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第3話 残響の中に赤銅が揺れる

 放課後の恩音中央公園は、昼間よりも落ち着いた色をしていた。噴水の水柱は夕陽を透かして黄金に染まり、芝生には部活帰りの生徒や犬を連れた人影が点々と散っている。街のざわめきが遠くで響いているのに、公園の真ん中だけは不思議な静けさを保っていた。

 ベンチに腰を下ろした三神アカネは、制服のまま片脚を組み、つま先でリズムを刻んでいる。屋上で交わした約束のとおりに、ボクはここへ来た。けれど胸の奥の落ち着かなさは消えない。喉の奥には小さな石のかけらを飲み込んだみたいな違和感が残っている。


「よしちん、遅い」

「遅れてないよ。時間通り」

「時間通りって言い方、真面目すぎ」


 ボクは笑いも反論も飲み込んだ。彼女の言葉に真正面からぶつかるより、いったん受け止めたほうが良さそうだと体が判断したみたいだった。けれどアカネは、黙るボクの顔を覗き込み、指で空をなぞるように言葉を落とす。


「何考えてる?」

「……別に」

「別に、って言葉嫌い。何もないなんてあり得ないでしょ。頭のどこかがちゃんと動いてる」


 赤銅に縁どられた視線が逃げ場をなくす。息を詰めたまま、ボクは短く答えた。


「きみのこと」


 口にした瞬間、夕方の空気が薄く揺れた。アカネは目を細め、次には楽しそうに肩を揺らす。


「やっぱり。そうだと思った」


 噴水の水音が一定の間隔で落ち続ける。芝の上の笑い声は遠ざかり、世界に残るのはボクとアカネの呼吸のテンポだけになった。


「退屈は嫌いって言ったよね。だから退屈を壊す」


 アカネは立ち上がり、芝を踏んで歩き出す。歩幅は迷いがなく、髪は夕陽をはじいて赤銅の火の粉みたいに光った。ボクは距離を保ちながらついていく。公園の端にある東屋は人影が薄く、柱に貼られた注意書きだけが古い色で残っている。アカネはその柱に片手を置き、振り向いた。


「ねえ、よしちん。アンタ、どこまでやれる?」

「なにを」

「退屈を壊すこと。自分を変えること。アタシと並ぶこと」


 突くような言い方。でもその奥で、わずかな期待が震えていた。ボクはうまい言葉を見つけられず、代わりに目を逸らさずに言う。


「やってみないと分からない」


 アカネの瞳がほんの少し明るくなる。彼女は近づき、胸元に指を伸ばした。


 触れた瞬間、周りの色が半歩遅れてついてくる。噴水の音が遠のき、鼓動の音だけが大きくなる。皮膚の内側から温度が立ち上がり、指先がその温度を引き出していく。


「ね? 退屈じゃない」


 囁いて、彼女は手を離した。熱は皮膚の下に残り、しばらくのあいだ細い川みたいに流れ続けた。


「明日も来て。逃げたら退屈を許すことになる」

「……分かった」

「よし」


 それ以上は言わず、アカネは空を見上げた。夕雲の縁が銅色の薄皮をまとい、街の輪郭に沿って沈んでいく。ボクは彼女の横顔を盗み見た。表情は静かなのに、目の奥には消えない残響が揺れている。


 帰り道、オイントラムのレールは夕陽を集めて一本の線になった。沿線の工場からは金属の匂いがときどき風に乗ってくる。家に着いても宿題は進まず、黒い数字はノートの上で足踏みするだけだ。夜、布団に横たわると、胸の内側で昼間の熱が静かに軋んだ。眠りは浅く、目覚ましの秒針が神経に絡みついて数を数えさせる。


 翌日。朝の教室は、昨日よりも少しだけ澄んでいた。黒板の端に残っていた白い粉は綺麗に拭われ、窓ガラスは早朝の光をまっすぐ通す。けれどボクの机の角だけは、やっぱり僅かに色が違って見えた。あの細い焦げ筋は、光の角度で現れたり消えたりする。指でなぞると、木の目が毛羽だったような感触が確かにある。


「おはよ、よしちん」


 アカネは遅れて教室に入ってきて、当然のように窓際の席へ腰を下ろした。担任は特に何も言わない。空気は「そういうもの」として整列している。周囲の視線は向けられて、そしてすぐ逸らされる。ボクは教科書を開き、ページの白さで呼吸を整えた。


 午前の数学。先生のチョークは等間隔で黒板を走り、記号は意味の前に形として並ぶ。アカネは窓の外を見て、時々、机の端を指でなぞる。彼女の爪が通ったあとに、光がかすかに歪む。気のせいだ、と言い聞かせるたびに、気のせいじゃないほうへ心が傾いた。


 昼休み。弁当のフタを開ける前に、アカネの箸が勝手に伸びてくる。

「味見」

「ありがとうって言うべき?」

「言わなくていい。次の一口で十分」

「ないよ」

「ケチ」


 会話は短くて、でも余韻は長い。彼女の笑いが近くの机の表面を走り、木目の間に残る気がした。


 放課後、アカネは「寄り道」とだけ言って歩き出した。目的地は告げない。ボクはその背中を、昨日より少し近い距離で追う。校門を出ると、午後の風は川の匂いを運んできた。横を通り過ぎるトラムの車輪が短く鳴り、パンタグラフが架線に火花みたいな光を一瞬だけ散らす。


「今日の退屈の壊し方は?」

「順番を崩す」


 アカネは信号を一つスキップするみたいに横道へ折れた。通学路から外れた路地は、工場の壁がつくる陰でひんやりしている。昼と夜の境目みたいな温度。鉄扉に貼られた古い注意書きの文字は、ところどころ錆に飲まれて読めない。


「ここ、通って大丈夫?」

「大丈夫」


 根拠は示さない。なのに、彼女の歩幅に迷いがないから、ボクの不安は足音のリズムで小さくされていく。路地を抜けると、小さな河原に出た。土手の雑草が風で同じ方向に倒れ、川面は曇り空の色を浅く映している。遠くを貨物列車が横切り、鉄の匂いが濃くなる。


「ここ、好き」


 アカネは土手の斜面を降り、踏み固められた細い道を進む。足元の石がきしむ音が重なり、彼女のリズムとボクのリズムの差がすぐに消えた。


「退屈って、何?」

「時間の直線」

「……どういうこと?」

「一方向にしか流れないって決めつけてる時間。ベルが鳴ったら始まり、チャイムで終わる。お昼は十二時、帰るのは十七時。誰かが敷いたレールの上を、同じ速度で歩く時間。それが退屈」

「じゃあ壊すって?」

「速度と温度を変える。速くしたり遅くしたり、冷たくしたり熱くしたり。そうすると、直線は曲がる」


 アカネの足が止まる。彼女はボクの正面に立ち、胸元に人差し指を当てた。昨日よりも、指先の熱ははっきりしている。川の音が遠のき、風が少し重くなった。


「今、曲がったね」

「……気のせいじゃないの?」

「気のせいだと思いたい人は、いつも退屈に勝てない」


 挑発的な言い方のはずなのに、声はどこか優しかった。彼女は指を離し、代わりに土手の石をひとつ拾い上げる。平たい石。指先で挟むと、表面に薄い曇りが走った。次の瞬間、石の角が柔らかく丸くなる。湿った匂いの向こうで、目に見えない熱が微かに歯車を回したみたいだった。


「見た?」

「……見た。けど、見間違いかも」

「いいよ。見間違いでも。アンタの目は死んでないから、何度でも見直せる」


 彼女は石を川へ投げた。石は三回、小さく水を弾み、静かに沈んだ。波紋が広がって消えるあいだ、ボクは自分の呼吸が普段より一拍遅れていることに気づく。


「よしちん。アンタが退屈を壊したいなら、約束して」

「何を?」

「逃げない」

「……うん」

「それと、嘘をつかない」

「努力はする」

「努力じゃなくて約束」


 真剣な目。嘘が通らない目。赤銅色の膜が光の強さに合わせて薄く厚く呼吸する。


「分かった。約束する」


 言葉にすると、胸の奥で何かがかちりと音を立てた。アカネは満足そうに頷き、土手の上を指さした。


「戻ろ。今日はここまで」

「短いね」

「直線は一度に全部は曲がらない。少しずつでいい」


 帰り道、空はどんどん淡くなり、街灯が順に灯った。るるぽーしょん恩音の外壁にはイベントの告知が映し出され、アイドルの笑顔が夕闇を明るくする。トラムの車内では学生たちが立ったままうつらうつらしていて、車体がカーブするたびに揺れが大きく波をつくる。その波に身を任せながら、ボクは窓に映る自分の目を見た。死んでいないかどうか、自分で確かめるみたいに。


 家に着くと、キッチンから煮物の匂いがした。母はテレビを見ていて、ニュースキャスターの声が遠くで反響する。洗面所の鏡の前で、ボクは制服の襟を少し直した。鏡のこちらの自分と、川の土手で赤銅の視線に射抜かれた自分の間に、わずかな段差がある気がする。段差を越えるには、たぶん言葉じゃなくて、何かしらの決意の重さがいる。


 夜。プリントの問題は相変わらず数字だけの行進に見える。けれど、午前よりも線が少しだけ意味を持ち始めていた。単に慣れただけかもしれないし、あるいは、直線がほんの少し曲がったのかもしれない。布団に潜ると、耳の裏にアカネの声が残っている。「順番を崩す」。目を閉じると、その言葉が円を描き、円はやがて小さな渦になって、眠りの水面の下へと沈んでいった。


 翌朝。空は薄く、風は乾いていた。教室に入ると、窓際の席にはすでにアカネがいた。いつもより姿勢が良い。背筋はまっすぐで、指は膝の上に揃えて置かれている。珍しい静けさに、周囲の視線が何度も往復する。


「おはよ」

「おはよう」


 短い挨拶のあと、アカネは筆箱からシャープペンを取り出し、ノートを開いた。今日の彼女は窓の外を見ない。黒板を見て、ノートに線を引き、必要なところだけを書き写す。放課後に備えて体力を温存しているのか、それとも別の理由があるのか、ボクには分からない。


 昼休み。アカネは購買のパンを半分ボクの弁当に移し、代わりに卵焼きを半分持っていった。「交換」と言って笑う。彼女の「交換」は、いつもどこか一方的で、でも不思議と不快じゃない。境界線を引くタイミングが、ボクの感覚とほぼ同じだからかもしれない。


 午後。教室の窓を叩く風が強まる。雲の輪郭が濃くなり、光がときどき教室を切り分ける。四時間目の終わり、廊下の奥からバタバタと走る音がして、生活指導の先生が誰かの名前を呼ぶ声がした。アカネは一瞬だけ視線を上げ、またノートに戻した。何事もなかったみたいに。


 放課後、アカネは席を立って言った。

「今日も寄り道」

「今度はどこに?」

「秘密。来て」


 彼女は校舎の裏手へ回り、体育館の脇を抜けて、用具庫の前で立ち止まった。鍵はかかっている。アカネは扉に触れず、取っ手のすぐ上、鉄板の小さな傷に人差し指を近づける。


「鍵、どうするの」

「待って」


 金属が息を飲むような微かな音がした。取っ手に触れていないのに、カチリと軽い音が続いた。扉は少しだけ重くなって、次の瞬間、抵抗がふっと抜ける。


「開いた」

「どうやって」

「順番を崩した」


 説明になっていない。けれど、ボクはそれ以上を求めなかった。用具庫の中は埃の匂いが濃く、マットやネットが積み重なっている。アカネは奥の小窓を開け、体育館の裏庭へ抜ける通路を作った。


「ここ、近道」


 裏庭は思ったより広かった。外からはほとんど見えない角度の芝地があって、低いフェンスの向こうに、路面電車の線路が斜めに伸びている。夕方のトラムが通り過ぎるとき、車輪が鳴らす音が、ここではいつもより少しだけ低く聞こえる。


「明日はここで」

「なにを?」

「練習」

「何の練習」

「退屈の壊し方」


 アカネの目は真剣で、そこに遊びの色はなかった。ボクは頷いた。それがどんな意味を持つのか、半分も分かっていないくせに、体のどこかが先に頷いていた。


 校門まで戻る途中、アカネがふいに言った。

「ねえ、よしちん。アンタの好きな色、なに?」

「色?」

「うん。瞬間の色でもいい」

「……今は、銅」

「赤じゃなくて?」

「赤より、少し暗くて重いほう」

「いいね。今のアンタに似合う」


 その言葉が、夕方の空気のなかでゆっくり沈んだ。ボクの中で何かがわずかに位置を変え、世界の重心がほんの少しだけ移動した気がする。


 その夜、目を閉じる前に、ボクは胸の真ん中で自分に小さく問う。「逃げないか」と。「嘘をつかないか」と。返ってきた答えは、驚くほど単純だった。——明日も行く。行って確かめる。退屈がどれくらい曲がるのか、どれくらい熱くなるのか。

【更新予定】

序盤5話までは毎日更新予定です。

その後は【火・金】に定期更新していきます。

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