第2話 沈む瞳、赤銅の縁で
「ボクは恩音市にある恩音高校一年の藤井義隆。
都会と田舎の境目みたいなこの街で、ごく普通の高校生活を送っている……はずだった。」
始業のチャイムが鳴ったあとも、教室はざわついていた。夏の名残が廊下の湿気に混じって、黒板の前の空気を少し重くしている。窓の外では恩音駅へ向かう路面電車の線路が細く光り、電鈴の音が遠くから微かに届いた。友人同士のささやき、机の上でシャープペンを転がす音、窓際でうちわを動かす風。全部が小さな雑音になって、授業が始まるはずの空気を押し返していた。
ボクは窓際の席で教科書を開いたまま、ページの白さだけを見つめていた。字は頭に入らない。今日は特に胸の落ち着かなさが強い。前の席の男子が小声でつぶやいた。
「……来るぞ」
ガラリ、と音がして扉が開いた。いや、蹴りつけられて弾けたと言ったほうが近い。一瞬で空気が吸い込まれたみたいに止まる。
腰まで伸びた髪を乱雑に束ね、第一ボタンは外れたまま。スカートは短く、耳元のピアスが蛍光灯に冷たく光る。彼女は一歩、また一歩と中央を進み、目を逸らす者も露骨に見つめる者も、自然とその道を空ける。机の列の間に、彼女だけの通路が生まれた。
三神アカネ。恩音第一高校で知らない者はいない名前。噂より静かで、噂より凶暴そうで、そして噂より綺麗だった。
アカネは迷いなくボクの机の前に立つ。
「おい、そこ代われ」
ぶっきらぼうな声。だが目は澄んでいて、金属のような光を跳ね返す。赤銅色——そんな言葉が浮かぶ。
「……え?」
「窓際がいい。外が見える。だから代われ」
周囲の空気が張りつめた。誰も助け舟を出さず、時計の秒針の音だけが耳に刺さる。
「ここ、ボクの席だけど」
自分でも驚くほど自然に口が動いた。アカネの目が細まり、口元に笑みが乗る。
「へえ。言い返すんだ。おとなしい顔してるくせに」
机に片手を置き、彼女はボクの顔に近づく。柑橘系のシャンプーの匂いがかすかにした。背もたれが背中を押し、逃げ場はない。
「名前は?」
「……藤井、義隆」
「ふーん。——よしちん、か」
どこかで小さな笑いが起きた。子どものころのあだ名。もう呼ぶ人は少ないのに、彼女は自然に口にする。
「気に入った」
ドン、とカバンを机に置く。金具が乾いた音を立て、塗装がわずかに色を変えた気がした。触れると、そこだけ温かい。
「今日からここ、アタシの指定席な」
「勝手に決めないでよ」
震えを隠し、目を逸らさずに返す。赤銅の瞳がじりじりと迫る。その瞬間、担任が入ってきた。事情を把握しかけた顔をしたが、何も言わず出席を取り始めた。
午前の授業。アカネは窓の外ばかり見て、教科書すら開かない。陽が髪を縁取り、横顔の輪郭を薄く燃やすたび、ボクの鉛筆の線は濃くなった。
昼休み。弁当を出そうとすると、机の上にはアカネのカバン。
「……どけてくれる?」
「へえ。よしちんの弁当、どんな?」
「普通の」
彼女は勝手にフタを開け、卵焼きをつまんで口に入れた。
「悪くない」
「評価ありがとう」
「お礼は卵焼きもう一個」
「ないよ」
「ケチ」
やりとりを見守る視線は多いのに、誰も近寄ってこない。アカネは窓際に肘を置き、外を眺める。路面電車が角を曲がり、恩音中央公園の緑が遠くに揺れている。
午後の授業も頭に入らなかった。指先に残った熱のせいで、ノートの罫線が落ち着かない波みたいに見える。放課後。黒板消しの粉が白く舞い、光の中で雪みたいに瞬いた。アカネはモップを二、三度動かしただけで窓際に戻る。
「よしちん。退屈。面白いもん、ない?」
「ないよ」
「それを探すのがアンタの仕事」
「いつから?」
「今」
赤銅の視線がまた突き刺さる。ほんの数秒でも、長く伸びた影に掴まれるみたいに息が詰まった。
「屋上、行こ」
彼女は勝手に廊下へ出ていき、ボクは靴音を追った。階段の踊り場に差す西日が髪を赤銅に縁取る。
屋上は風が通り、街が一望できた。駅、路面電車、遠くの煙突、そして白いるるぽーしょん恩音の建物。フェンス越しの空は高く、雲が薄い。
「アンタ、部活してないんだろ?」
「帰宅部。オインモールにある水泳スクールに通ってる」
「へえ。泳げるんだ」
「人並みに」
「人並みって、どの並み?」
「……さっきからそればっかり」
アカネは笑った。教室で見せた挑発の笑みとは違い、風に混ざって軽い。目尻が少しだけ柔らかくなる。
「この街、嫌いじゃない。でも退屈は嫌い。アンタといると退屈じゃない」
唐突な言葉に、返事が出てこなかった。喉の奥に絡まった糸みたいに、言葉の端がほどけない。
「——なんでボクに近づくの?」
「窓際がいいから」
「席の話じゃなく」
「顔が好み」
「適当なこと言わないで」
「適当じゃないよ」
一歩近づいた瞳が覗き込む。虹彩の奥に、微かな火の粒みたいな揺らぎが見えた。
「アンタの目、死んでない。面白いもんを見つける目だ。放っとけない」
肩に置かれた手がじんわり熱い。触れているだけなのに、心臓の鼓動が指先に追いついてきて、体温の境界が曖昧になる。
「……手、熱くない?」
「よしちんのほうが冷たいだけ」
会話は妙にかみ合い、言葉以上の何かが積もっていく。沈黙の重さの単位を、二人だけが共有しているみたいだった。
「明日。放課後、恩音中央公園。来いよ」
アカネは笑い、フェンスから背を離す。足音が鉄の階段へ流れていく残響を、風がばらして運んでいく。
教室へ戻ると、机の端は微かに色が違って見えた。指で触れると温度は残っていないのに、焦げた匂いだけが記憶の底で燻っている。
家に帰っても宿題は進まず、夜も眠りは浅い。時計の秒針が呼吸に張りつく。まぶたの裏に屋上の風とアカネの声、机の焦げ色が繰り返し浮かんだ。
そして翌日の放課後。約束どおり恩音中央公園へ向かう。空は高く、雲は薄く、芝生は陽を含んで柔らかい。噴水の水音が耳にやさしい。ベンチの影で、アカネが足を組んで座っていた。
「来たな、よしちん」
「来たけど、何するの」
「退屈、潰す」
彼女は立ち上がり、芝を蹴る。髪が赤銅の火のように揺れ、ボクの胸元に人差し指を当てた。熱が伝わり、景色が一瞬だけ色を失う。水滴の粒が光だけになって宙に浮いたみたいに見えた。
「アンタ、どこまで面白くなれる?」
答えは出せない。けれど胸の落ち着かなさは、もう退屈とは違う名前に変わり始めていた。疑いでも不安でもない、期待に近い震え。
「続きは——明日、教える」
赤銅の視線が揺れる。ボクは頷いた。怖さと同じだけ、楽しさもあった。噴水が夕陽を砕き、細かな光を撒き散らす。
——ボクの夏は、ほんの少しだけ、赤銅に傾いた。
午前二時間目の数学は、黒板の上で記号が行進しているだけの別世界だった。係数の前後で並びが入れ替わり、先生のチョークがリズムよく鳴っても、ボクのノートには形の整った記号だけが増えていく。意味は薄く、線だけが濃い。時々、アカネが窓の外に顔を向けたまま、指先で机の角をこすっているのが視界の端に入る。その爪先が通ったあとに、髪の毛一本分の細い線が残る。光の加減だと思いたかったが、角度を変えても筋は消えなかった。
休み時間、廊下を通り過ぎる三年生の会話が耳に刺さった。「あの三神、またか」「担任も面倒ごと避けたいらしいぞ」。ふざけた笑い声。ボクは窓ガラスに額を寄せ、内側から冷たさを借りた。外を走るオイントラムの車体に広告が流れ、るるぽーしょん恩音の夏セールが派手な色で踊っている。街は平和で、教室だけが戦場みたいに息苦しい。
昼の終わり、アカネは机の端に指を置いたまま、空っぽの席のほうを一度だけ見た。誰かを待つときの視線に似ていたが、実際には誰も来やしない。彼女は指先で机を二回、ことりことりと叩く。まるで合図。ボクが理由を尋ねる前にチャイムが鳴り、午後の時間割が動き出した。
三時間目の古文は眠気との競争だった。アカネは教室の後ろから前へと視線をゆっくり滑らせ、何かを数えるみたいに止めては進める。数えられた気がして、意味もなく背筋を伸ばした。窓の外の空は白く、雲の輪郭だけが濃い。風が押し寄せ、カーテンの裾が波打つたびに、机の焦げ色の筋が薄くなったり濃くなったりする。
放課後の廊下には汗と洗剤の匂いが混じっていた。ボクは雑巾を絞り、黒板の縁を拭き、ついでに自分の机の角も指でなぞった。ほんの少し、木目が毛羽立っている。爪で触れると、乾いた音がして、指先にこすれた粉がついた。熱のせいで塗装が柔らかくなった、という言い訳は、冷房の効いた室内では通らない。
屋上での短い会話が終わった後も、風景はしばらく胸の中で回転を続けた。フェンスの目の向こうに広がる褪せた町並みの色、体育館の屋根に落ちる雲の影、グラウンドの白線。アカネの言葉は短く、しかし妙に余韻を残す。言葉の尾が見えない糸になって、ボクの中のどこかに結び目を作ったようだった。
家では母が録りためたドラマを見ていて、ボクの帰宅に気づくと「おかえり」とだけ言った。台所には味噌汁の匂い。食卓に着いて箸を持つと、昼にアカネがつまんだ卵焼きの感触が指に蘇る。味は同じはずなのに、昼の一切れのほうが濃かった気がする。
夜の部屋は静かで、目覚ましの秒針が神経を引っ張る。課題のプリントを広げるが、解答欄に書く数字はどれも居心地が悪そうに見え、すぐに消しゴムに戻された。窓を開けると遠くでバイクの音。オイントラムの最終に近い時刻、架線の金具が小さく震える音まで届く。耳を澄ますと、町全体が大きな生き物のように呼吸している。
布団に潜ってからも眠りは浅かった。目を閉じると、誰かの指が胸元に触れたときの熱が皮膚の裏から立ち上がる。あの熱は、夏の太陽の熱でも、体育のあとに残る熱でもない。もっと乾いていて、芯のある熱。もしアカネが本当に熱を持っているなら、どこからそれを連れてきたのだろう。そんな馬鹿馬鹿しい問いを追いかけているうちに、いつのまにか薄い眠りに落ちた。
放課後、恩音中央公園に向かう道を歩く。校門を出て、オイン通りを南へ。歩道のタイルに街路樹の影が落ち、ひし形の模様を作っている。横をトラムが通り過ぎると、車体が風を引きずっていく。ボクはその風の残りを背中で受けながら、足を進めた。
公園の入口で、ベビーカーを押す親子が噴水の方向を指差して笑っている。子どもの笑い声は乾いた空にうまく響き、しばらく消えなかった。芝生の香りが新しい。ベンチの影に座るアカネは制服のままで、膝に両手を置き、上体を少し前に倒していた。思索している人の姿勢だ。
彼女はボクに気づくと、頬だけで笑った。目は笑っていない。けれど冷たさはなく、温度の行き来がある目。彼女の熱は目からでも伝わるのかもしれないと思う。
芝の上に立って会話を交わしたあと、アカネは黙った。黙ったまま、噴水の水柱を見ている。水は日差しを受けて、無数の破片になって落ちてくる。ボクは彼女と同じものを見ようとしたが、同じものを見ている気がしない。視界に映るのは水と光で、アカネの目に映るのは別の何か。
そのとき、彼女の指がボクの胸元にふれた。指先は軽く、しかし確実にそこにあった。薄い電流が服の布目を通って皮膚に触れる。風景が一瞬だけ無音になり、色が半歩遅れてついてくる。
「アンタ、どこまで面白くなれる?」という問いは、挑発というより、確認に近かった。ボクの中にある何かを、彼女はすでに知っている。そう思わせる眼差しだった。
ボクは言葉を探し、見つからず、代わりに息を深く吸った。午後の風は少し塩の匂いがして、川から上がってきたのだと分かる。息を吐くと、胸の中に残っていた硬い塊が、ほんの少し角を失った。
アカネは空を見上げ、「続きは——明日、教える」と言った。その声音は、秘密を自慢する子どもみたいに明るく、けれどどこかで自分に釘を刺す大人の硬さも持っていた。ボクは頷くしかなかった。
噴水の跳ね返りが靴の先を濡らした。水滴は冷たいのに、体は温かい。相反する感覚が同時に残り、足取りは軽く、しかし考えごとは重かった。帰り道、トラムのレールが夕陽を拾って長い線を作る。ボクはその線の上を歩くように家へ向かった。
家の門をくぐる直前、ポケットの中のスマホが震えた。画面には「明日、遅れるな」という短いメッセージ。送り主の名前は表示されていないのに、誰からか分かった。文末に句点がない。アカネの文は、最後まで走っている。
風が南から吹き、どこかで花の匂いがした。季節の端が入れ替わる瞬間の匂い。ボクの夏は、ほんの少しだけ、赤銅に傾いたまま、明日に持ち越されることになった。
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