第15話 墨影に遅れる足跡
翌日、ボクは授業が終わるチャイムを聞きながら、胸の針をそっと探った。きのうよりも静かに、でも確かに中心の近くで震えている。置かないで保つ、という感覚が、筋肉の奥に染みこんできたのかもしれない。
ユイは黒板の前で係の仕事を片づけ、アカネは窓の桟に腰を掛け、真澄は出席簿を持ったまま小さく手を挙げた。それぞれ視線だけで「後で」と告げてくる。ボクはうなずき、教室を出た。
昇降口の影は薄く長い。そこに昨日の後輩——三浦澪奈が立っていた。姿勢はまっすぐ、靴の先は白線にぴったり合っている。影の輪郭まで几帳面だ。
「先輩。五分、ください」
「いいよ」
「場所、変えます。図書館の奥、理科準備室の手前。影が素直」
歩き出すと、澪奈は半歩うしろを保ち、その半歩が崩れない。階段では一段、廊下ではタイル二枚分、ガラスの前では映り込みの端——距離が場面に応じて規則的に変わる。測っている、というより、縫い目の間隔を指で確かめているみたいだった。
理科準備室の前は、夕方になると人の流れが薄い。窓格子の影が床にきっちり落ち、棚の脚までまっすぐ伸びる。澪奈はその一角に立ち、ボクを向かい合わせに立たせると、小さな声で言った。
「きのうは、ごめんなさい」
「試したいって言ってたから、怒ってない」
「怒られないと、反省できません」
「反省は、したの?」
「しました。だから、今日は『ほどく』の練習をします」
ボクは息を整える。胸の針は半歩だけ中央から外したまま、呼吸に合わせて小刻みに上下する。澪奈は床の目地に沿って指先を滑らせ、影を撫でた。声は出さない。影の濃度がほんの少しだけ増す。
「いま、縫った?」
「縫いません。ただ、撫でただけ」
「撫でると……」
「影は、人の体温を覚えます。覚えたところは、縫いやすく、ほどきやすい」
説明は淡々としているのに、言葉の終わりにだけ微かな熱が乗る。ボクは頷いて、澪奈の合図を待った。
「では、名前なし、声なしで。一針だけ、遅延を作ります」
「やって」
「はい。——三、二、一」
床の影が一瞬だけ張った。足を出そうとして、半歩だけ遅れて出る。次の足は遅れない。軽い肩すかしみたいな遅延。澪奈はすぐに指を逆方向へ滑らせ、縫い目をほどいた。
「ほどくときは?」
「呼吸を合わせる。先輩の針は、斜めの座標に強い。そこに『戻す』イメージ」
「置かないで、戻す」
「はい」
もう一度。同じ遅延。今度はボクが息を整え、胸の針を半歩だけ斜めへ寄せ、影の張りを踏み越える。するりと抜けた。澪奈の目がわずかに開く。
「うまいです」
「偶然だよ」
「偶然を二回できる人は、少ない」
空気が少し緩んだところで、澪奈は自分の影を持ち上げるふうに指先を曲げた。影は動かない。けれど、ボクの視界の端で輪郭が厚みを持つ。
「次は、名前を使う縫い。危険なので、一拍だけ。——許可を」
「許可はしない」
「なら、理屈だけ説明します」
澪奈は黒板のチョークの粉が残る棚から細い棒を取り出し、床の目地に沿ってすべらせた。棒の影が目地の影と重なる。
「声は糸。名前は針。影は布。けれど、針には返しがあります。返しがあるぶん、ほどきにくい。だから私は、基本、返しを使いません」
「返し、って針の返し?」
「はい。名前の抑揚にある『刺さる音』。フルネームには必ず一箇所、刺さる音が入る」
「ボクの名前だと、どこ」
「言いません」
「言えない、じゃなく?」
「言いません」
その言い方に、かすかな防波堤を感じた。越えさせない、という決意。守る、の裏返し。
「じゃあ、どうして『守る』なんだ」
「それは——」
廊下の向こうから、軽い足音が近づいた。ユイだ。細長い筒を抱え、図面を詰めたフォルダーを脇に挟んでいる。澪奈は半歩ひいた。ユイは二人を見ると、目だけで状況を読み、短く頷いた。
「図書委員の手伝い」ユイが言う。「掲示板の配置、変更。二センチ、右」
「分かった」
「彼女は?」
「後輩」
「そう」
ユイは澪奈に微笑む。礼儀は完璧。けれど、紙の端のように薄い緊張が微かに走る。澪奈も会釈で返し、影を足元へまとめた。
「——邪魔をしたくないので、行きます」澪奈が言った。「先輩、夜、五分。メッセージします」
「うん」
「ユイ先輩、掲示、手伝います」
「助かる」
澪奈が去ると、ユイはボクに視線を戻した。紙の白のような静けさ。
「後輩、器用」
「器用、なんてもんじゃない」
「名前を、触る人?」
「……知ってる?」
「噂は、線で届く。音じゃなく、視線の動きで」
ユイは壁の影を指でなぞり、短く言葉を継いだ。
そこへ、理科準備室の扉が内側から開いた。カートに載せたガラス器具ががたんと鳴り、タイヤが目地に引っかかって傾ぐ。助手の先生が声を上げかけた瞬間、澪奈の指が床を払うように動いた。
「——止縫」
囁きほどの息。カートの影に一針だけ糸が落ち、傾きが半拍遅れる。その間にボクは前へ出て、台に手を添えて水平へ戻した。ガラスは割れない。助手が胸を撫で下ろし「助かった」と言って去る。澪奈は糸をすぐに抜き、影は元の厚みに戻った。
「いまの、返しは?」
「使っていません。人に向けて返しは、極力、ゼロ」
「ボクが前に出るタイミング、見えてた?」
「はい。先輩の針は『置かないで止める』。だから、半拍の余白があれば、充分」
ボクは自分の掌を見た。ほんのわずかな熱が残っている。澪奈の「守る」は、たしかに攻めていない。けれど、攻められたときに刺さるだけの硬さを、どこかに隠している気がした。
「名前は、図のタイトル。勝手に書き換えると、図は壊れる。——気をつけて」
「気をつけるよ」
「掲示のほうは、安心して」
ユイが去ったあと、廊下の空気は少しだけ軽くなった。けれど胸の針は、さっきの「守る」の続きが途中で切れた地点を、ずっと指していた。
夜。恩音駅から一本手前の停留所で降りた。るるぽーしょん恩音へ続く遊歩道の照明は白く、植え込みの影が規則正しい。ベンチに腰を下ろすと、メッセージが届いた。澪奈『今、大丈夫ですか』。ボクが『うん』と返すと、三分ほどで彼女が現れた。制服の上に薄いカーディガン。きちんと畳んだ影を連れて歩いてくる。
「騒がしくない場所、必要でした」
「ここ、影が素直?」
「はい。光源が一定、足元の模様が等間隔」
澪奈はボクから斜めに一歩はなれ、植え込みの縁に指を乗せた。
「話を続けます。どうして『守る』なのか」
彼女は息を吸い、吐いた。息のリズムは計測したみたいに揃っている。
「二年前。恩音中央公園で、弟が走って、転びました。たいした怪我ではありません。でも——日が傾く時間で、影が長く、重なっていた。弟は自分の影に足を引っかけたと言いました。私は笑いました。そんなはずないって」
「……うん」
「でも、その夜、私は影が縫われる夢を見ました。足首に一針だけ、見えない縫い目。ほどこうとしても、ほどけない。朝になって、弟の靴ひもが固く結ばれていて、どうやっても解けなかった。母は『強く結びすぎた』と言いました。私は、それが『影縫』だと思いました」
単なる思い込み、と切ってしまうには、話しぶりがあまりに正確だった。
「そこから、練習した。声を糸に、名前を針に」
「はい。弟は嫌がりましたが、安全な縫い方を、私が覚える必要があった。ほどける縫い目。遅延の範囲、時間、呼吸。全部、数えました」
「だから、『守る』」
「はい。返しを使わず、縫っても、すぐほどく。返しを使っていいのは、相手が命を落とすときだけ。返しはたぶん、死のほうへ寄りやすいから」
言葉が、夜風で冷えた。ボクは指先を組み、胸の針に意識を落とす。斜めの座標。置かない、戻す。
「先輩の名前は、返しが鋭い」
「言わないって、言った」
「言いません。でも、先輩のほうが注意してほしい。誰かに強く呼ばれたら、呼吸を一拍、ずらす」
「ずらす」
「はい。針が斜めなら、返しは刺さりにくい」
澪奈はベンチの下を指さした。影が二つ並ぶ。彼女は自分の影の端だけを摘むふうに持ち上げ、ボクの影に軽く触れさせた。糸が擦れる気配。
「今のは?」
「ただの挨拶。縫っていません」
「挨拶、ね」
「はい。先輩の影に、私の影が触れても、何も壊れないことを確認する挨拶」
ボクは笑った。澪奈も、少しだけ笑った。ほんの一瞬、年相応の表情が覗く。
ベンチでの会話のあと、澪奈は影の端を解きながら、もう少しだけ自分の話をした。
「私の家は、店をしています。針と糸の店。祖母は和裁で、母はミシン。私はいつも針箱の音を聞いて育ちました。だから、針の返しの怖さも、便利さも、知っているつもり」
「返しは、便利?」
「ほつれに、逆らってくれる。けれど、生地を傷つける。——影も同じです」
澪奈は右手の親指を見せた。小さな白い痕。針の跡だ。
「私は、縫い目をきれいにほどける人になりたい。ほどくためには、どう縫われているかを知らないといけない。だから、先輩の名前を、学びます」
「怖い宣言だよ」
「怖くないです。怖いのは、知らないで触ること」
「——もう一つ。先輩に頼みがあります」
「なに」
「名前で、呼んでください。一回だけ」
「……だめだよ」
「返しは使わない。録音もしない。ここだけで」
「どうして」
「私の針先が震える場所を、確かめたい」
危ないお願いだと分かっていても、彼女の目は真剣だった。ボクは視線を落とし、影を見た。等間隔の目地、一定の照明、夜風。胸の針を半歩だけ斜めに寄せ、呼吸を整える。
「——澪奈」
自分でも驚くくらい静かな声だった。次の瞬間、澪奈の影がわずかに泡立ち、足もとの縫い目が一つ、音もなく結ばれた。彼女は目を閉じ、すぐにほどく。
「ありがとう、ございます」
「今の、なにが分かった」
「私の『返し』が、どこにあるか」
「返し?」
「はい。守るために、どこまで近づいてよくて、どこからが危ないか」
沈黙が落ちる。遊歩道をジョギングの足音が通り過ぎ、るるぽーしょん恩音の看板が遠くで瞬いた。
「もう一つ、伝えます」澪奈が言う。「近いうちに、『声』の強い人が来ます。拍手の粒が混ざっている。群衆の音で影が波立つ」
「……どうして、分かるの」
「影が、さっきからリズムを拾う。拍の粒が、風に乗って来る。たぶん、るるぽーしょん恩音から」
五人目の影。ボクはうなずいた。胸の針が、小さく、一度だけ高く鳴る。
「帰りましょう。遅くなると、影が濃くなりすぎる」
「影が濃いと?」
「ほどくのに、時間がかかる」
帰り道、オイントラムの踏切で一瞬、非常ベルが鳴った。小さな子が保護者の手を振り切って前へ出かける。ボクの体が反射で動くより早く、澪奈のささやきが空気を縫った。
「——止縫」
子の靴底の影が一拍で固まり、足が地面から離れない。その半拍のあいだに保護者の手が届き、抱き寄せる。誰も何が起きたか気づかない。澪奈は視線を落とし、すぐほどいた。踏切が上がり、人の群れが安堵のざわめきを残す。
「見せびらかすためじゃ、ない」
「分かってる」
「でも、こういうのは、使う」
「使っていい」
ボクの声が、自然に出た。彼女は小さく頷いた。夜風が植え込みを撫で、影がまっすぐ伸びる。
立ち上がる。ベンチの下で影がほどけ、足は遅れずに出た。澪奈はいつもの半歩うしろを保ち、一定の距離で歩く。オイントラムのレールが細く光り、モーター音が遠くで和音になる。
「澪奈」
「はい」
「——勝手に、守るなよ」
「勝手に、守ります」
はっきりした声。返事の糸は短く固く、でも、返しはついていない。ボクは苦笑して、胸の針を斜めに寄せた。置かない。けれど、止められる。
家に戻る前、恩音中央公園を一周した。噴水の縁に腰を掛け、胸の針を斜めに置かず——いや、置かずに寄せる練習をする。呼吸、視線、足の裏の圧。ユイならここに罫を引き、アカネなら熱で押し、真澄なら水で重さを足すだろう。ボクには線も熱も水もない。ただ、座標をずらす細い橋だけがある。
ポケットの中でスマホが震えた。『今日の君は、目がよく動いていた』真澄。『二センチ右は正解だった』ユイ。『退屈、きょうは潰れた?』アカネ。三人三様の文が同じ中心へ届く。ボクは短く返したあと、噴水の水面に映る空を見上げる。そこへ、遠くの建物から、拍の粒がもう一度だけ風に混ざって届いた。
その夜、ノートの端に『遅延=一歩/ほどく=呼吸をずらす/返し=危険域』と書いた。ページの白が静かに吸い込み、線は薄く残った。遠く、拍手の粒が、ほんの少しだけ混ざって聞こえた気がした。
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