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第10話 止まる一秒の向こう

 照明が一段落ちた夜のオインタウン水泳スクールは、別の施設みたいに静かだった。客用の更衣室には誰もいない。監視台の赤いランプだけが点き、フィルターの音は低く細い。真澄が言っていた「音が少ないほうがいいから」という条件がそろっている。ボクはロッカーでジャージを畳み、キャップを指で伸ばしてしわを消した。息が少し浅い。深呼吸を一回。吸って、吐く。胸の上下が自分の意志からわずかに遅れて、体の中の時計が静かに進む。


 プールサイドに出ると、真澄はレーンロープを二つ外していた。広くなった水面は鏡に近づき、天井の白を大きく映している。彼女は台の上のホワイトボードを手に取り、いつものように最初に線を描くかと思ったが、今回は何も描かなかった。ボードを伏せ、代わりに笛を外して台に置く。


「今日は図も笛も使わない。合図は、私の呼吸だけ。」


 その言葉が、音のない合図になった。ボクは頷き、縁に手をかける。真澄はレーンの外側、プールの長辺に沿ってゆっくり歩きながら言った。


「“止める一秒”は、止めるために止めない。動き続けているものに、ひとつだけ“触れない”場所を見つける。そこに呼吸を置く。」


 難しい説明ではないのに、簡単には分からない。分からないまま、水に入る。体の周りが薄い膜で包まれる感覚は、何度も確かめたとおり。背中の皮膚が水を拾う。耳の外でわずかに響く循環の音。遠くのタイマーがひとつ、赤を点滅させる。


「最初は、いつもと同じ。二往復。何もしない。」


 ボクはゆっくり伸びた。右、左。吸って、吐く。足先で水の厚みを探し、肩の前に寄る流れを崩さないように進む。二十五の壁に触れて折り返す。戻って縁に指をかけると、真澄が小さく頷いた。


「次は、静水の円。仰向けで、背中に水を置く。」


 指定された位置で仰向けになり、天井を見上げる。梁の影は四本。二本目に目線を置き、吸って、吐く。ときどき、世界が半歩だけ静かになる。音が薄く、輪郭が厚くなる瞬間。そこまでなら、もう迷わない。


「ここまでは準備。……ここからは、本番。」


 真澄はプールの縁に片膝をつき、掌を水に沈めた。沈めるのではなく、置く。余計な力がどこにもない。手首から先の骨の形のまま水がまとまり、泡がほどける。ボクの胸の針が、その沈む深さに合わせてわずかに止まる。


「よしちん、聞いて。」


 呼びかけは、音の少ない夜に馴染むように低かった。


「私はね、怖くなったことがある。水が。肩を壊したあと、プールに入るたびに体の中の音が大きくなって、周りの音が全部、敵みたいに聞こえた。フィルターの泡も、天井の蛍光灯のジジ、って音も。逃げたくて、でも逃げたら二度と戻れない気がして、しがみついた。……止める一秒は、あの頃に手に入れた“逃げないための場所”。」


 ボクは視線だけで頷いた。水が耳を半分ふさいでいるから、頷きの揺れが世界を動かす。真澄は続ける。


「誰かの中に“場所”を見つけると、私はそこに居続けられる。今日は、よしちんの中のその場所に、私の呼吸を重ねたい。」


 言葉の意味は半分しか分からない。それでも、分かった半分が、体の真ん中に落ちた。


「やり方は簡単。私が三回、吸って吐く。よしちんは二回目の吐きの最後で止める。息じゃなくて、時間を止める。三回目の途中で、私が掌で薄く合図する。そのとき、胸の針を“置く”。置いたら、何もしない。動かない。止めようともしない。……それが“止める一秒”。」


 合図は、言葉で十分だった。ボクは縁に足をかけ、仰向けのまま、真澄の方へ体を少し寄せる。彼女の影が天井の白に重なる。静かな息が、夜のプールに淡く混じる。


 ひとつ目の呼吸。吸って、吐く。二つ目。吸って――吐く。ボクは吐きの終わりで、胸の針をどこにも向けない。ゼロ。針が盤面の真ん中で薄く光る。三つ目が始まる瞬間、掌が水の表面を撫でた。ほとんど触れていないのに、触れたように見える合図。ボクはそこで“置いた”。


 音が、消えた。


 いや、消えたと脳が決めた。泡の弾ける音が遠ざかり、蛍光灯のジジ、という揺れが外の壁の向こうへ退く。天井の四本の梁が濃くなり、もう一本、見えなかったはずの薄い梁が現れる。水面の光が細かい粒のまま、動かない。体は沈まず、浮きもせず、真澄の掌の形に沿って薄い膜に包まれて、何もこぼれない。ボクは、その中心にいた。


 一秒、だったのか、もっと短かったのか、もっと長かったのか、分からない。世界が戻ってきたとき、鼓動が一拍ぶん遅れて追いついた。耳の中に水が戻り、フィルターの音が低く響いた。呼吸が胸に戻る。


 縁に手をかけ、上体を起こす。真澄は掌を持ち上げ、指先から落ちる滴を見送ってから、小さく笑った。目は少し赤い。


「できたね。」


 言葉が出なかった。喉の奥がひりつく。熱いわけじゃないのに、火照りが残る。真澄は立ち上がり、タオルで手を押さえながら言う。


「何もしないで“置けた”のは、よしちんの力。私は合図をしただけ。」


「先生が、いたから。」


「いたから、じゃない。“合う”を選んだから。」


 彼女はそう付け足して、プールサイドのベンチに腰を下ろした。ボクも隣に座る。濡れた足の裏が白いタイルに水の跡を残す。


「……ありがとう。」


 自分の声が思ったより掠れていた。真澄は「どういたしまして」と言ってから、少し間を置いた。


「ここまで来たから、言えることがある。」


 彼女は天井を見上げる。梁の影の二本目に視線を置く癖は、教えるときも自分の話をするときも同じだ。


「私は、選手を諦めたあの日から、名前のない場所でずっと止まってた。前にも後ろにも進めない場所。コーチングに救われたけど、完全には回復してない。たぶん、ずっと“未満”のままだと思う。……でも、今日の一秒を見て、思った。未満のままでも、誰かの“満ちる瞬間”に立ち会えるなら、私はそこにいられる。」


 言葉に飾りはなかった。胸の真ん中が、静かに熱くなる。ボクはタオルを握り直し、小さく息を吐いた。


「ボクは、今日の一秒を、忘れない。」


「忘れなくていい。でも、忘れても大丈夫なところまで行って。」


「どういうこと?」


「一秒が“日常の中の呼吸”になるところまで。特別じゃないものにする。そうなれば、今日が消えても、残る。」


 分かるようで、分からない。けれど、その少し先に道が伸びているのは確かだ。ボクは頷いた。真澄は立ち上がり、台の上のホワイトボードを手に取る。今度は、一本だけ線を引いた。ゆるやかな曲線。始まりも終わりも曖昧で、途中だけが少し濃い。


「これ、今日のよしちん。」


「途中が濃い。」


「止まったから。ここから先は、薄くつなげていく。急がないで、でも止めないで。」


 彼女はペンを置き、笛を首にかけ直した。姿勢がいつものコーチに戻る。


「もう一回、やってみよう。短くでいい。」


 ボクは水に入り、さっきよりも浅く呼吸を整える。同じ手順。二往復。仰向け。二回目の吐きの終わり。掌の薄い合図。胸の針を置く。世界は先ほどほど深くは静まらなかった。それでも、ほんの半歩、音が遠ざかった。十分だった。縁に戻ると、真澄は満足そうに頷いた。


「うん。今日はここまで。」


「最後に、ひとつだけ宿題。家では水を使わない。洗面台でも風呂でも、止める一秒を探さない。その代わり、街で。信号待ちの交差点、路面電車の揺れ、エレベーターの上昇。動くものの中で、胸の針を“置く”。水の外でも作れたら、本物。」


「分かった。」


「もうひとつ。焦って失敗したら、わざと笑って。焦りをごまかすためじゃなくて、焦りも“合う”ものの一部にするために。」


 言いながら、真澄自身が少し笑った。肩の力が抜け、夜の空気が軽くなる。ボクも笑った。短く、でも確かに。


 シャワーで塩素の匂いを流し、髪を乾かす。更衣室の鏡に映る自分の顔は、昼より少しだけ色が濃い。頬に疲れと、目の奥に薄い光。ロビーに出ると、館内アナウンスが「本日の営業は終了しました」と繰り返していた。ガラスの向こうに、駐車場の灯り。雨は上がり、アスファルトがまだ暗い。


「よしちん。」


 背中から呼ばれて振り向く。真澄がスタッフ用の出入り口から出てきた。ジャージの襟元を指で整え、少しだけ躊躇してから、ボクの手首を取った。成人と未成年が触れ合う線の手前で、慎重に。骨の位置を確かめるみたいな軽さで。


「さっきの一秒、私にとっても特別だった。だから……ありがとう。」


 彼女が礼を言うのは、いつも短い。短いのに、芯がある。ボクは「こちらこそ」と返した。手首から離れた温度が、脈のところでまだ微かに残る。


「今度の水曜も、同じ時間でいい?」


「いいよ。」


「その前に一度、陸で呼吸だけ合わせたい。恩音中央公園、朝のベンチで十分。掲示の貼り替え、ユイがやる日でしょ。邪魔にならないように離れたベンチで。」


 ユイの名前が出た瞬間、胸のどこかがぴくりと動いた。アカネの短いメッセージも頭の隅で点滅する。三人の線が、どこかで交わりそうな予感。ボクは動揺を隠して頷いた。


「分かった。」


「じゃ、また。」


 真澄は手を振って、スタッフ通路に戻っていった。自動ドアが閉まる前、彼女の横顔がガラスに二重に映って、すぐに重なった。


 外に出ると、オインタウンの夜は思ったより明るかった。路面電車のホームまでの通路を歩きながら、ボクはポケットからスマホを出す。通知は二つ。ひとつはユイ。『明日、掲示貼り替え。八時集合。来れる?』もうひとつはアカネ。『金曜夜、退屈潰す。場所は任せる。』二つの文が、別の場所から同じ中心に向けて線を引いている。中心にいるのは、ボクだ。吐く息が少しだけ熱い。


 オイントラムの車体がホームに滑り込み、金属の車輪が短く鳴く。乗り込んで窓側に座ると、ガラスに自分の顔が映った。今日の一秒が、瞳の奥でまだ薄く光っている。指で窓枠を軽く叩き、息を合わせる。吸って、吐く。車内の騒音の中で、ほんの刹那、音が薄くなる。プールほどはっきりしない。でも、確かにある。


 家では、母が食器を片づけながら「最近、よく通うわね」と言った。ボクは「練習」とだけ答え、机でノートを開く。ページの上に、今日の線を描く。ゆるやかな曲線。途中だけ濃い。「止まる一秒」「置く」「図も笛もなし」「場所」「未満」と小さな文字で添える。文字の行間に、薄い水の跡が広がっていくような気がした。


 ベッドに横になり、目を閉じる。真澄の掌が、再生される。置かれるだけで、動かない掌。水がその形に沿って静まる。ボクの胸の針が、そこに重なる。耳の奥で、泡が遠のく。天井の梁が濃くなる。世界が半歩だけ静かになる。眠りに落ちる手前で、今日の一秒に名前を付けたい衝動が生まれた。安易な名前は避けたい。誰かの真似に見えるのも嫌だ。だから、今夜はまだ付けない。ただ、心の中で仮の呼び名を置く。「水の綴り」。音と光と温度を、一行に並べる書き方。ボクだけの仮名。明日、池のベンチで、呼び名の続きを探す。


 その前に、やることがある。ユイに『行ける』と返す。アカネには『金曜、考えてる場所がある』と打つ。送信して、画面を伏せる。胸の真ん中に、三本の線が交わる音がして、静かに消えた。


 そして、止まる一秒の向こうに、別の一秒があるのを、ボクはぼんやりと知った。水の外でこそ止まる一秒――音が薄くなる街の空白。そこで何が起きるのか、まだ分からない。けれど、行く。呼吸を合わせて、置く。止めない。薄い膜の向こうへ。


 翌朝、恩音中央公園。芝生の露がまだ靴の先で冷たい。池の水面は眠そうに鈍い。始業前の散歩の人が二、三人。ベンチに座り、宿題どおり街の動きの中で胸の針を置く練習をする。吸って、吐く。遠くでオイントラムが踏切を渡る短い音。噴水が一度だけ高く上がり、すぐ静まる。その切れ目に、ほんの半歩、音が薄くなる。成功と呼ぶには小さい。でも、確かだ。スマホの画面は七時四十八分。影が伸び、ベンチの端に別の影が重なる。


「おはよう。」


 真澄が言う。ジャージの袖口から冷たい空気が逃げていく。彼女は隣に座らず、少し離れて立ったまま、ボクの呼吸に合わせて視線だけで合図を送る。声は要らない。三回目の途中、一瞬だけ世界が薄くなる。水のない一秒。彼女は小さく頷いて、腕時計を見た。


「行っておいで。掲示、手伝って。」


 ボクは立ち上がり、「うん」とだけ答える。ユイの待つ校舎へ向かう足取りの中で、胸の針が静かに位置を保っていた。今日は、動くものの中で止まる一秒を、もう少し探せる気がした。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

今後の更新予定日は【火曜・金曜】の22:00です!

よろしくお願いいたします!

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