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第13話 影色に沈む夜

 昼のうちに短い合わせを済ませ、放課後。約束どおり、場所は恩音高校の体育館横、掲示板の前だった。部活動の掛け声が風に混ざって流れ、コートのボールが乾いた音を立てる。通りすがる生徒はいても、貼り替えの時間帯で掲示前だけは自然に人の流れが薄い。ユイがポスター用の紙を筒から抜き、下端を指先で押さえる。紙が鳴る。白が、ひと呼吸で「場」になる。

「ここなら収まる。騒がせないで済む」

「収まらないなら、それはそれで新しい掲示」アカネが笑う。制服の袖は肘までまくり上げられ、耳の小さなピアスが蛍光灯の明りを拾って冷たく光る。指先の温度は穏やかに上がりつつある。

 真澄は周囲を一度見渡し、体育館のドアに目をやった。「五分に一回、顧問が出入りする。足音が聞こえたら一時中断」

「了解」ユイは短く頷き、白の上に最初の罫を薄く引いた。線は音もなく、しかし確かに空気の目盛りを決める。風、声、足音、蝉の名残り——全部が薄い升目に収まっていく。

 ボクは胸の針をできるだけ静かな位置に据える。中央から半歩外したところ。置かず、寄りかかるだけ。手の平に伝わる紙の張りは、三段。物質の紙。線で結ばれた紙。そして「掲示」としての紙。指先の弾力が三層に跳ね返ってくる。

「——始める」ユイの声が合図になった。

 アカネが軽く指を鳴らし、廊下の空気が目に見えない膨らみを帯びる。温度差が圧力になって、掲示板のガラス越しに白い面を押す。白は逃げない。ユイが追加の罫で受け、力の向きをわずかに曲げる。直進は円運動になる。紙の上に微かな渦が立ち、渦は暴れず、回る。

 真澄の掌が降り、渦の外縁に水の輪郭が置かれる。水はないのに濡れた匂いがした。輪は中心を絞らず、周辺だけをなだめる。焦げない。破れない。擦過音だけが歯の裏で砂のように鳴る。

「整える、ね。面倒な性格」アカネが笑う。

「整ってないと、片づかない」ユイは目を逸らさない。

 均衡はわずかに保たれた。だが今日は、ここで止まらない。アカネの足元、光の溜まりに赤銅の薄い輪がいくつも生まれ、重なり合って和音になる。和音は白の上に波紋を立て、ユイの罫線を内側から揺さぶる。線の結び目がうっすらと鳴る音。紙の端に皺が寄りかける。

「先生」ユイが警告を飛ばす。

「分かってる」真澄の掌が傾く。膜が厚さを変え、揺れの位相をずらして打ち消す。だが熱量は順当に増え、白の面は静かに耐えながら、限界へ向かう軌道に乗っていた。

「義隆」真澄の声。「針は置かない。けれど——感じた変化は口に出して」

「……右上に小さな裂け目。風がそこだけ速い」

「了解」ユイの指が裂け目に短い罫をまたがせる。縫う。紙は鳴って沈黙する。

 アカネは片目を細め、「面倒見がいいな」と言って笑い、次の輪をさらに高音へ重ねた。熱の和音は、廊下の遠くで響くバスケットボールのバウンドと干渉し、同じ拍に乗る。外から来る現実のリズムが、こちらの場を揺らす。ユイの線は外部入力を減衰させるけれど、完全ではない。ボクの胸で針がほんの少し跳ねた。

 そのとき、体育館の扉の向こうから金属の把手が鳴った。誰かが出て来る——。ユイの目が瞬時に走る。アカネの輪が音を殺す。真澄の膜が靴音を柔らげる。扉は開き、顧問が一瞥して通り過ぎる。何も起きない。何もなかった。世界は日常を続け、ここだけが別の設計を続けた。

「続ける」ユイ。

 白の上に、罫が増える。薄い、太い、短い、長い。線の密度差が、場の配線図を描き換える。アカネは配線の隙間に熱の輪を打ち込み、真澄は輪の外周で膜の厚さを滑らせる。ボクは三層の張力を、指先で均等に受ける。一本が緩むと、他が鳴る。全部を鳴らさず、全部を切らさずに保つ。

「義隆、どう?」

「針が、半歩だけ中央に寄る」

「そこは危うい」真澄。

「でも今夜は進む」アカネの声が軽い。「退屈を潰す」

 ユイの横顔がわずかに揺れた。緊張の色。彼女も本気だ。紙の角に親指を添え、白をさらに白くする。紙の白が廊下の蛍光灯の白を飲み込み、掲示板のガラスの反射を打ち消す。白が、場の優先色になった。

「——来い」ユイは珍しく挑発的に言った。

「言ったな」アカネの笑みが深くなる。熱の輪が指先から離れ、ゆっくりと浮上する。輪は数を増やし、大小様々な半透明の皿のように重なって回転しはじめた。回転は速く、しかし静か。空気は押され、廊下の旗がかすかに翻る。

 真澄は輪の間に薄膜を渡し、回転の縁で張力を受け止める。膜同士の接点が琴線のように鳴り、周波数の近いものだけを拾って消す。選ばれなかった振動は、ユイの罫へ流れ、白の上で微かな皺に変わる。皺はユイが縫って消す。仕事は増える。消え、増え、消え、増える。

 針が跳ねた。胸の内側で「ここだ」と言われた気がする。中央に寄らないまま、中央の機能を引き受ける位置。そこを掴め、と。

「義隆」真澄の声が低くなる。「あなたは今、指揮台にいる。振らない指揮者。置かない小節線。——分かる?」

「……分かる」本当に分かったわけではないのに、口が先に答えた。指先の弾力は三段で合って、紙の重みは軽く、けれど逃げない。呼吸を数えない。数えないのに、拍が揃っていく。

 瞬間、世界がわずかに黒ずんだ。否、灰色に寄った。音の輪郭が薄皮一枚はがれ、光が表面張力で止まる。誰も気づかない。ボクたちだけが、気づく。

「よしちん、来たね」アカネの瞳が細くなる。「そのまま、壊そう」

「壊さない」ユイが即座に返し、白の端で罫の安全弁を開く。場の圧が逃げ道を得る。

 その刹那、体育館の中でホイッスルが鳴った。甲高い音が扉の隙間を抜け、こちらの場に飛び込む。アカネの輪が共鳴し、真澄の膜が震え、ユイの罫が一線、外へ跳ねる。針が強く鳴る。

「義隆、置くな!」

「置かない!」

 ボクは胸の針を押さえず、握りもしない。ただ、針の居場所を半歩だけずらしてやる。中央でも端でもない、斜めの座標。そこに針が吸い込まれる。置いてはいない。なのに、置いたみたいに場の全体が一瞬、同じ方向を向く。

 色が抜けた。恩音高校の廊下から彩度が消え、掲示板のガラスが自分の映り込みを拒む。人の足音は遠のき、ボクの鼓動だけがやけに近い。白、熱、水。三つのエクスプレッションが、音のない場所で交差した。

 アカネの輪が斜めに傾き、熱が白の紙を焦がしはじめる。焦げは広がらない。真澄の膜が焦げの縁に沿って湿りを置く。湿りは燃え移りの速度を奪い、ユイの罫が焦げの上で橋渡しをする。橋は薄い。薄いのに、落ちない。

「義隆、今」ユイが言う。

 ボクは指をわずかに開き、三段の張力に同じ比重をかける。針は中央から半歩だけ左下へ落ち、そこで止まらず、滑る。滑りながら、止める。置かないで、止める。白は破れず、熱は燃えず、水は蒸発しない。代わりに、周囲の色だけがまた一段、灰へ沈む。

 灰の世界では、感情の輪郭が線になる。ユイの線は几帳面で、ひどく細いのに、切れない。アカネの熱は奔放で、危うくて、でもまっすぐで、触れると笑い声の記憶が混じる。真澄の水は静かに重く、痛みと優しさの境目に沿って流れる。ボクの針はそれらをつなぐだけの細い橋で、橋の下には言葉にならない空白が広がっていた。空白は怖い。けれど、目を離せない。

 それはたぶん、誰のものでもない一秒だった。

 顧問の靴音が近づき、扉が開く。世界は色を取り戻す。ホイッスルの残響が廊下へ流れ出し、声が戻る。生徒たちの笑い声。ボールの弾む音。汗の匂い。ユイは膝に手をつき、呼吸を整えた。アカネは汗をぬぐい、額の髪を乱暴にかき上げる。真澄は掌を下げきれず、空を押さえるみたいに半分だけ浮かせている。

「……今の、何」ユイ。

「止まった」アカネが先に言った。「置かないのに、止めた。よしちんが」

「危うい均衡」真澄は正面からボクを見る。「けれど、必要な均衡」

 ボクは自分の手を見る。細かく震えている。紙の白はいつもどおりの白に戻って、焦げ跡は——薄く残っている。ユイが指先でその縁を撫で、紙がわずかに鳴いた。

「ここまでは想定内」ユイが静かに言った。「ここからは未知」

「未知は楽しい」アカネはにやりと笑い、掲示板のガラスに自分の顔を映してみせた。「でも今日は、もう一段上げる」

「待って」真澄が短く制す。「義隆の針が慣れていない。今、上げれば崩れる」

「崩れたら、片づければいい」

「片づけるのは私」ユイの一言に、アカネが肩をすくめる。

 その瞬間、学校中にチャイムが鳴った。下一時間の終了を告げる電子音。ユイの罫が音階を白の上で受け止め、アカネの輪は音を喰うように速度を上げ、真澄の膜が音の立ち上がりだけを切り落とす。ボクの針は、音の始点に軽く触れる。触れた途端、世界がまた半秒だけ薄くなる。

「——やめる」ユイがはっきり言った。白の中央に一本の太い罫を引き、それが閂の役目を果たす。場の出入り口は閉じられ、圧はゆっくりと下がっていく。

 アカネが短く舌打ちし、次いで笑った。「仕切るの、好きだよな」

「仕切らないと、壊れる」

「ときどきは壊したほうが、見えるものがある」

「壊した先で、誰かが泣く」ユイはボクへ視線を寄越す。「——藤井くん、今の座標、覚えて」

「覚えた。真ん中じゃなく、真ん中の働きをする、斜めの場所」

「そう。それがあなたの針の『初期位置』になる」真澄が付け加える。「今日はそこまで」

 白は巻かれ、筒に戻された。紙は最初よりわずかに重い。出来事を吸って厚みを増したのだ。アカネは掲示板の隅に触れ、残った熱を指先でさらう。金属の枠は夜気で冷えているのに、触れた周だけがかすかに温かい。

「明日、続き」アカネ。

「明日は無理」ユイが即答した。「授業と委員会で詰まってる。——明後日」

「退屈、二日分ね」アカネは肩をすくめ、楽しげに目を細める。

 真澄がボクへ向き直る。「義隆。今日の最後に一つだけ」

「うん」

「『止めた』とき——あなたは何を見た?」

「……色が、抜けた。音も、薄くなった。でも完全な無じゃない。紙と熱と水だけが残って、他は全部、遠くへ行った」

「遠くへ、か」真澄はわずかに微笑む。「あなたの針は、境目を見える場所へずらす。置かずに、ずらす」

「ずらすの、好き」アカネが茶々を入れる。

 ユイは筒を抱え直し、背筋を伸ばした。「ここから先は、感情が干渉する。片思いでも、嫉妬でも、安心でも。どれも線を乱すし、救う」

「だったら、面白い」アカネの目が赤銅色にきらめく。

「面白さと正しさは、たいてい別」ユイは踵を返し、「——また明後日」とだけ言って歩き出す。

 廊下の突き当たりで、夕焼けが窓ガラスに広がった。色は戻っているのに、世界の輪郭は一度灰色に沈んだ記憶を離さない。目を閉じると、胸の針はあの斜めの座標に、静かに戻った。置かない。けれど、止められる。

 昇降口を抜けると、風が涼しい。鉄の匂い。校庭の端から、オイントラムのモーター音がかすかに聞こえてくる。夕方の便が曲線を滑り、遠くのるるぽーしょん恩音の看板が白く灯る。街はいつもどおりで、いつもどおりじゃない。校門を出たところで自販機の前を通ると、蛍光灯が一度だけ瞬き、飲み口の金属がひやりと指先に触れた。缶の冷たさは現実そのものの温度で、さっき見た灰色をゆっくりと押し戻す。ベンチに腰を下ろして数口飲むと、さっきの感覚が遅れて体に帰ってきた。胸の針はまだ高鳴っているのに、不思議と呼吸は揃っている。遠くで笛の音、近くで自転車のベル、頭上を雀が横切って電線にとまる。世界は細部の重さで、もう一度ボクの味方になる。

 スマホが震いた。アカネ『勝負はまだこれから。退屈潰し、継続中』。すぐに真澄『今日は十分。水分をとって、休むこと』。少し遅れてユイ『明後日、放課後。場所は再び掲示前』。短い文が三つ、同じ中心へ向かって届く。中心にいるのは、ボクだ。

 家に帰ると、母が「疲れた顔」と言った。鏡を見ると、確かに目の奥の色が少し違う。休符の色。まだ音ではないが、次の拍に触れる準備の色。シャワーで汗を流し、ノートを開く。線は少なく、余白は多めに。ページの隅に小さく一行。

 ——置かないで、止める。灰色に沈む夜を、忘れない。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

今後の更新予定日は【火曜・金曜】の22:00です!

よろしくお願いいたします!

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