第14話 影を縫う声
第14話 影を縫う声
灰色に沈んだ夜の翌日、教室の窓から射す光はやけに薄く見えた。世界の輪郭だけがひと皮むけたみたいに頼りない。午前中の授業は流れ作業で、昼休みになっても、胸の奥の針はときどき勝手に位置を変えた。中央に寄りかけて、半歩ずれて、また戻る。置かないで持つ——きのう覚えたあの座標が、体のどこかに常駐したみたいだった。
放課後。下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、背中にひそやかな声が触れた。
「……先輩」
呼吸よりも細い、でも耳のいちばん奥へ真っ直ぐ届く声。振り返ると、二年生の女子が立っていた。肩できっちり切り揃えた黒髪、整ったリボン、きちんと締まった上履き。規則の教科書に載せたみたいな制服なのに、輪郭のまわりにだけ影が濃い。
「藤井先輩、ですよね」
「……うん」
「よかった。間違えたら、恥ずかしいから」
口元だけ笑う。目は笑わない。黒い瞳が光を飲み、ボクの顔の奥まで覗き込む。背筋がほんの少し冷えた。
「私、二年の三浦澪奈です。覚えてください。絶対に」
「よろしく」
「『よろしく』だけ、ですか」
一歩近づく。靴音は小さいのに、床板を縫う針みたいに鋭く響いた。
「先輩、最近……変なことに巻き込まれてませんか」
胸の針が鳴る。きのうの灰色が喉もとまで上がってきて、すぐに引いた。
「なに、それ」
「冗談です」
くすっと笑う。温度がない笑いだった。冗談のはずなのに、ロッカーの金具がかすかに鳴るほど、空気が緊張した。
「先輩は、私が守りますから」
守る? 甘い響きに、底だけ硬さがある。ボクは返事に迷い、結局曖昧に頷いた。
昇降口を出ると夕方の光。校門の向こう、路面電車オイントラムのレールが細く光り、風は鉄と埃の匂いを運ぶ。澪奈は半歩後ろにつき、一定の距離を保って歩いた。
「駅まで?」
「先輩が行くところまで」
「ついてくるの」
「付き添います」
言い換えが丁寧すぎて、余計に拒みづらい。
恩音駅前で、スマホが震えた。ユイ、真澄、アカネ——短い通知が三つ続けて届く。澪奈が首だけ傾けた。
「先輩、忙しい人」
「まあ」
「——忙しい人は、手の空いている時間を誰かに奪われると、壊れます」
「怖いこと言うね」
「怖くないです。事実」
目を逸らさずに事実と言い切るのは、少し怖い。
ホームに電車が滑り込む。ボクは乗らずに、駅前のベンチへ進んだ。澪奈も同じ動きで座る。夕方の光は斜めで、二人分の影が長い。
「先輩、質問」
「なに」
「『よしちん』って、呼ばれていましたか」
胸の針が一音だけ強く鳴った。先生編の名残りが、呼び名にだけ浮上する。
「……昔、ね」
「誰に」
「昔の知り合い」
「先生?」
ボクは黙る。澪奈の瞳がわずかに細くなり、影がベンチの足に絡みつく。
「呼び名は、誰かの手綱。名前は、結び目」
「何の話」
「先輩の話」
彼女は小さく息を吸い、唇をほんの少しすぼめる。ささやきが、糸になる感覚がした。言葉が線になって、影の表面へ刺さる。
「——藤井、義隆」
フルネームを、正確な抑揚で。呼ばれた瞬間、ベンチの下で影がぴんと張った。足首のあたりで、目に見えない縫い目がひとつ閉じる。動こうとして、ほんのわずか遅れる。
「今、なにした」
「何も」澪奈は淡々。「声は、ただの空気。空気は、ただの揺れ。揺れは、影の面を少しだけ縫い合わせる。ほんの少し」
「……ボクの足、止めた?」
「止めてません。遅らせただけ」
わずかな遅延。ボクの胸の針がふわりと位置をずらし、中央に寄りかけて、また半歩返る。置かない。けれど、縫い目は残る。
「やめて」
「はい」素直に返事をする。影の張りが緩む。足首から力が抜け、自由が戻る。
「ごめんなさい。確認でした」
「何の」
「加減。先輩の影は、どのくらいでほどけるか」
「測るなよ」
「測らないと、守れない」
ベンチ脇の舗道を、自転車が通る。影が二つ、伸びて重なる。澪奈の影は、ボクの影に近づくほど黒さを増す。重なった部分に細い縫い目が走り、すぐ消える。
「澪奈」
「はい」
「その、縫うやつ。名前は」
「エクスプレッション。——『影縫』。声は糸、名前は針、影は布。ほどけば元通り、ほどかなければ裂けるまで」
怖い、を通り越して冷える。けれど彼女は目元まで笑いを乗せた。
「だから、ほどけるように縫います。守るのが目的だから」
駅前の喧噪は同じリズムで続く。だがボクの耳には、糸の擦れる音が薄く混じるようになった。名前を呼ばれるたび、世界の縫い目が一つだけ固くなる未来を想像し、身震いする。
そのとき、スマホがまた震えた。ユイが掲示の枠を二センチ右へ動かす話。アカネは屋上へ。真澄は寄り道するな、と。澪奈がまた首を傾ける。
「三人」
「同級生と、知り合い」
「誰がどの順番で、先輩を名前で縫い取ったか」
「言わない」
「じゃあ、私が並べます。紙、熱、水。順番は——」
「澪奈」ボクは遮った。「推理ごっこは好きじゃない」
「ごっこじゃないです」
一拍の沈黙。彼女はため息をひとつ、きちんと吐くと、話題を変えた。
「先輩、明日の放課後。恩音中央公園、噴水の東側。そこ、影がいい」
「影がいい?」
「縫いやすい面が広い。石畳の目地が等間隔。——紙の人がいても、勝てます」
「勝ち負けの話じゃない」
「守るためには、勝たなきゃ」
強い断言。体温の低い声。ボクは立ち上がり、駅の喧噪に紛れた。澪奈も音を立てずに立つ。二人の影が地面で触れ、すぐ離れた。
帰り道、路面電車のガラスに映る自分の目は、きのうより少し暗い色をしていた。澪奈の影が隣の座席の足元でふわふわと形を変え、車輪の歌に合わせて脈を打つ。駅を二つ過ぎたところで、彼女がぽつりと言った。
「先輩、眠れてますか」
「ふつうに」
「嘘」
「どうして」
「目の下の色。呼吸の数。指先の動き。——それと、影の輪郭」
「影に輪郭とかあるの」
「あります。境目がぼやけ始めると、夜にほどけやすい。だから、縫っておきたい」
「縫うな」
「はい」
返事は早い。けれど、諦めた音ではなかった。別の方法を探す人の返事だった。
家に着くと、母が「今日は早いわね」と言った。ボクは曖昧に笑い、机にノートを出す。ページの端に小さく『影縫』と書く。文字を見た瞬間、耳の奥で糸の擦れる音が微かに鳴った気がした。慌てて上から線で消す。消したのに、針の跡だけが残ったみたいに、胸の針が一度だけ強く震える。
その夜は浅い眠りだった。夢の中で、恩音中央公園の石畳が白い格子になり、その上で影が行儀よく並んで座っていた。アカネの影は熱のせいで揺れ、ユイの影は升目に収まり、真澄の影は噴水の縁だけ光っていた。そこへ澪奈の影が音もなく来て、ボクの影の足首に一針だけ触れた。触れただけで、ほどけなくなる。そんな夢。
翌朝。教室に入ると、ユイがレイアウト図を見せてきた。
「二センチ右。全体が軽くなる」
「任せるよ」
「昨日のこと——言わないほうがいい?」
「言ったら、整理できる?」
「言葉は、時々、線より雑音になる」
ユイの目は少し赤い。ボクが頷くと、彼女は息を吐き、図面を畳んだ。
昼休み、屋上。アカネがフェンスにもたれていた。
「よし——藤井」途中で言い直す。「昨日の灰色、うまかった」
「偶然だよ」
「偶然が二回続いたら、才能。で、今日は?」
「中央公園。噴水の東側」
「誰の指定」
「後輩」
「へえ」アカネの目が細くなる。「気をつけな。縫う声は、気づいたら縫われてる」
「噂、知ってるんだ」
「影に針を落とす子。——ほどけるけど、跡は残る」
放課後。恩音中央公園。指定された噴水の東側は、石畳の目地が等間隔で、夕方の影は長く、まっすぐだった。
澪奈は先に来ていて、ベンチの端に立ったまま、人の流れを観察していた。
「遅いです」
「時間どおりだよ」
「針は、早めに置かないと」
「置かないって言ってる」
「じゃあ、寄せるだけ。——試します」
彼女はベンチの影と地面の影の境目にしゃがみ、指をそっと重ねた。声は出さない。それでも糸の擦過音が耳の裏を掠め、地面の影がすこしだけ濃くなる。名前を呼ばない影縫い。
「名前を使わないと、どのくらい効く」
「一歩ぶん」
「一歩?」
「足が、一歩、遅れる」
通り過ぎるランナーの影の前に影を重ねる。ランナーはわずかによろめき、すぐ体勢を戻して走り去る。本人は何も気づかない。
「危ないよ」
「転ばせてません。ほどける縫い目」
「——どうしてボクなんだ」
思わず口に出た。澪奈は、ほんの少しだけ首を傾ける。
「先輩の影は、まっすぐだから」
「まっすぐ?」
「揺れても、戻る。だから縫える」
「言ってることが、怖いよ」
「怖くないです。好きなだけ」
噴水の水音が、ふと一拍遅れた。胸の針がそれに反応する。中央に寄りかけ、半歩返る。——寄せるだけ。置かない。ボクは息を整え、澪奈に向き直る。
「約束して」
「はい」
「ボクの名前を、軽々しく縫わない」
「……努力します」
「努力じゃなく、約束」
短い沈黙。彼女は頷いた。
「約束。けれど、破るときは、守るため」
「破る前提か」
「守る前提です」
夕陽が傾く。澪奈は目地に沿って指先を滑らせ、ボクの足もとを指した。
「ここ、一針だけ。留める」
「だめだよ」
「私がほどく。五秒」
「五秒で、何が分かる」
「先輩の影が、どこに逃げるか」
ボクは深く息を吸い、頷いた。彼女は身を屈め、ささやきよりさらに小さな声でボクのフルネームを呼ぶ。針が落ちる。影が張る。足は出るが、一歩ぶんだけ遅い。世界の速度は同じなのに、ボクだけが半拍遅れる。
「——はい、ほどいた」
力が戻る。奇妙な安堵が背骨を走った。澪奈は満足そうに頷く。
「よく逃げた。真っ直ぐに」
「逃げた感覚はないけど」
「影が、そう言ってる」
ベンチに腰を下ろすと、スマホが震えた。真澄『今日はそこまで』、ユイ『明後日、体育館横』、アカネ『退屈、潰せた?』。ボクは『ぼちぼち』とだけ返す。澪奈は画面を覗かず、噴水の縁を指で叩いた。水の波紋が影の面にうつり、縫い目が一瞬だけ見える。幻覚かもしれない。
「先輩」
「なに」
「名前、呼んでいいですか」
「だめ」
「一回だけ」
「だめ」
「……じゃあ、心の中で」
「勝手に」
「はい」
彼女は目を閉じた。音は出ないのに、ボクの足もとの影がかすかに震える。心の中の糸は、影に届くのだろうか。届いている気がして、怖くなる。
沈黙が落ちる。噴水のきらめきの向こう、るるぽーしょん恩音の白い箱が遠くに見えた。週末はアイドルイベントだとポスターに書いてある。
「行くの」
「行きません」澪奈は即答。「あそこは光が多すぎて、影が崩れる。私の居場所じゃない」
「じゃあ、どこが居場所」
「図書館の奥。理科準備室の隅。体育館横の掲示板の前。——影が直線で落ちる場所」
「具体的だね」
「具体じゃないと、縫えない」
彼女は自分の影の先を指で押さえ、軽く持ち上げるまねをした。「それと、先輩。名前って便利だけど、危ない。呼び名でほぐれる人もいるし、締まる人もいる。先輩はたぶん後者」
「締まると、どうなる」
「呼吸の回数が減る。目の瞬きが整う。——戦う人の顔になる」
「戦ってない」
「でも、守られたい顔でもない」
言い切られて、言葉を失う。澪奈はそこでようやく、年相応の笑顔を短く見せた。
「だから、守ります。勝手に」
帰り際、澪奈は校門のところで立ち止まった。
「先輩」
「まだあるの」
「好き嫌いの話じゃないです」
「分かってる」
「分かってないです」
淡い笑み。瞳の底に、こぼれない色。
「——守るのは、勝手にやります。邪魔しないでください」
「勝手にやらないで」
「勝手にやります」
最後だけ、子どもみたいな言い方だった。けれど響きは硬い。彼女は軽く頭を下げ、人の流れに溶け込むように歩き去った。影だけが、最後までこちらを見ていた。
夜、ノートを開く。ページの隅に『影縫——名前=針、声=糸、影=布/ほどく=呼吸』と走り書きする。書いて、消す。消し跡の上に新しい線。胸の針が半歩、中央に寄って、戻る。——置かない。寄せるだけ。
窓の外をオイントラムが通り、ガラスに灯りの帯が走った。遠く、るるぽーしょん恩音の看板が白く浮かぶ。街はいつもどおりで、いつもどおりじゃない。明後日が近づいてくる。ボクは掌を見つめた。縫い目はない。けれど、ほどき忘れた何かの感触が、皮膚の内側に残っていた。
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