転を止めてから上げる動きが滑らかで、跳ね返る音にいらない高さが混ざらない。膝サポーターが白く光り、足裏がラインを正確に踏む。顧問の合図でフォーメーションが変わると、ユイは即座にポジションを取り直し、短い指示を出した。声はよく通るのに、焦りの色はない。


 教室に戻ると、アカネが窓際で頬杖をついたまま外を眺めていた。彼女はボクに気づくと、口の端だけで笑う。


「バレー、似合いそう」

「見てたの?」

「音がよかった」


 音。アカネがそう言うなら、きっと彼女の中でも何かが鳴っているのだろう。赤銅の熱と、青藍の澄明。違う色のリズムが、今日の恩音第一高校を別々の方向へ引っ張っている。


 昼休みが終わる頃、ユイは教室に戻ってきた。汗はうっすらしかなく、呼吸も乱れていない。髪を結び直すゴムの音が小さく鳴る。彼女は席に座る前に黒板の右端のチョーク粉を指で払って、指先をハンカチで拭いた。小さな手順の積み重ねが、空気を整える。


 五時間目のLHR。行事の担当を決める。教室の空気は一気にばらけ、声の高さが不安定に跳ねる。ユイは配られた紙を全員の列に行き渡らせ、時間の残りを確認し、議題を口にした。言葉は短く、必要な順序だけを示す。誰かが違う方向に話を持っていこうとすると、ユイは「それは後で」と言って話を戻す。熱で押さえ込むのではなく、冷たい水で方向を直すみたいに。


 そのあと、前回の掃除分担が一部で崩れていたことが話題になった。アカネの名前が小さく挙がる。ユイはアカネを見るでもなく、黒板の端を一度だけ見つめてから言った。


「分担は、守るためにある。守れるように配るのが最初の約束。だから、配り直す」


 彼女は欠席の生徒、部活で早退する生徒、持病で制限のある生徒の名前を順に拾い上げ、組み合わせの総数を素早く見積もった。口の中で数を刻むように、指を折るでもなく、視線だけで。そうしてからチョークで新しい割り振りを書き、短く説明した。感情は混ぜない。基準だけを示す。アカネは窓の外を見たまま「了解」と呟いた。


 放課後。ユイは委員会の用事を片付け、部室の鍵を受け取り、体育館へ向かう。ボクは靴を履き替えながら、彼女が階段を降りていくのを視線で追った。二段飛ばしはしない。一段ずつ、速すぎず遅すぎず、一定の間隔。弦の振幅が崩れない歩幅。


 体育館の前。コートの端で彼女は準備運動の輪を広げ、メニューを読み上げた。ストレッチの角度は無理をしない範囲で揃え、呼吸の数は「吸って三、吐いて四」。パス練習では「肩で上げず、手首で返す」を繰り返し確認する。受ける音の高さでミスを判断するらしく、ユイは一度だけ首を振り、同じメンバーでやり直しを指示した。叱るのではなく、音を合わせる。基準はいつも音だ。


 顧問の笛が鳴り、試合形式の練習が始まる。ユイはセッターに入り、トスの高さを一定に保つ。乱れたボールに対しては一歩目の入り方だけで調整する。上げた瞬間、彼女の唇がわずかに動いた。言葉は聞き取れないが、たぶん数えている。数えることは、揺れないために必要な儀式なのだろう。


 練習が終わる頃、体育館に入ってきた風が汗の塩を薄くした。ユイはタオルで首筋を押さえ、腕に残る赤い跡を一度だけ見てから袖を下ろした。彼女は片付けの号令をかけ、ネットを下げ、ボールを拭く順番を部員に配る。その動きまでが練習の一部に見えるほど、手順は澄んでいた。


 コート脇で水を飲みながら、ユイがこちらを見た。ボクは体育館の入口のベンチに座っていた。彼女はペットボトルのキャップをそっと戻し、近づいてくる。


「藤井くん、見学?」

「通りかかっただけ」

「うそ。通りかかっただけの目じゃない」

「じゃあ、見学かも」

「入部届は明日でも出せるよ」


 ボクは苦笑いを返した。彼女はそれ以上迫らない。追わないことで、逃げ道を狭めるみたいに。


「明日、放課後に中央公園に行く?」

「え?」

「委員会の掲示の張り替え。誰か手伝いが必要で」

「ボクでいいの」

「身長がいる。脚立を使うより安全」


 理由は合理的だった。けれど、そこに微かな個人的な感情が混ざっているかどうか、見分けるのは難しい。青藍の水は透明で、色を混ぜてもすぐに均される。


 約束の翌日。恩音中央公園の掲示板前は、朝の雨で濡れた紙を貼り直すための人が集まっていた。ユイは保護フィルムを外し、角を合わせ、空気を逃がす。ボクは高い位置の掲示物を持ち上げ、彼女の合図で位置を決める。指先が一瞬だけ重なった。冷たい指。けれど、その冷たさは血を止める冷たさではなく、温度を整えるための冷たさだ。


「ありがとう」

「いいよ。脚立より安定してるらしいから」

「藤井くんが、ね」


 ユイはふっと笑って、端のテープを指で押さえた。青藍の色は、笑うと少しだけ薄まる。


 作業が終わると、ユイは掲示板から離れて公園の池を見た。水面に薄い風の線が走り、向こう岸の柳が揺れる。彼女は数歩だけ池に近づき、片方の靴を半歩分だけ水際に寄せた。


「この街、好き?」

「嫌いじゃない。少し退屈だけど」

「退屈は、整える前に壊されることが多い」

「壊すひとを知ってる」

「知ってる」


 ユイはそこで一度、目を閉じた。次に開いたとき、まぶたの縁がわずかに青く見えた。


「整えたあとで壊すのは、簡単」

「順番、の話?」

「そう。順番を決めるのが得意な人は、順番を崩すのも上手い。だから、どちらが先でもいい。結果は同じところへ行く」


 アカネの赤銅が熱で曲げ、ユイの青藍が冷で整える。別々の方向に進むようでいて、もしかしたら同じ円の上を歩いているのかもしれない。ボクは池の縁に映る空を見て、自分の影の輪郭を確かめた。


「藤井くんは、バレーに入る?」

「……迷ってる」

「迷うのはいい。迷わないのは、だいたい間違うから」

「委員長が迷うことある?」

「あるよ。毎日」

「見えない」

「見せないだけ」


 ユイはそこで初めて、はっきり笑った。笑うと年相応に見えた。たぶんアカネが笑うときの温度とは違うが、温度があることに変わりはない。


 公園の時計が夕方の四時を指した。ユイは腕時計を見て、短く息を吸う。


「練習に戻る。ありがとう」

「また手伝うよ」

「期待してる」


 ボクは見送った。ユイは走らない。速歩きで、しかし遅れない速度で、一直線に体育館のほうへ戻っていく。背中は真っ直ぐで、地面の上に一本の線を残した。


 その夜。机の上にノートを開き、ページの真ん中に細い線を引く。昨日までのボクは、その線の上に直線を重ねていた。今日は違う。ユイの声を思い出しながら、ボクは線の端に小さな印を置き、印と印の間に数字を入れ替える。順番を決める、という行為を初めて自分の手に戻した気がした。


 スマホが震えた。画面には短いメッセージ。「明日 朝 練見学 来る? 一ノ瀬」。句点のない行。余白の取り方が、彼女の呼吸の取り方に似ている。ボクは「行く」とだけ返した。


 ベッドに横になり、目を閉じる。耳の裏で、二つの色の残響が交互に鳴る。赤銅の熱、青藍の冷。どちらも、ボクをまっすぐにする方向へ引っ張る。眠りに落ちる直前、ボクは小さく笑った。基準と曲線。退屈を壊す方法は、一つじゃない。


 ——翌朝。まだ校庭の砂は湿っていて、体育館の床は冷たい光を反射していた。朝練の開始十分前、コートにはすでに数人の部員が集まり、短い声で挨拶を交わしている。ユイは一番にボールバッグを開け、二つのボールを同時に弾ませた。弾む音が床で重なり、一定のテンポを作る。


「今日はテンポを一つだけ変える。三拍で上げて、四拍で呼吸。『一、二、上』じゃなくて、『一、上、二』」、 意味が分かったような分からないような指示だったが、部員たちは頷き、実際に体を動かしながら理解していく。ユイはひとり一人の肩の角度を小さく直し、手首の返しを一度だけ触れて示した。彼女が触れたところは、触れられたことを忘れる代わりに形を覚える。


「藤井くん、そこ、立って」


 指さされたのはネットの向こう、コートの端。見学だけのつもりだったボクは、言われるままに立つ。ユイは短く呼吸を合わせ、ボールを上げた。トスは高すぎず低すぎず、こちらの肩にまっすぐ落ちてくる。反射的に両手を合わせると、ボールの重さが骨を通って背中に抜けた。痛くはない。音が良かったからだ。


「今の、いい。次、少しだけ右」


 ボクはもう一度受ける。ボールは同じテンポで落ち、同じ高さで音を返した。ユイは満足そうに頷く。部員の何人かが、少し驚いた顔をした。背があるだけの素人が、音だけは合っていたらしい。


 朝練の終わり。ユイは最後に「ありがとう」と言った。ありがとうの中に、勧誘の押しは含まれていない。基準だけが残る。「来たいなら来て。来ないなら、それも基準」。そんな声だった。


 体育館を出ると、通り雨の予感があった。校舎の屋根の上で雲が糸のように引き延ばされ、風の向きが変わる。ボクのポケットでスマホが震えた。画面には短いメッセージ。「放課後、もう一度だけ手伝って」。句点はやっぱりない。ボクは返信を打つ指を一瞬止め、それから、ゆっくり動かした。『行く』。青藍の線を、今日は自分から踏みにいく。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

本作は次回から 毎週〈火曜・金曜〉更新 で続けていきます。

少しゆっくりになりますが、そのぶん一話一話を大切に仕上げていきますので、これからもお付き合いいただけると嬉しいです。

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