第1話 終わりの始まり
十人吐色
平凡な高校生活を望んでいたボクは、なぜか落ち着いた日々を過ごせなくなっていた。
交わる視線、重なる想い、ぶつかる感情。
甘くて切なくて、時にどうしようもなく苦しい。
それでも、ボクは選ばなければならない。
――これは、色とりどりの恋が交錯する、ひとりの少年の物語。
赤い夕陽が、割れた窓ガラスの欠片に刺さっていた。
体育館の床はあちこちで沈み、バスケットゴールは折れ曲がり、非常灯だけが痙攣みたいに明滅している。粉じんと焦げた匂い、血の鉄の匂い——その真ん中で、ボクは膝をついて彼女を抱えていた。
「……起きてよ。ほら、もう終わったから。ボクはここにいるから」
腕の中の体温は、まだ人の温度をしている。けれど、胸の上下はもうなかった。
彼女の髪は、汗で頬に貼りついている。何度も指で払い、何度も戻ってくる。「どうして」と口の中で言葉だけが増えて、喉からは何も出ない。
床には、たくさんの証拠が散らばっていた。
凹んだ鉄パイプの先には、乾いた赤黒い斑点。
白いリボンがちぎれて、木目の隙間に縫うように入り込んでいる。
濡れた足跡は途切れ、青いゴーグルの片方が、孤独に転がっている。
砕けた宝石の破片は、もう光を返さない。
折れたマイクスタンドは、床とぶつかるたびに小さく鈍い音を立てる。
黒い影は、誰もいない壁際でまだ揺れていた。
そして、薄い紙の束に印刷された不可思議な記号は、風もないのに一枚だけふわりとめくれた。
全部、ボクが知っているものだ。
全部、ボクを巡ってぶつかり合い、折れて、ちぎれて、砕けたものだ。
「……ボクが選んだから、か」
声にすると、胸の奥がずきりと痛んだ。
十の手から、十の声から、十の視線から、ボクは一人を選んだ。正しいのかどうか、まだ分からない。けれど、選ばずにいることだけは、もう許されなかった。誰も彼もが、あの笑顔のまま戦えなくなっていたから。
「君がいなきゃ、何も意味がないんだ。だから——」
言いかけて、やめた。
言葉は願いだ。願いは、願いでしかない。現実は、腕の中の重さだけを示している。
指先が震えた。彼女のまぶたに触れると、冷たさはまだ遠い。ぎりぎりの時間。遅刻した告白が、彼女の耳に届くには遅すぎるか、間に合うのか、その境界線。
「……ごめん」
ボクはやっと、それだけ言った。
それから、立ち上がる。膝が笑い、視界が揺れる。
体育館の扉が、風もないのに軋んだ。昼と夜の継ぎ目みたいな橙色の光が細長く伸び、そこに影が一本、差し込まれる。
彼女はゆっくり近づいてくる。
靴音は静かで、床の割れ目を確かめるみたいに丁寧だ。
頬にかかった髪の線、薄く開いた唇、まっすぐな視線。そこに宿っているのは、熱であり、氷だ。愛とも、憎しみとも、所有欲とも名づけられるもの。けれど、そのどれでも完全じゃない。
「やっと、二人だけになれたね」
小さな声。
体育館の広さは、その言葉を大きくもしないし、消しもしなかった。
彼女の目は涙で濡れていない。代わりに、奥底でゆっくり燃えている。薪を足し続けた炉の火みたいに、終わるつもりのない熱だ。
「……どうして君が、ここに」
「どうして、なんて。ボクが呼んだんでしょう?」
彼女は笑った。唇だけで、静かに。
ボクは呼吸を整える。胸の痛みは、呼吸の数と一緒に輪郭を増す。
背後の非常灯が一度だけ長く点滅し、戻った光の中で、彼女の影が床に落ちた。影が、ひとりでに伸びる。光源の動きと合わない方向に、ひと呼吸ぶんだけ。
「……ここで終わらせるつもり?」
「ううん。ここから始めるの。あなたと、わたしの、世界を」
“わたし”。
彼女はいつも自分をそう呼ぶ。他の誰もが「私」や「あたし」に寄りかかる会話の中で、彼女だけは、言葉の隅々が一人称の形を保っている。そこに滲む自信と、諦めと、欲望を、ボクは知っている。知ってしまった。
「彼女は、ボクが選んだ」
「知ってる。でも、選ばれたからって、勝ちじゃないよ」
彼女は、ボクの腕の中で眠る少女に目を落とした。
ほんの一秒。その一秒が、ボクの脈を一つ飛ばさせた。
彼女が視線を戻す。瞳は黒く、そこに映っているボクは、知らない顔をしていた。
「ねえ、義隆——」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
彼女は一歩だけ近づく。スニーカーの底が木の床を擦って、乾いた音を立てる。
「わたしはね、あなたの“最後の恋敵”でいたいの」
それは宣言であり、告白だった。
ボクは息を吸う。胸が痛む。喉が乾く。ここから何を言っても、彼女を止めることはできないと分かっていた。止める言葉を探しても、ボクの中のどこにも、生まれる気配がなかった。
「……だったら、ボクは——」
ボクは彼女を、見た。
たぶん、さっきまでよりも深く。
十の笑顔を思い出す。十の涙を思い出す。十の手のぬくもりを思い出す。
その全部の重さを、ボクは今やっと掴めた気がした。掴んでしまったから、次に手放すものの形も、分かってしまった。
「ボクは、絶対に負けない。どんな理由でボクを奪い合っても、最後に選ぶのは、ボクだ」
言い終わると、彼女の口角が、ほんの少しだけ上がった。
嬉しそうでもあり、悔しそうでもあり、興奮しているようでもあった。
彼女は、両の手を胸の前で組む。祈るみたいに、けれど祈りじゃない角度で。
「いいよ。その言葉を、わたしは何度でもへし折る」
空気が変わった。
明滅していた非常灯が、完全に消えた。代わりに、ひどく遠い場所から一筋の白い光が伸びてくる。体育館の天井に新しい亀裂が走り、そこから砂がぱらぱらと降ってくる。
床の影が、彼女の足元へ集まる。墨を流したみたいに濃く、滑るように。
ボクは腕の中の彼女をそっと床に寝かせた。目を閉じさせ、ほどけた髪を整える。指先は震え、でも、ボクは止めない。止める理由がない。
“最後の恋敵”が、呼吸をゆっくりと整える音だけが、体育館の中心に残った。
——そのとき、割れた窓の向こうで風が鳴った。
ボクは顔を上げる。
夕陽が、完全に沈みかけている。橙と紫の境界線に、見覚えのある影が二つ、三つ、揺れた。
いつか一緒に笑った影。いつか殴り合った影。いつか手を繋いだ影。
彼女たちの名を、ボクは呼ばない。呼べば、戻って来てしまいそうだったから。戻って来たら、この場はもう、世界ではいられなくなる。
「……来るの?」
ボクが問うと、彼女は頷いた。
その頷きに、ためらいは一滴もなかった。
「うん。だって、わたしは“最後”だから」
影が床を滑る。
ボクは体をひねり、右足を引く。呼吸を一つ、二つ。
耳の奥で鼓動が鳴る。その鼓動に合わせて、世界が少しずつ狭くなる。体育館は、リングだ。リングは、告白の場所だ。告白は、戦いだ。
「行くよ、義隆」
「来いよ。——ボクの、最後の恋敵」
その合図で、光と闇が交差した。
床が裂け、風が巻き、影が牙をむく。
凶器にも祈りにも見える笑顔が一つ、宙で弾けた。
ボクは踏み込み、彼女は迎え撃つ。
十の恋の残骸が、足元で跳ねて、止まった。
世界が轟音に包まれ、ボクの視界は白で満たされた。
白は、始まりの色だ。終わりの色でもある。
どちらでも構わない。ボクはこの終わりから、もう一度はじめるつもりでいる。
君に言いそびれた言葉を、ボクは胸の奥で結ぶ。
それが告別になるのか、誓いになるのかは、まだ分からない。
分からないまま、ボクは叫んだ。
「——もう、誰も失わない!」
その声は、誰の耳にも届かないはずの虚空で、確かに跳ね返った。
返ってきた震えを掴んで、ボクは次の一歩を踏む。
最後の恋敵と、名乗った彼女の方へ。
終わりが、始まっていた。
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