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第12話 三線の交わる座標

 白い紙の上で、三つの気配が重なった。空気がわずかに波打ち、噴水の明滅が半拍だけ遅れ、路面電車の金属音が遠くへ引かれていく。ボクの指の中でポスターの筒がきしみ、紙の繊維が細い弦になって震えた。


 最初に動いたのはユイだ。彼女の指が紙の角を押さえ、見えない方眼が紙の下に広がる。方眼の交点が、地面の起伏や風の向きや人の足音を、線の上に置き直す。置かれたものは、走らず、暴れず、整って戻る。


 アカネは笑って、紙の端に落ちる影をつま先で跨いだ。影の輪郭が熱でわずかに膨張して、紙の白に曖昧な縁を作る。照明の光がその縁で屈折し、紙の上の世界が僅かに歪んだ。歪みは、彼女の指先に集まる。赤銅色の目が、獲物を見つけた猛禽みたいに細くなる。


 真澄は、呼吸だけを変えた。三拍の二つ目の吐きの終わりで、掌を半分だけ下ろす。水のない水がそこに置かれる。置かれた水は、紙と熱の間に薄い膜をつくり、双方の勢いをそのままに、方向だけを少し傾ける。


 ボクは、置かない。胸の針が、盤の中心から半分だけ外れて、そこに静かに張り付く。息は浅く、長く。置かないことを選び続けると、置きたい衝動が逆に膨らむ。胸骨の奥でカチカチと音がして、指先にまで痺れが伝わった。


 紙の上で最初の接触が起きた。アカネの指先から走った熱の芯が、ユイの白の中央をなぞる。白は逃げない。代わりに、速度の向きを少しだけ曲げ、熱を直進から回転へと変換する。紙の上に、目に見えない小さな渦ができた。渦は暴れず、回る。


「整える、ね。面倒な性格」


「整ってないと、片づかない」


 真澄の掌が、渦の外縁に薄い輪を置く。輪は水の輪郭で、渦の中心を絞らず周辺だけをなだめる。紙は破れない。熱は焦げない。輪と渦の境目に、音のない擦過音が生まれ、歯の裏で微かな砂のざらつきになった。


 少年の呼ぶ声がまた飛ぶ。「ボール、すみませーん!」テープの向こうで足音が近づく。ユイの視線がそちらへ流れ、真澄の掌が下がりすぎないように角度を保つ。アカネは首をひねり、笑った。


「見物料、取りたいくらい」


「騒がせない」ユイの指先が、紙の上の方眼の目を一つ、増やす。増えた目が、近づく足音の速さだけを吸って薄くする。少年の足取りが自然に減速し、「歩く速度」に戻された。


 アカネは今度、紙の下の地面を狙う。つま先で砂を軽く擦ると、粒が熱で即席のガラスみたいに一瞬だけ固まる。固まった面が紙の下で硬くなり、ユイの方眼を押し上げて歪ませる。ユイは紙の端を滑らせ、歪みを別の格子へ移した。


「歪ませた」


「戻した」


 短い応酬。真澄は二人の隙間に息を置く。


「義隆、紙の張りを感じて。今、何枚目?」


「……二枚」


「違う。三枚目が薄く重なってる。指の感覚だけで数えて」


 ボクは目を閉じ、指先の凹凸を辿る。紙は一枚のはずなのに、張りは三段階ある。ユイの「紙」は物質の紙、線で結ばれた紙、そして「掲示」の紙。重なる三つが、異なる弾力を返してくる。


「三枚」


「そう。三枚を一枚にしないで、三枚のままで支えて」


 支える――言葉は簡単なのに、実行は難しい。指の腹に別々の弦が三本、違う音程で張られている。一本が緩めば、他が鳴る。全部を鳴らさず、全部を切らさず、保つ。ベンチの金具の冷たさが、支える手の震えをちょうど良く冷やしてくれる。遠くの踏切の点滅と、ボクの脈拍が、少しずつ合っていく。


 アカネが笑った。


「面倒な役、引き受けたな」


「……引き受けたつもりはない」


「でも、持ってる」


 彼女は紙に触れない高さで熱の輪を三重に重ねる。輪は和音みたいに重なり、白の上に微かな波を立てる。ユイの方眼が数目だけ遅れて整い、紙の端に皺が寄りかける。真澄の掌が降り、皺に水の縫い目を当てる。湿りで皺は沈み、目は再び一定の呼吸に揃った。


「先生、ずるい」


「調律」真澄は短く言う。


「ねえ、よしちん」アカネがボクを見る。「置かないで持ってるの、案外うまいね」


「置いたら、割れる気がしたから」


「割れてもおもしろい」


「片づけるのは私」ユイが遮り、白の上に仮の罫を一本引く。罫は短いのに効く。紙の出来事は罫の外で暴れにくくなる。アカネは罫の内側と外側で温度差をつくり、境目に沿って小さな陽炎を走らせる。陽炎が罫の線を持ち上げかけて、また沈む。


 少年が近づく。「あの、ボール……」ユイは紙から目を離さず、テープの外へ足で転がしてやる。ボールは自然な軌道で少年へ戻り、礼の声が風に溶けた。現実は現実の速度で進む。ここだけが、違う速度の上にある。噴水の落ちる水が、いつもより粒立って見えた。粒は落ちながら、落ちる前のかたちを一瞬だけ残す。真澄が膜の厚さを微調整しているからだ。


 アカネは片手を振って現実をやり過ごし、ユイは罫を一段増やす。白は静かに強くなる。アカネが指を鳴らすと照明のハムが低くなり、音の余白が削がれ、罫の効きが薄くなる。真澄は影の罫を裏側に敷き、減った余白を水で補った。影の罫は、通りすがりの人の靴音だけをふわりと鈍らせる。誰も気づかない程度に、場が「柔らかく」なる。


 その柔らかさは、公園全体の輪郭を少しだけ丸くした。ベビーカーの車輪が段差でつまずかず、ランナーの踵がいつもより静かに着地し、街灯の下で読書している人のページが風でめくれかけても、端が指先に優しく戻っていく。誰も「不思議」とは思わない。けれど、今夜の恩音中央公園は、確かに少しだけ別の設計で息をしていた。三人のエクスプレッションが、騒がずに場を変えると、こういう空気になるのだと、ボクは初めて知った。


 ボクは呼吸の位置を少し下げ、針を胸骨の奥に押し込む。紙の繊維が「掲示のための物質」に変わって感じられる。紙の裏にあった柱の冷たさまで、手の平の地図に写し取られるようだった。


「目の色、ちょっと変わった」アカネが呟く。


「さっきより、手の位置が正確」ユイが断言する。


 アカネの指先が見えない楕円を描く。端が速く、中央が遅い。ユイの罫が中央を拾って速度を揃え、真澄の膜が外から力を散らす。三つの技は穴を埋め合い、音もなく移動した。ボクには、その軌跡が紙の上の「休符だけの譜面」に見えた。数えない。置かない。肩の力を抜く。紙の張りが軽くなり、罫は広がり、楕円は速さを失い、膜は薄いのに強くなる。ユイの目が一瞬だけ笑った。うまくいっている、という合図。


 均衡は保たれた。――犬が来るまでは。散歩の男の子のリードが緩み、柴犬がまっすぐこちらへ。罫の外を回るはずの足取りが、内へ迷い込む。ユイの指が反応するより速く、アカネの熱が輪を作る。犬は止まる――はずだったが、脚が熱の高さをくぐり、鼻先が紙の角に触れかけた。


「だめ」ユイの声が鋭くなる。紙の角が持ち上がる。


「義隆、置くな!」真澄の声が重なる。


 指が勝手に強くなり、紙の端を握りこんだ。三枚の張りが一斉にきしみ、胸の針が大きく振れる。置いてはいない、はず。なのに、世界が半拍、薄くなる。噴水の明滅が止まり、光が空中に留まる。犬の爪が空を掻く位置で固まり、少年の靴音は遅れて来ない。熱の輪は曲線の途中で静止し、罫は白の中で滲み、膜は置かれかけ――ボクはそれを同時に見た。


 止まったのは短い。でも、止まった。止まった瞬間、ボクの耳の奥でカチ、と硬いものが一度だけ鳴り、胸の針は中央から半歩だけ戻った。戻りきらず、しかし外れすぎず、ぴたりと合う場所。そこは今まで知らなかった座標だ。


 次の瞬間、音が戻る。犬は鼻先を引き、少年はリードを短く持ち直し、「すみません!」と頭を下げた。ユイは紙の角を撫でて戻す。アカネは片目を細め、真澄は掌を半分だけ上へ戻した。


「今の」ユイが囁く。「藤井くん?」


「分からない」喉が乾く。「置いてないのに、止まった」


「置く手前で、重なることがある」真澄が言う。「三つの線と、ひとつの針が」


「よしちんの、胸のやつ?」アカネが顎を上げる。ボクが頷くと、彼女は少し口角を上げた。


「置かないで止めるなら、誰のものでもない一秒」


「でも危ない」ユイは紙の端に指を置く。「意図してない止まりは、境目を曖昧にする」


「曖昧、好き」


「曖昧は、片づけが大変」ユイはボクを見る。「次は意図して」


「できるか」


「できる」真澄が断言する。「ただし、ここではやらない」


 三つの視線が同時に刺さる。熱、紙、水。それぞれ違う温度で皮膚の下に沈む。ボクは逃げないように踵を地面に沈め、芝の湿りを靴底に感じた。


「……分かった。ここでは、やらない」


「このまま夜明けは退屈」アカネが肩をすくめる。


「退屈は潰す。でも静かに」ユイは淡々と返す。


「満足は目的じゃない」


「目的は、正しく収まること」ユイは白の中に見えない印を一つ打つ。「今夜は、ここまで」


 真澄が頷く。「私も同意」


「解散?」


「持ち越し」ユイは迷わず言った。「学校で。人のいる場所で、騒がせずに試す」


「見物人、多いほど退屈じゃない」アカネが笑う。


「気づかせずにやる」


「それも退屈じゃない」


 真澄がボクへ。「義隆、明日の朝はやめよう。午後に短く合わせて、放課後は校内で」


「分かった」


「掲示はずらせる?」


「二時間なら空けられる」ユイが答える。


「夕方、空いてる」アカネが頷く。「退屈潰し、予約済み」


 場の密度が薄くなる。噴水はいつも通り、路面電車は定時のアナウンス。ユイは紙を丁寧に巻き、ボクの手から外す。筒は最初よりわずかに重い。紙が「出来事」を吸って厚みを得たのだ。アカネはベンチの背に触れ、朝からの熱の痕跡を指でなぞった。金属は夜気で冷えているのに、触れた周だけ、かすかに温かい。


「ありがとう。持っててくれて」ユイ。


「ううん」


「さっきの止まりは、助かった」


「助けられたのは、ボクのほう」言ってから、言い方の癖に気づく。ボクは小さく咳払いした。


 三人は笑い、言葉はそこで止まる。


「じゃ、明日」


「また」


「続き、やろ」


 別れる前に、ボクは空を見上げた。雲は境目のない灰色。針は中央から半分ずれた場所にいて、静かに脈と重なる。置かない。けれど、手はもう紙の張りを忘れない。忘れない手で、明日を持つ。


 ベンチの金属に指を触れると、ほんの少し温かい。アカネの熱が残り、遠くではユイの罫が道の端を通りやすくし、真澄の膜が噴水の飛沫を柔らげている。街はいつも通りで、いつも通りじゃない。自販機の蛍光灯がチカチカと一度だけ瞬き、虫の羽音が途切れ、また続いた。


 ホームへ向かう途中、スマホが震えた。ユイ『明日、二限後十五分。体育館横の掲示前』。真澄『午後、短く。詳細はのちほど』。少し遅れて、アカネ『退屈、まだ残ってる。明日、続き』。三つの文は同じ中心に向かう。中心にいるのは、ボクだ。


 車内。窓に映る自分は同じ顔のはずなのに、目の奥だけが僅かに違う。休符の色。まだ音ではないが、次の拍に触れる準備の色。指先は、紙の張りの三段の弾力を、皮膚の裏側で反芻していた。オイントラムはカーブに差しかかり、車輪が短く歌う。高架の向こうに、夜のるるぽーしょん恩音の看板が白く浮かび、光の粒が川面に落ちては砕ける。見慣れた景色なのに、今日は配置が少しだけ違って見えた。街全体が、薄い罫の上に置き直されたみたいに。


 家に着くと、母が「遅かったわね」と言った。ボクは「友だちと」とだけ返し、ノートに今日の譜面を描く。線は少なく、余白は多めに。数字は書かない。ページの隅に小さく一行。机の上のスマホの通知灯が、ゆっくりと明滅して止む。秒針の音が、さっきの半拍の遅れを思い出させる。呼吸を合わせる。吸って、吐く。胸の針は、さっき見つけた座標にまだ触れている。指先の震えは、紙の繊維の記憶を手放さない。


 ——置かないで、重なる。


 それが明日の予告になり、胸の針はそこで静かに眠った。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

今後の更新予定日は【火曜・金曜】の22:00です!

よろしくお願いいたします!

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