第17話 橙に照らさせる合唱圏
午後四時、オイントラムの車窓にるるぽーしょん恩音の白が現れた。週末前の金曜、館内のアナウンスは軽く、吹き抜けの中央には簡易ステージが組まれている。ガラス天井から落ちる光が床のタイルで砕け、拍手の粒を待つ器みたいに広がっていた。胸の針は落ち着いている。斜めの座標に寄せたまま、置かないで、ただ場のリズムを撫でる。
フードコートの横を抜けると、ステージ前のスペースに人の輪が二重三重にできていた。制服姿の学生、買い物帰りの親子、仕事帰りの大人。音響のテストで、短いドラムの打ち込みが鳴る。その一打で、輪の周囲に見えない目地が一本、すっと走るのが分かった。澪奈が言っていた「視線の目地」。今日のボクはそれを確かめに来たのだと思う。
司会の簡単な前振りのあと、スポットが一度だけ暗く落ち、次いで光が開く。ステージ中央に立ったのは、一人。明るい金のリボンと、クリアな声。地元発のシンガー/アイドル——橙川ルカ。ポスターで見た名だ。群衆のざわめきは一拍で「視線」に変わり、拍手の粒が一定のテンポで立ち上がる。
彼女はマイクを握り、最初の一声を軽く放った。それだけで前列の肩が二センチほど前へ寄り、後列のつま先が同じ角度で内側に向いた。強制、ではない。同期だ。彼女が息を吸うと、輪が息を吸い、彼女が笑うと、輪の端がほどける。ボクは胸の針を半歩だけ斜めに寄せ、場の傾斜だけを観測した。
一曲目は軽い。二曲目のサビへ入る前、ルカは指先で軽くテンポを刻み、言葉を間引く。拍の空白に、手拍子がぴたりと重なる。合唱圏——ボクの頭に勝手に名前が浮かんだ。彼女は歓声を束ねる。束ねられた圧は、暴れず、輪の中央に滞留する。滞留は危険にも救いにもなる。彼女は救いのほうへ寄せる術を、たぶん身体で覚えている。
ステージの脇で、警備スタッフが観客の動きを見ている。ボクは人垣の端に立ち、視線の帯の端を踏むように位置を取った。胸の針は中央に寄ろうとしない。寄せない。寄らないかわりに、帯の圧だけが指先に伝わる。
途中、子どもが前へ出かけて、母親の手が慌てて伸びた。その一瞬、拍のテンポが乱れかける。ルカは客席の右手を指して笑い、歌のメロディを一度だけ半拍早く落とした。群衆の心拍が、彼女の「落とし」に合わせて一瞬で再同期する。母親の手は届き、子どもは列に戻る。曲は何もなかったように進む。胸の針が「うまい」と言った。
曲間のMC。彼女は丁寧に息を整え、ことばを短く切る。「今日は来てくれてありがとう。——ここ、見える? 上に大きなガラスがあって、光が輪になって落ちる。みんなの拍手は、その輪を広げる。だから、もう一曲、輪を大きくしよう」
歓声。ボクの隣に、ユイが立っていた。紙筒はない。代わりに小さなメモ帳を持っている。「観察」彼女は短く言い、視線だけでステージの端から端までを測った。間を置かず、アカネからメッセージが届く。『屋上、風、落ち着いた。どれくらい騒がしい?』ボクは『安全。拍の管理がうまい』と返した。
三曲目。合いの手が増え、声の多さが圧力に変わる。輪の外縁が少し熱を帯び、押されるように半歩だけ内側へすべる。危ない角度。ルカはステップの向きを変え、マイクを観客へ差し出した。合いの手が「歌」に混ざった瞬間、圧は分散し、外縁の熱が下がる。彼女は拍手の粒を「歌」に吸わせた。合唱圏は、彼女が中心であると同時に、中心を他者に譲る術でもある。
小さなハプニングは、最後の曲で起きた。サビに入る直前、天井から吊った装飾バナーの端が、固定から外れて落ちかけた。気づいたスタッフが走るが、間に合わない。落ちてくる位置は、ステージの縁、ルカの肩の真上。ボクは考えるより先に体が動いた。前に出る。斜めへ寄せる。胸の針は置かない。置かないまま、落下の軌道の「座標」を半歩だけずらす。視線の目地がそこにあった。合図は——斜め。
バナーはルカの肩を外れ、マイクスタンドの横に「外れて」落ちた。布だから怪我はない。スタッフが素早く回収し、曲は止まらない。ルカは一拍だけ驚いた目をして、すぐ笑いに変え、サビへ踏み込んだ。輪は揺れず、むしろ引き締まった。
終演後。人の流れが解け、フロアはゆっくりと日常へ戻っていく。ボクは柱の影で深呼吸をした。胸の針は静かだ。置かなかった。けれど、止めた。座標を斜めに重ね直しただけで、物理はおとなしく従ってくれた。従ったのは、彼女が作った「場」が安定していたからでもある。
「助かった?」
肩越しに声。振り向くと、ルカがステージ脇のスタッフ通路からこちらを見ていた。汗で前髪が額に貼りつき、呼吸は速い。近くで見ると、ステージ上の光彩よりもずっと普通の年相応の顔だ。
「さっきの、気づいた?」
「気づいた。あなたが一歩、斜めに入った。——ありがとう」
「たまたま」
「たまたまは、練習した人にしか起きない」
彼女はそう言ってから、声を少し落とした。「君、名前は?」
「藤井、義隆」
「藤井くん。私は橙川ルカ。今日、輪を大きくしてくれて、ありがとう」
「ボクは何も」
「いや、した。輪が乱れずに済んだ」
ルカは手短に礼を言い、スタッフに連れられてバックヤードへ戻る。別れ際、彼女の視線がボクの胸のあたり——針のある辺りを一度だけ確かめるように通り過ぎた。見透かされた気がして、息が浅くなる。
観客の列が減り、ユイが寄ってきた。メモ帳の角は丸く、ページの端に斜めの短線が引いてある。「見た」
「何を」
「座標のずらし。——置かなかった」
「置かないで、止めた」
「うん。紙なら『余白で受ける』って言う」
そこへ澪奈からメッセージ。『無事。拍の粒、静まった。——ありがとう』短い文。彼女の影はきっと、今もボクの足もとを一針だけ測っている。
しばらくして、ステージの片づけが半分ほど進んだころ、フロアの隅から拍手が自然発生した。スタッフに向けた小さな労いの拍手。ルカが再び姿を見せる。アンコールではない。彼女はマイクを持たず、素の声で言った。「最後に、ちょっとだけ。——拍手のテンポ、私に合わせてもらっていい?」
ボクは胸の針を斜めに寄せ、観客の輪の外側で足裏に拍の粒を感じた。彼女が手を打つ。タタ、タタ。輪が追う。次いで彼女はテンポを落とし、最後に一拍分だけ間を長く取った。輪は、待った。待てた。人の集まりが一つの体みたいに「待つ」瞬間を、ボクは初めて見た。
「ありがとう。待てる輪は、優しい」
その言葉は、ボクの胸の針にも落ちた。待つ。置かないで、待つ。合唱圏の核は、たぶんそこにある。
解散のアナウンス。帰りの人波に混ざる直前、背後でユイが小さく言った。「——嫉妬、来る」
「誰の?」
「誰か、はまだ言わない。色が動く。光の反対側で」
たしかに、ボクのスマホは立て続けに震えた。アカネ『退屈、今すぐ潰したい』。真澄『水を飲んで帰ること』。澪奈『先輩の影、今日は静かです。でも——』で途切れる。三様の温度が同じ中心にぶつかり、やがてほどける。そのほどける速度を、ボクはこれから学ばないといけない。
外へ出ると、夕暮れのオイントラムがガラスの外周をゆっくり回っていた。車体の反射が、歩道のガードレールに細い光の線を刻む。胸の針は静かだ。だが静けさは、嵐の前とは限らない。輪は広がった。次は、輪がぶつかる番だ。ボクはポケットの中で拳を握り、合図を心の中で繰り返した。——斜め。
出口近くの掲示板に、新しいポスターが貼られていた。『恩音高校 文化祭×るるぽーしょん恩音 共同PRウィーク』。校章の上に“スペシャルゲスト:橙川ルカ”の文字。日付は来週。会場は学校の体育館と、この施設のステージを結ぶ回遊導線。ボクが目を通していると、ユイが隣に並んだ。
「動線、私が引く」
「学校と施設を、一本の線で?」
「そう。人の流れを迷わせない。——輪を、つなぐ線」
「ルカは校内にも来る?」
「来る。だから、紙も影も、準備がいる」
ユイはポスターの右下に視線だけで小さな“斜め”を置く仕草をして、歩いていった。
駐車場へ続く連絡デッキで、アカネが待っていた。風に前髪が揺れ、赤銅の視線が夜の手前を照らす。「見たよ」
「どこで」
「上から。——派手にやるじゃん」
「派手じゃない」
「派手だよ。輪の中心で、斜め。……面白い」
アカネはボクの胸元に指を当て、熱をほんの少しだけ置いた。「次、退屈、潰す」
「今日は終わった」
「終わってない。私の中は、まだ」
彼女はそれ以上言わず、踵を返した。踏み出す足が、いつもより半拍だけ速い。熱が焦げる前の匂い。光は、強すぎると影を濃くする。
家に向かうオイントラムを一本見送って、ベンチに座った。すぐにメッセージ。——『本日の落下物対応、ありがとう(スタッフ)』『安全確認の徹底に努めます(施設)』。間に一通、公式アカウントからの短い通知が挟まった。『橙川ルカ:輪が大きくなりました。ありがとう。——また』
簡素な言葉なのに、拍手の粒が添付されているみたいに温度があった。ボクは返事をせず、胸の針を斜めに寄せる。置かない。待つ。輪は自然に戻っていく。
バックヤードの通路に続く扉が少し開いていて、硬い声が漏れてきた。「——舞台上での危険回避、感謝。でも、観客との接触は管理の下で。次は学校コラボ、段取りから外れないで」
間を置かず、ルカの落ち着いた声。「分かっています。私は輪を大きくする。無茶はしない」
「ならいい」硬い声は遠ざかった。扉が閉まる。ボクはベンチから立ち、聞かなかったことにする。輪は大きいほど、掴む手が増える。掴む手は時に救いで、時に鎖だ。
ユイからもう一通。「文化祭の安全班、あなたも入って」
「ボクが?」
「観測者が一人いるだけで、線は曲がらない」
「前で動くのは向いてない」
「向いてないから、向いてる。——検討を」
短いやり取りが、明日の余白に小さな印をつけた。
夜。恩音中央公園を通り抜ける。噴水は照明を落として、影が濃い。ベンチの端に、澪奈がいた。気配だけで分かる。「見てました」
「上から?」
「影から。先輩の『斜め』、きれいでした」
「縫ってないよ」
「ほどきました。視線の目地を」
澪奈は立ち上がり、ボクの影の端にそっと触れた。触れた、だけ。「今日は、約束、守れました」
「知ってる」
「でも、次は分からない。——独占縫が、喉まで出た」
「止めて」
「はい。合図、斜め」
彼女は自分の胸に手を当て、小さく息をずらした。独占は闇へ寄り、止縫は光へ寄る。今日、彼女は光のほうを選んだ。
帰路、真澄から電話が入った。珍しい。「今日は施設に?」
「いた。少し」
「見てたわ。前に出て、斜めに入ったでしょ。危なくはなかった?」
「布だった。大丈夫」
「そう。——明日の朝、オインタウンのプールで軽く泳がない? 呼吸のずらしは、水のほうが体に入る」
「分かった。行く」
「無理はしないで。あなたが息を合わせると、周りが合わせるタイプ。ときどき、合わせない練習もいる」
「合わせない?」
「うん。わざと外して、戻る。戻り方を知ってると、溺れない」
電話が切れたあと、胸の針は一度だけ深く沈み、ゆっくり戻った。誰かに合わせること、合わせないこと。選ばないまま動くこと。どれも間違いで、どれも正解かもしれない。だから合図がいる。短くて、確かなやつ。
帰宅して、机にノートを開く。新しく一行、『光彩=輪を待たせる力/闇=歓声飽和(判断鈍化)』と書き足す。ルカの能力は、たぶんその両端を持っている。誰かが彼女の輪を乱すなら、闇が顔を出すだろう。乱すのは、次のバトル——五人、あるいはもっと。ページの白が静かに飲み込み、線は薄く残る。
窓の外、遠くの施設の屋根の上で、照明がひとつだけ遅れて消えた。一拍の遅延。輪が最後の拍手を胸ポケットにしまい、夜はやっと静かになる。ボクは掌を見て、拳を開き、心の中で合図を繰り返した。斜め。斜め。斜め。




