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第4話 曲線を描く赤銅の影

 体育館の裏庭は、人の目から少しだけ外れている。フェンスの影が芝を斜めに切り、風が通るたび金網が低く鳴いた。路面電車の線路が校舎の向こうを斜めに横切っていて、ときどき車輪の短い悲鳴が届く。昨日アカネが「練習」と呼んだ場所は、たしかに練習に向いていると思えた。音が逃げ、視線が届きにくい。

 ボクが着くと、アカネはすでにフェンス際に立っていた。制服の袖をまくり、チョークで芝に細い線を引いている。線は真っ直ぐではなく、ところどころでかすかに蛇行していた。


「来たね、よしちん」

「来た。……それ、何の線?」

「メトロノーム」

「線が?」

「うん。音の代わりに、歩幅で刻むやつ」


 彼女はチョークをポケットに戻し、ボクの前に立った。足元の線を指さして説明する。


「最初の練習は、順番を一つずらすこと。普通は右、左、右、左って進むでしょ。今日は右、右、左、左で歩く」

「それ、ただの二拍子の変な歩き方じゃ」

「やってみると分かる。身体は『普通』に戻ろうとする。戻ろうとする力が、退屈の正体」


 ボクは線の始点に立ち、言われたとおりに歩いた。右、右、左、左。たしかにぎこちない。足裏の接地のタイミングが狂い、目線が安定しない。数歩で息が浅くなり、肩に力が入る。


「止まらない。呼吸、数える。吸う一拍、吐く二拍」


 アカネの声は一定で、風と一緒に背中から押してくる。呼吸を合わせると、妙な歩幅にも少しずつ慣れていく。線は蛇行しているから、足元の視線はわずかに曲げられ続ける。終点に着くころには、頭の奥にかすかな酔いが残った。


「どう?」

「気持ち悪い。けど……頭が静かになってくる感じもした」

「それが曲がり始め。次」


 アカネはフェンスの金具に人差し指を近づけた。触れてはいないのに、金具が小さく鳴る。朝露の粒がまだ残っていて、その一つがじゅっと音を立て、煙みたいな白さに消えた。金属の匂いがいっそう濃くなる。


「さっき、何をしたの」

「順番を崩しただけ。冷たいのが先、熱いのが後って決まってると思ってるものを、ちょっと入れ替える」

「ちょっと、でそんなふうに?」

「ちょっと、が一番むずかしい」


 彼女は笑って、今度はボクの手の甲を軽くつついた。皮膚の下で脈が一拍だけ遅れる。遅れた分、世界の音が遠ざかって戻ってきた。


「よしちんは水が得意でしょ。次は水の順番を使う」

「どうやって」

「泳ぐとき、息を吸うのは前? 後?」

「タイミングで言えば、掻いた後に吸う」

「それを、掻く前に吸うつもりで、実際には後で吸う」

「意味が分からない」

「分からなくていい。やってみて」


 言われたまま、ボクはその場で肩を回し、空気だけを相手にストロークの形をなぞる。吸う、と決めてから、吸わない。掻く、と決めてから、掻く。吸わなかった分の空白が、胸の内側で音を吸い込む穴みたいに開く。次の呼吸でその穴は埋まり、世界は少しだけ早く回った。


「ほら」

「……ちょっとだけ、速くなった気がする」

「それでいい。『ちょっとだけ』が積もると、直線は曲がる」


 アカネは手拍子を一度だけ鳴らし、足元の影を指さした。ボクの影と彼女の影が、フェンスの網目で細かく切られて揺れる。


「影の長さ、数えて」

「数えられるの?」

「目で数える。伸びる、止まる、縮む、の順番」


 言われるまま見ていると、たしかに影は風に合わせて少しずつ形を変える。伸びるとき、空気の音がわずかに低く聞こえ、縮むとき、遠くの車輪の音が一音近づく。そんな気がする。


「気のせいでも、繰り返すと本物になる」

「さっきも言ってた」

「大事だから二回言った」


 風が強くなり、金網が低い和音を作る。コートの端がばさりと鳴り、砂が少し舞った。グラウンド側から生活指導の先生の声が近づいてくる。誰かの名前を呼ぶ低い声。


「先生来る?」

「来るかもね。でも大丈夫」


 アカネはフェンスから離れて芝の上にしゃがみ、さっきの蛇行線の一部を指でこすって消した。指先が白く汚れる。彼女は立ち上がって、消えた部分の上をためらいなく歩く。


「列を、乱す」


 彼女が通ったあと、そこだけ風の向きが変わって見えた。先生の声は近くにいるはずなのに、遠ざかっていく。足音はグラウンドの端で曲がり、体育館の方へ戻っていった。ボクの首筋に、遅れていた汗がようやく浮かぶ。


「……今の、も」

「順番。見られる、見られない。近い、遠い。先に決まってるほうを、少しだけ後にする」

「危なくないの?」

「危ないことはしない。退屈を壊すのは、壊すためじゃなくて、生きるため。壊れたら元に戻す。崩した順番は、あとで必ず返す」

「返す?」

「借りたみたいなもの。曲げっぱなしは、どこかでひずむ」


 アカネは自分の胸のあたりを軽く叩いた。その叩くリズムが、さっきまでより落ち着いている。ボクの心臓もそれに引かれるようにテンポを落とした。


「次はよしちんの番。何か一つ、順番を崩してみて」

「たとえば?」

「この芝の上で、音を一つ遅らせる。何でもいい」


 何でもいい、と言われて一番困る。ボクは耳を澄ませた。遠くの車輪、フェンスの金属音、葉のこすれる音、制服の布が擦れる音。どれも当たり前の速さで来ては消える。その当たり前のどれかを、指でつまんで遅らせる想像をする。できるはずがないと思った瞬間、できない順番が胸の中で固定される。


「分からなくなってきた」

「じゃあ、逆。速めてみて」

「速める?」

「うん。たとえば、瞬きの回数」


 アカネはゆっくりと瞬きをしてみせた。ボクも一度、二度と真似る。まぶたの上下を動かす筋肉に意識が集まる。三度目の瞬きで、視界の端が一瞬だけ伸びた。時間が細くなり、視線がそこを通りやすくなる。


「今、通ったね」

「……気のせいじゃない?」

「気のせいでもいい。気のせいの回数が増えると、気のせいじゃなくなる」


 アカネはそう言ってボクの肩に手を置いた。熱は前より弱い。けれど、そこにある。


「よし。今日はここまで」

「もう終わり?」

「練習は短いほうがいい。長いと退屈が戻ってくる」


 解散のチャイムが遠くで鳴った。フェンスの影がわずかに伸びる。高く上がった雲の切れ目から、小さく青が覗いた。


「次は、動く」

「動く?」

「歩くでも走るでもない。『動く』」

「具体性ゼロだね」

「来たら分かる。場所はまたメッセージ送る」


 アカネは手を離し、ポケットからスマホを取り出した。画面に指が滑り、短いメッセージがボクのポケットを震わせる。「明日、路面電車の車庫前 十六時」「遅れたら、退屈」


「容赦ないな」

「やさしいよ」


 彼女は笑って、フェンスに背中を預けた。笑いの温度は、日向に置き忘れた硬貨のぬくもりに似ている。握っていると指の跡がつき、手放すとすぐに冷える。


 翌日。学校が終わると、ボクは車庫へ向かった。オイントラムの車庫は川沿いにあり、整備のための線路が何本も枝分かれしている。鉄骨の屋根が響きを溜め、工具の金属音が反射して重なる。制服姿のまま来ているのはボクだけだ。アカネはすでにいて、車庫の外側、黄色いラインの手前で待っていた。


「今日は動く。ルールは一つ。『信号は、見るけど従わない』」

「いやそれ、危ないでしょ」

「従わないって、無視するって意味じゃない。見る順番を変える。先に『周り』、次に『自分』、最後に『信号』」

「いつもと逆だ」

「そう。試してみる。車庫の外周を、あの標識まで歩いて戻る。走らない」


 彼女はスタート地点に立ち、ボクに並べと顎で示した。周囲に作業員がいる。フォークリフトが短く警笛を鳴らし、別のラインで車体がゆっくり移動を始める。油の匂いと、鉄粉の乾いた匂い。


「周り、自分、信号」


 合図とともに、ボクは歩き出した。最初の一歩で、つい足元を見そうになるのを抑える。周り——人の動き、車体の流れ、音の源。自分——歩幅、呼吸、視線の高さ。信号——ライトの点滅、矢印の向き。順番は崩れているのに、足取りは逆に落ち着いた。


「いいよ」


 アカネの声が後ろから来る。黄色いラインの手前で立ち止まると、彼女は満足そうに頷いた。


「それが『動く』の最初。自分の順番で動けると、周りの速度に飲まれない」

「さっきより、世界が静かだった」

「静けさは、強さ」


 アカネは指で小さく円を描くように空をなでた。彼女の指が通った跡に、夏の残り香みたいな熱が薄く残る。


「もう一周。今度は『周り』の中に、音じゃなくて匂いを入れて」

「匂い?」

「うん。油、金属、雨の前。匂いは順番を早くする」


 二周目、鼻に意識を置くと、遠くの雨の兆しの匂いが確かに混ざってきた。雲はまだ白いのに、川風が湿りを増している。足の裏が地面を押す感覚が、さっきより手前に来る。


 曲がり角で、作業員が合図を出した。ボクは反射で止まろうとして、順番を思い出す。周り、自分、信号。彼の合図の意味より先に、周囲の動きを読む。フォークリフトが止まっている。別のラインも止まっている。ボクは速度を変えずに抜け、合図の意味が背中に追いついたころ、もう危険はなかった。


「今の、良かった」

「心臓がうるさい」

「うるさいのは生きてる証拠」


 彼女は短く笑い、黄色いラインから半歩だけはみ出した。注意の笛が鳴り、すぐに戻る。


「境界は大事。踏むのと、踏み抜くのは違う」

「踏み抜いたこと、ある?」

「ある」


 その一言に、説明の余白が大きく残った。尋ねたいのに、尋ねない時間が必要だと思った。


 車庫の奥から、整備士の「休憩!」という声が響いた。空気が少し緩み、金属音が薄まる。アカネはポケットから小さな飴を取り出し、ボクに一つ投げてよこした。包み紙が夕陽を弾いて、赤銅の色を一瞬だけ作る。


「糖分。曲げるには、頭を動かす」

「ありがと」

「どういたしまして」


 飴を口に入れると、甘さが舌に広がる。彼女はその様子を見て満足げに頷き、短く手を振った。


「今日はここまで。明日、少しだけ走る」

「少しだけ?」

「うん。少しだけ、を何度も」


 車庫を出るころには、空の色が一段深くなっていた。川面は鈍い光を返し、橋の欄干が規則正しく影を落とす。足もとは真っ直ぐな歩道なのに、ボクの進む線はわずかに曲がっていく気がする。曲線は、たしかにここから始まっている。


 家に戻ると、洗面所で冷たい水を手にすくった。水は掌に乗ったとたん、体温で境界を失っていく。鏡の中の自分に向かって、ささやかな練習をする。吸う一拍、吐く二拍。瞬きを三拍。耳の裏で心臓の音がゆっくり合流して、部屋の静けさと小さな和音を作る。


 机の端に指先を置いた。あの焦げ筋は、光の加減でまだ現れたり消えたりする。触れても温度はない。けれど、目を閉じると、金網の匂いと、車輪の短い悲鳴と、アカネの指先の熱が、確かにそこにあった。借りた順番を返すみたいに、机の角をそっと二度、叩いた。


 スマホが震えた。画面には短いメッセージ。「明日 十七時 校門」「遅れたら、退屈」

 文末に句点はない。笑ってしまう。ボクの返事にも、句点は要らないと思った。


 机にノートを開き、真ん中に一本の直線を引いた。次に、直線のすぐ横に、ごく浅い曲線を一本。浅い曲線を、もう一本。線の上に小さく文字を書く——周り→自分→信号。鉛筆の芯が紙を擦る音が、家の静けさの中で大きく聞こえる。水泳スクールで言われた「力を抜け」という言葉が、不意に背中を押した。抜くのは力だけじゃない。順番への執着も、少しだけ抜く。アカネがいなくても、ボクは自分の順番を決められるだろうか。ノートの端に、言葉を一つだけ書いた。『一人で決める』。書いた瞬間、胸の内側に、細いけれど確かな芯が通った気がした。


 ベッドに横になって天井を見ていると、ふと昼の裏庭を思い出す。フェンス越しのグラウンドの隅に、白い膝サポーターが一瞬だけ見えた気がした。誰かが立ち止まり、こちらを見ていた——そう思ったのは気のせいかもしれない。けれど、気のせいは繰り返すと本物になる。胸の奥で、赤銅の曲線に、別の色の細い線が重なった。


 明日は走る。ボクは走る。

【更新予定】

序盤5話までは毎日更新予定です。

その後は【火・金】に定期更新していきます。

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