表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/17

第16話 墨影にほどける誓い

 朝、教室の窓を抜けてきた光は、昨日より少しだけ硬かった。夏の名残は薄れ、校庭の砂はさらさらと乾いている。胸の針は、斜めの座標にそっと寄ったまま、落ち着いていた。置かない。けれど止められる——きのう夜の練習で掴んだ感覚が、体のどこかに静かに残っている。

 ユイは出欠の紙を揃え、アカネは窓枠を指で叩き、真澄は廊下の先で軽く手を上げてから視線だけで「後で」と告げる。いずれも普段どおりの仕草。けれど、普段どおりに見せようとする努力の匂いが混じっているのを、ボクは昨日よりもはっきりと感じていた。


 放課後。恩音高校の昇降口で靴を履き替えると、半歩うしろに澪奈が立っていた。姿勢はまっすぐ、目はまっすぐ、影は整っている。

「先輩。十七時、恩音中央公園の噴水、東側。昨日の続きと、——約束の確認を」

「分かった」

 短いやり取りで、時間は決まった。ユイからは掲示のレイアウト変更のメッセージ、アカネからは「屋上で風の具合を見る」とだけ。真澄は「水筒を忘れないように」。三人の言葉はそれぞれ別の季節の空気をまとっているのに、同じ中心へ届く。中心にいるのは、ボクだ。


 オイントラムに揺られて二駅。恩音中央公園の噴水は午後の光をばらばらに砕き、東側の石畳は等間隔の目地を影に刻んでいる。澪奈は先にいて、ベンチの端で立ったまま周囲を見ていた。

「遅れてません」

「時間どおりだろ」

「はい。影も、時間どおり」

 意味の取りにくい言い方なのに、妙に納得してしまう。澪奈はボクの足もとを一度見てから、噴水の縁に視線を移した。


「今日は二つ。ひとつは、守る方法の上書き。もうひとつは、約束」

「守るの“上書き”?」

「はい。私は『縫う』より『ほどく』のほうが得意です。だから、先輩を守るとき、まず『ほどく』から入る」

「ほどいて、守る」

「はい。影の流れを遅らせる前に、危ない縫い目を先回りでほどいておく。返しは、基本、使わない」

「返しは、命について来る」

「理解してくれて、うれしいです」


 澪奈は石畳の目地に片膝をつき、指先を軽く滑らせる。影の濃度が、波みたいに薄く厚くを繰り返した。目には見えないけれど、足裏の感覚が、路面の張りを確かに拾う。

「準備運動みたいなもの。影の糸をほぐしておくと、縫われにくい。先輩の周りは特に」

「どうして」

「先輩が中心だから。——中心は、縫われやすい」

 否定できなかった。胸の針が、自分の位置を確認するように一度だけ高く鳴る。


「もうひとつ、約束」

 澪奈はベンチの端に並んで座ると、小さな声で続けた。

「私は、先輩の名前に返しを使わない。緊急時でも、できる限り使わない。返しを使うときは、先輩が『使え』と言ったときだけ。——これが誓い」

「……重いよ」

「針は軽くて、誓いは重い。だから、針箱に一緒にしまいます」

「分かった。ボクのほうの約束も言う。——名前を投げつけられたら、呼吸を半拍ずらす。針は斜めに寄せて、置かない」

「はい。『ほどく』準備ができる」


 そこへ、ベビーカーを押した親子が噴水の縁を回り込んだ。ベビーカーの前輪がほんの一瞬だけ目地にひっかかり、ぐらりと傾く。ボクが立ち上がるより早く、澪奈の指が空気を撫でた。

「——止縫」

 影が一拍だけ固まる。親の手が持ち直す。息の合う作業のように、一連の動きが滑らかに戻り、澪奈はすぐ縫い目をほどいた。誰も気づかない。噴水の水だけが同じリズムで落ち続ける。


「こういうのは、迷わない」

「うん」

「でも、今からは——迷います」

「?」

「ここで、一度だけ、名前を使います。返しは使いません。先輩がほどくのを、見たい」

「ほどく練習、ね」

「はい。失敗しても、私が全部ほどきます」

「任せろ、とは言わないよ」

「言わないでください」

 澪奈は立ち上がり、ボクの斜め前に回り込んだ。目地の角が四つ集まる交点に、影の針穴みたいな小さな濃さが生まれる。彼女は一度だけ息を吸い、声を限界まで細くして、ボクの名を呼んだ。刺さらない抑揚。返しのない針。けれど、確かに「針」だ。


 足もとが半拍、重くなる。胸の針が中央へ寄ろうとする。——寄せすぎない。半歩だけ斜め。吸う息を一拍分遅らせ、吐く息で影の張りを踏み越える。頭のなかで、ユイの細い罫線、アカネの熱の輪、真澄の薄膜を順に思い浮かべ、最後に、自分の針を細い橋に見立てて渡す。糸が擦れる音が耳の裏でさっと鳴り、縫い目はほどけた。

「今の、どう」

「満点です」

「ほんとに?」

「はい。影は傷ついていません。返しがないから、ほどいたあとは白紙に戻る」

 澪奈はほっと息を吐き、ベンチに腰を下ろした。肩の力がほどける。ボクも腰を下ろし、しばらく噴水の音を聞いた。


「ねえ、澪奈」

「はい」

「『守る』って言うけど、守る相手を、縫いすぎない自信はある?」

「ありません」

「即答か」

「自信はありません。でも、約束はできます。——返しを使わない。ほどいてから縫う。縫ったら、必ず自分でほどく」

「なら、ボクも約束する。——縫われたら、ほどく。ほどけないときは、頼む」

「頼られたら、返します」

「返す?」

「はい。守りは、返されて完成。片道だけだと、歪みます」

 彼女の言葉は、意外なほどよく撚られていて、引っ張っても切れない糸のように感じられた。


 そのとき、噴水の向こうから拍手の粒が風に混ざって届いた。遠いが、一定のテンポ。るるぽーしょん恩音の方向からだろう。週末のイベントのリハーサルか、それとも宣伝のミニライブか。澪奈は眉をひそめ、影を足もとに集めた。

「来ます。群衆の拍。影が波立つ」

「五人目、かもしれない」

「はい。声が濃い人。影の目地より、視線の目地で縫ってくる」

「視線の目地?」

「多くの目が一つの方向を向くと、地面に見えない目地ができます。そこに針を落とす人がいる」

 彼女の説明は、想像の領域を超えて、現実の縁に触れる具体さを帯びていた。拍手の粒はしばらく続き、やがて遠ざかった。


 拍手の粒が遠ざかったあと、掲示用の筒を抱えたユイが公園に現れた。放課後の光に白い紙の縁がきらりと光る。

「位置決め、試したくて」

「ここで?」

「ここが一番、線が素直」

 ユイはベンチの背にもたれ、膝の上で紙筒を転がした。紙は出さない。影の上に、指で目に見えない罫を引く。指先が通った跡に、影が薄く筋を見せるような錯覚が起きる。澪奈はその筋に沿って影を撫で、縫い目をほどく練習を重ねた。

「紙の線と影の縫い、喧嘩しない?」ボクが問うと、ユイは首を振った。

「整える線。ほどく縫い目。意味は近い。——ただ、アカネの熱が入ると、全部が速くなる」

「それは、分かる」

 ちょうどその時、スマホが震えた。アカネ『屋上、風、強め。退屈、消える予報』。短い文が熱を帯びる。ユイは画面をちらりと見て、笑った。

「風が強い日は、紙も影も揺れる。揺れると、ほどくのは難しくなる」

「今日の練習、正解だったな」

「ええ。二人が同じ合図を持ってくれたなら、私は線を減らせる。線が少ないほうが、紙は軽い」


 そこへ、噴水の脇で大道芸の学生らしい子が小さな輪を投げ始め、人が五人ほど集まった。視線が一点に集まり、拍の代わりに笑いが重なる。澪奈が細く息を吸った。

「視線の目地ができる。試します」

「無理はするな」ユイが言う。澪奈は頷き、集まった人の背後——視線の落ちる帯の外側に小さな縫い目を置いた。置いた、というより、帯の端に針を立て、流れを柔らかく曲げる。

 見物人の一人が、携帯を落としかける。足もとの影が一拍だけ張り、拾う動作が遅延した分だけ、隣の人が先に拾い上げた。誰も躓かず、輪はもう一度高く上がる。

「——斜め」

 ボクは心の中で合図を繰り返し、胸の針を寄せるでもなく、離すでもなく、半歩だけ傾ける。視線の帯の圧は、さっきよりも軽い。ユイが横目でこちらを見て、満足げに小さく頷いた。


「紙は目に見える。影は見えない。だから、合図だけは、見えるところに置いて」ユイが言った。

「どう置く」

「例えば、掲示の右下に小さな斜め線。二人しか分からない記号」

「分かりやすい」澪奈が応じる。「私の影も、その記号に合わせて薄くなる」

「なら決まり」

 ユイは筒の蓋をたたき、立ち上がった。「次は学校で」

「うん。ありがと」

「アカネにも伝えておく。『斜め』」

 ユイはそれだけ言い、図面の軽い足取りで去っていった。


「準備、しとこう」

「はい。——もう一つ、今日の本題」

「まだあるの」

「はい。守るだけだと、私は独り相撲になります。だから、先輩の側の『守り方』を決めたい」

「ボクの側?」

「はい。先輩が自分を守る言葉。自分で自分を『ほどく』合言葉。呼吸の合図でもいい」

「合言葉……」

 ボクはしばらく考え、ノートの余白のような短い語を一つだけ拾った。

「——“斜め”でどう」

「いいと思います」

「影が縫われそうになったら、心の中で『斜め』って言う。針を中央から半歩ずらす合図にする」

「それ、私も使います。先輩の影に触れるとき、心の中で『斜め』。返しが立ちにくくなる」

「共有の合図、ってことか」

「はい。合図は、約束の始まり」


 澪奈は立ち上がり、噴水の縁を軽く蹴った。飛沫が陽を裂き、石畳に小さな光の目が並ぶ。影はその目を避けるように流れ、ボクの足もとへ戻ってくる。

「先輩。練習、もう一回だけ。今度は、私の名前で」

「澪奈、ね」

「はい。返しが出やすい位置を、私が見つけます。先輩は『斜め』でほどいてください」

「分かった」

 ボクは息を整え、胸の針を半歩だけ寄せる。澪奈は目を閉じ、自分の名前を自分で呼んだ。声はほとんど音にならず、それでも影は微かに引き寄せられる。彼女は自分の影を自分で縫い、自分でほどいた。半拍の遅延。見事に滑らかだ。

「うまい」

「自分の影は、練習をたくさんしました」

「ボクの名前は、練習しすぎないで」

「はい。しません。必要なぶんだけ」

 やり取りは軽いのに、言葉の芯は重い。針箱の中にしまったはずの誓いの重さが、ふと指先に戻ってくる。


 公園を出るころ、空は薄く朱に染まりはじめていた。オイントラムのモーター音は低く、るるぽーしょん恩音の看板が遠くで白く灯る。並んで歩く影は長く、目地の隙間をまたぎながら延びていく。

「澪奈」

「はい」

「今日の約束、もう一度確認。——返しは使わない。ほどいてから縫う。縫ったら、必ずほどく。ボクは、縫われたらほどく。ほどけないときは頼む。合図は『斜め』」

「はい、全部」

「守れる?」

「守ります。破りそうになったら、先輩が止めてください」

「止められるかな」

「止められます。先輩は、置かずに止められる」

 彼女の信頼は、無根拠に見えて、実は昨日今日の細い練習の積み重ねで縫われている。ほどけば崩れる、でも、何度でも縫い直せる。そういう種類の信頼。


 駅へ向かう途中、踏切が下りた。人の列が止まり、影が一斉に長く伸びる。澪奈は列の最後尾から前の人の間隔を数え、静かに言った。

「このままだと、誰かが焦って前に出る。——止縫、準備」

「必要なら、合図を」

「はい」

 小さな子の手がするりと抜け、母親が追う。澪奈は「斜め」と心の中で言ったのだろう、息を一つだけずらし、針のない縫いで足もとの影を軽く張らせた。子は半拍遅れ、母の手が届く。踏切のベルが鳴り、列は静かに保たれたまま、電車が通り過ぎる。ほどく。流れが戻る。


 駅で別れる前、澪奈はわずかに躊躇してから、袖をつまむように言った。

「今日、守れなかったら、どうしますか」

「守れなかったら?」

「はい。私が」

「そのときは、ボクが守るよ」

「どうやって」

「分からない。でも、『斜め』で、止める」

「……はい」

 短い間のあと、彼女は小さく笑った。年相応の、緊張のほどける笑い。


 家に戻ると、机の上のノートを開いた。空白に細い線で、今日の合図を書き込む。『斜め=ほどく合図』『返しは緊急時のみ』『守りは返されて完成』。ページの白が静かに飲み込み、線は薄く残る。

 窓の外で、オイントラムが通り過ぎた。ガラスに灯りの帯が走り、遠くから小さな拍手の粒がもう一度だけ混ざって届く。群衆の拍——次の「場」の気配。胸の針は半歩だけ寄り、また戻った。置かない。けれど、準備はできている。


 そして、ボクはペンの先でノートの隅を指し、心の中で繰り返した。合図は短く、誓いは長い。——斜め、斜め、斜め。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

今後の更新予定日は【火曜・金曜】の22:00です!

よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ