第11話 交わる気配
放課後、掲示板の前でユイが糊のフタを閉めた。新しい行事予定のポスターは、端から端まで同じ余白で揃っている。角の角度まできっちりで、見ているだけで胸の中が静まる。ボクが軽く息を吐くと、ユイは振り向いて首をかしげた。
「藤井くん、呼吸、落ち着いてるね。」
「朝、公園で少し練習したから。」
「うん、そういう顔してる。」
ユイは小さく笑って、タオルで手を拭いた。窓の外は薄い金色で、路面電車が校門前のカーブを曲がるたび、教室の壁に揺れる光の帯が走る。掲示の台紙の端を指で軽く押すと、紙が気持ちよく沈んで、ぴたりと平面に収まった。
「ありがとう。今日のはこれで終わり。」
「手伝えてよかった。」
「助かったよ。……ねえ、藤井くん。」
ユイが言い淀む。言葉より先に、視線が揺れて落ち着く場所を探す。ボクは返事を急がず、窓の外の光を見た。余白は、言葉の前に作られる。ユイのやり方で、ボクもそれを覚えつつある。
「今夜、中央公園、行く?」
「……行く。」
「そっか。」
それ以上は言わなかった。何をしに、も、誰と、も。聞かずに、決める。そういう沈黙が、今日は必要だった。
暮れは早い。オイントラムを降りると、恩音中央公園の池はもう夜の色で、噴水のライトが低く水を照らしている。ベンチには露の名残りが薄く残り、芝生は指で撫でた紙の繊維みたいに細かく逆立っていた。ボクはベンチの端に座り、呼吸を整える。吸って、吐く。胸の針が、盤面の真ん中で微かに光る。
「来たな、よしちん。」
先に現れたのはアカネだった。フードを被らず、耳のピアスを夜の光にさらしている。彼女がベンチの背に軽く触れると、金属がわずかに鳴いた。熱のせいか、指を離した部分が遅れて冷える。
「時間ぴったり。さすが委員長の街。」
「関係ないよ。」
ユイの声が背後から落ちてきた。制服のブレザーの裾が風で揺れて、掲示で使う紙袋が彼女の脇にぶら下がっている。三人の視線が、低い場所で交わった。池の縁、噴水の止まり目、ベンチのここ――今日の中心は、たぶんこの辺だ。
「退屈、潰すんだろ。」アカネが言う。
「今日の公園は静かだから、潰すもの、ない。」ユイは淡々と返す。「でも、騒がせるなら、片づけはする。」
「片づけ、ね。」アカネは笑い、ベンチの背に再び指を置いた。熱の焦点が狭まる気配がする。指先の周りの空気が薄く揺れて、金属の地色が一段暗く見えた。
「二人とも。」
第三の声が、噴水の音に寄り添って届いた。真澄だ。ジャージにコーチ用のトレーナーを重ね、髪を後ろでひとつに束ねている。彼女はベンチには座らず、池とベンチの斜めの位置に立った。視線はボクを一度だけ確かめ、すぐに二人の間に置かれた。
「呼吸を合わせる確認を、少しだけ。……それで、帰る。」
「帰らないよ。」アカネが先に言った。「退屈は、ここにある。」
「散らかす気なら、私が整える。」ユイの声は近いのに、少し遠くから届く。紙の上で定着してから跳ね返る音。
夜の空気が、薄く湿っている。遠くの高架を路面電車が走る音が一度だけ途切れて、また戻る。真澄は一歩、浅く踏み出した。靴のソールが芝を押し、わずかに音を潰す。
「線を引く前に、呼吸。」
それは三人に向けての言葉だったのか、ボクに向けてだったのか。ボクは首だけで頷き、吸って――吐く。胸の針が盤面の中心に寄る。ユイの視線が、掲示の時と同じ角度で落ちた。アカネの指先が、ベンチから離れる。金属の色が、元に戻らない。今日の温度は、戻らない方向に傾いている。
「なあ、よしちん。」アカネの声が近い。「アンタの退屈、どのくらい潰せば足りる?」
「足りるかどうか、分からない。」
「いい答え。」
アカネが笑う。笑いの熱で、周りの空気が少し軽くなる。彼女は両手をポケットに入れ、片足のつま先で芝をそっと払った。そこに溜まっていた露が、点で集まる。熱で縁が先に消えるのか、丸いものが歪な形に変わった。
「線は、ここ。」ユイが言って、紙袋から白いマスキングテープを取り出した。ベンチと池の間の歩道に、まっすぐ短い一本を貼る。幅は指二本ぶん、長さは手のひら一枚ぶん。ありふれた線が、夜の地面で急に意味を持ちはじめる。
「貼っていい?」
「公共物を傷つけないなら。」真澄が答える。「剥がすまで、面倒を見ること。」
「もちろん。」
ユイはテープの端を指で押さえ、空気を抜きながら撫でる。撫でる手の動きに合わせて、周囲の足音と風音がほんの少し遅れる。紙の上に音が吸い込まれて、戻ってくるまでの時間が変わる。アカネは顎を上げ、テープの白をまっすぐ見た。
「線引きごっこ?」
「枠を作るだけ。逸れたものが戻る場所がいる。」
「逸れたほうが、生きてる。」
「逸れたものがすべて正しいわけじゃない。」
二人の声は、同じ高さでぶつかって、同じ高さで散った。真澄はその散り際を追うように、掌を腰の高さで広げる。空気の粒が、掌の前で薄く整列する。水がないのに、水の前口上だけが来る。ボクの胸の針が、一瞬、そこで止まりたがる。
「やめろよ。」と言いかけた声は、喉で細くなる。三人は、ボクが止められる距離の少し外にいる。
遠くで少年サッカーチームが練習を終えたのか、ボールがひとつ、公園の奥から転がってきた。緩い斜面を過ぎ、テープのほうへ向かう。ユイは手を伸ばさない。代わりに、テープの端を指先で軽く押した。音が、紙に吸われる。ボールはテープの白の手前でふっと減速し、静かに止まった。芝生の上で、ありえない止まり方。
「止めた。」アカネが言う。「紙で。」
「紙じゃない。線。」ユイは言葉を正す。「ここにあるべき速度を、戻しただけ。」
「なら、戻す前の速度はどこに行く?」
アカネが問いながら、止まったボールの上に影を落とした。彼女の靴先がボールに触れる寸前、空気が熱の輪になって収束する。熱は見えない。ただ、照明の光がそこだけ揺らぎ、ボールの表面のロゴがわずかに歪む。ユイの線が、熱の輪の縁をなぞって白く沈む。二つの「正しさ」が、狭い範囲で引っ張り合う。
「子どものボール。」真澄が柔らかく言った。「割らないで。」
「割らない。」アカネは視線をボールからボクへ移した。「よしちんの前で、そんなヘマはしない。」
心臓が、意図より半拍速く打つ。ボクは一歩、前へ出た。真澄の指先が、その半歩に合わせて低く揺れる。薄い膜が、ボクの周りに張られる音がする。音はないのに、音がある。
「ユイ。」
呼ぶと、彼女は短く「うん」と答えた。視線はテープの白から動かさない。肩がわずかに上がり下がりする。呼吸を数えていないのに、数が合っている。掲示のときの彼女の集中が、そのまま地面に降りている。
「アカネ。」
名を呼ぶと、彼女はボールから足を下ろし、ポケットに両手を戻した。手は見えない。それでも、指先の温度は周囲の空気に残っている。赤銅色の視線が、ユイの線と真澄の掌とボクの胸の針の間を順に渡った。
「ねえ。」アカネが言う。「三人とも、自分のやり方で“退屈”を潰してる。……でも、退屈って、一人では増えないんだよ。」
「増えるよ。」ユイが返す。「独り言が壁に反射して戻ってくるとき、増える。」
「それ、好き。」真澄がふっと笑った。緊張に薄い隙間ができる。そこへ風が通る。池の水面に細かい皺が立ち、噴水の明滅が一瞬だけ遅れる。真澄の掌が、音のない波紋を作って、それを止めずに流す。止める一秒の手前。
「じゃあ、試す?」アカネが一歩、線に近づく。テープの白に影がかかる。「委員長の線は、どこまで“戻す”?」
「戻すんじゃない。整える。」ユイが線の端に指を置く。「歩道は歩行者のためにあり、ボールは広場で遊ぶためにある。ここは境目。境目が働けば、騒がしくならない。」
「働く境目、ね。」アカネは笑い、夜気を吸った。「じゃあ、働かない境目は?」
「それは、壊れてる。」
「壊れてる境目が、一番おもしろい。」
アカネが足先でテープの外側を軽く蹴った。ほんの少しの力。白い線は紙で、粘着で、たったそれだけのもの。けれど、蹴った足の前に空気の芯が現れ、その芯がテープの上に倒れ込む前に、真澄の掌が一度だけ沈んだ。水のない水が、そこに置かれた。アカネの足先はテープに触れず、空気の芯だけが転がる。
目の前の空間の厚みが、変わっていく。ボクの胸の針は、置けば止まるのに、置きたくない。置いたら、何かが決まってしまう。決まったものは、戻らない。そういう予感が、今日だけは強すぎる。
「藤井くん。」
ユイが呼んだ。彼女はテープの端から目を離さないまま、もう片方の手で紙袋を持ち直した。紙袋の口から、新しいポスターの巻かれた筒がのぞく。白地の中央に、まだ何も印刷されていない余白。
「一つ、お願いしていい?」
「なに。」
「このポスターの端を、持ってて。私が言うまで、離さないで。」
ボクは頷き、筒の端を受け取った。紙の重さが手のひらに乗る。わずかな弾力。ユイは反対側の端を持ち、その白を線の上にそっと重ねる。線は見えるのに、ポスターがそこにあることで、線は紙の中へ潜った。
「紙で封じる。」アカネが肩をすくめる。「好きだね。」
「好き。ここは掲示板の延長だから。」ユイの声が揺れない。
「よしちん。」真澄が静かに言った。「息は、浅く長く。置かない。いまは、置くな。」
置くな。初めて言われた。置けることが嬉しかったのに、置かないことを選ぶ場面が来るなんて考えもしなかった。胸の針は、盤面の真ん中から少しだけ右に滑り、そこでじっとした。
アカネが前に出る。ユイが紙を低くする。真澄が掌を上げる。三つの動きは同時ではないのに、同じ音階に揃った。噴水が一瞬、止まったように見えた。いや、見えただけだ。止まってはいない。それでも、光の粒がひと呼吸ぶんだけ空中に留まり、戻るのを忘れた。
「やめ――」
言い切る前に、空気が鳴った。割れる音ではない。線を引く音。濡れた指で窓ガラスの曇りに一本の筋を引くみたいな、静かな滑音。ユイの白い紙が、線の上でたわむ。アカネの指先が、赤銅の熱を一点に集める。真澄の掌が、水のない水を置く姿勢に入る。
世界の密度が変わった。ボールが、遅れて転がり出す。芝が、遅れて寝る。照明が、遅れて明るくなる。遅れるものの間で、たったひとつ先に進むもの――ボクの鼓動だけが、数を増やした。
「そこ。」真澄の声が、ほとんど息だけで届く。「それ以上は、私が止める。」
「止められる?」アカネが笑う。「試す?」
「試す必要はない。」ユイが白い紙を押さえる指に力を込めた。「ここは公共の場で、ここは境目で、ここでやることは、ここに収まらなきゃいけない。」
「収まらないものを、どうする。」
「余白を増やす。」
その言葉の直後、紙の下の線が、ほんの少し伸びた。見えないのに、伸びた。ユイの作る余白が、境目を一歩だけ遠くに押し出した。アカネの熱の輪が、それを追いかけて縮む。真澄の掌が、二人の間に薄い膜を置く準備をした。
ボクは、置かないまま息を細くした。置いたら、たぶん割れる。置かないなら、たぶん擦れる。擦れるものは、まだ戻せる。――戻せる、はずだ。
そのとき、池の向こうから小さく叫ぶ声が聞こえた。「ボール、すみませーん!」さっきの少年たちだ。現実の声が、緊張の上に紙をもう一枚重ねた。アカネの視線がわずかに揺れる。ユイの指が紙の端をすべらせる。真澄の掌が、ほんの一瞬だけ止まる。
たぶん、その一瞬が、全部を決める。
照明のハム音がわずかに高くなり、踏切のベルが遠くで二度だけ鳴った。ベンチの金属に薄い水滴が生まれ、アカネの熱に引かれて丸く寄る。ユイの白は見えない線を拾い、紙の繊維の中で目を覚ます。真澄は数えない呼吸で三つ目の途中に入り、掌の角度を一度だけ変えた。ボクは置かないまま、胸の針を中央から半分だけ外して保つ。世界は、決まらないまま均衡に乗りかけて、揺れて、まだ決まらない。
次の瞬間、白い紙の上で、三つの気配が重なった。
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