02 雨中の設営
鍾乳洞の薄暗がりで、咲弥は自前のレインウェアをスタッフバッグから引っ張り出した。
防水透湿性に優れた最高級素材、ゴアテックス――の、ワンランク下の素材で仕立てられた、レインウェアの上下である。
こちらのレインウェアでも、お値段は五ケタを下らないのだ。購入してから数年を経ても問題なく使用できているので、咲弥としては満足していた。
靴はもともと防水のトレッキングシューズであるため、咲弥の身支度は以上で完了である。
いっぽう陽菜は可愛らしい黄色のレインコートと同色のレインパンツを着込んでおり、今は長靴に履き替えているさなかであった。
「陽菜ちゃん。雨合羽は、蒸れると暑くなるからさぁ。大汗をかきそうだったら休憩を入れるんで、無理をしないで報告してねぇ?」
そのために、アウトドア用のレインウェアでは防水性ばかりでなく透湿性が重視されているのだ。ビニール素材の雨具では、夏場に地獄を見る羽目になるのだった。
しかしまた、咲弥が雨合羽を卒業したのは高校に入ってからとなる。陽菜が値の張るレインウェアを手にするのは、雨合羽の難点を体感してからでも遅くはないはずであった。
「準備、できました!」
もともと履いていたスニーカーをビニール袋に詰めてリュックサックに収納したのち、今度はそのリュックサックを大きなビニール袋に包み込んでから、陽菜は咲弥に笑顔を向けてきた。
そちらに「うん」と笑顔を返してから、咲弥はドラゴンに向きなおる。
「ではでは、ドラゴンくんにお預けしてるキャンプギアをお願いできるかなぁ?」
これが初めての雨ではないので、ドラゴンもいぶかしむことなく尻尾の先で魔法陣を描く。さして広くもない鍾乳洞の出入り端に、巨大な作業台たる『祝福の閨』が現出した。
その上に設置されていた宝箱を開いて、咲弥は必要な物資を取り出す。
『精霊王の羽衣』と『昏き眠りの爪』――あとは剥き出しの状態で置かれていた『聖騎士の槍』を含めて、タープの用具一式だ。それらを足もとにおろしながら、咲弥は陽菜に説明を施した。
「雨の日には、まずタープを設営するんだよぉ。そうしたら、その下で準備を進められるからねぇ」
「うん、そっか! 雨の中でテントを立てたら、中までびしょびしょになっちゃうもんね!」
「そういうことさぁ。ドラゴンくん、ありがとうねぇ」
ドラゴンは「うむ」と首肯して、残る物資を再び亜空間に仕舞い込んだ。
「お待たせしましたぁ。それじゃあ、出発しよっかぁ」
「ふん! 雨を弾くだけで、ちっとは魔力を使うんだからな! そのぶんまでメシを準備してもらわねーと、割にあわねーな!」
そんな言葉を告げながら、ケイはぴこぴこと尻尾を振っている。
咲弥は「りょうかぁい」と応じながら、レインウェアのフードをかぶった。
陽菜とアトルとチコも同じようにフードをかぶるのを待ってから、いざ出発である。咲弥は『昏き眠りの爪』のケースをくるんだ『精霊王の羽衣』を抱え込み、アトルとチコには『聖騎士の槍』を一本ずつお願いした。
また陽菜の手を取って鍾乳洞を出てみると、咲弥の愛車は跡形もない。ドラゴンが鍾乳洞に入る前に、亜空間に仕舞ってくれたのだ。
そそりたつ岩の壁面に沿って移動していくと、やがて空き地に到着する。
もう何度お世話になったかもわからない、お馴染みのスポットだ。タープの設置を開始する前に、咲弥はまた陽菜に注釈を施した。
「あっちの茂みの向こうには、けっこう大きな川が流れてるんだけどねぇ。こっちのほうが高台だから、雨足が強くなっても危険はないはずだよぉ。雨の日は設営の場所にも気をつけないといけないってことを覚えておいてねぇ」
「はいっ! わかりました!」
「それじゃあ、タープを立てようかぁ。ドラゴンくん、車をよろしくぅ」
タープを張るのに必要なロープは、車中であるのだ。
しかしそちらも荷下ろしをせずに取り出せるように、一番上に積んだコンテナに収納されている。かくも、雨の日には荷物を取り出す順番が重要であった。
雨足はいくぶん弱まったようだが、やむ気配はない。
ぱらぱらと降りそぼる小雨の中、咲弥たちは四人がかりで異界のアイテム尽くしのタープを設営した。
タープは雨が溜まらないように、普段よりも角度をつけてロープを張る。
そちらが完成したならば、お次は車中に保管されていた咲弥の自前のタープだ。
そちらのペグを打っているさなかに、陽菜が「ふう」と息をついた。
「カッパを着てると、こんなに暑くなるんだね。ちょっと汗をかいちゃったみたい」
「うんうん。これを立てたら、ひと息つこっかぁ」
そうしてふた組のタープを完成させたのち、一行は全員でその下にもぐりこんだ。
フードをはねのける咲弥たちのかたわらで、分裂したままであるケルベロスたちもひと息ついている。おそらくは、雨を弾く魔法を解除したのだろう。ケルベロスたちは、みんな魅惑的なモフモフを維持していた。
「一番暑いのはアトルくんとチコちゃんだと思うんだけど、あんまり汗とかかいてないみたいだよねぇ」
咲弥がそのように問いかけると、アトルが「はいなのです!」と背筋をのばした。
「ぼくたちはさばくでくらしているので、あつさになれているのです! でもでも、あめがふるといつもよりむんむんするのです!」
彼らが纏っているポンチョのような装束は、デザートリザードの革製であるのだ。それでは雨合羽よりも湿気がこもって然りであった。
しかし彼らは一年中、同じような姿で過ごしているらしい。人間族よりも頑健であるというコメコ族は、暑さにも寒さにも強いようであった。
「陽菜ちゃんは、どう? 汗が冷えると風邪をひいちゃうから、気をつけてねぇ」
「うん。まだそんなに汗はかいてないけど……こんなに暑くなるとは思ってなかったから、びっくりしちゃった」
陽菜は、いくぶん火照った顔でにこりと笑う。暑さよりも、雨中で働く非日常感を楽しんでいる様子であった。
(つくづく陽菜ちゃんは、キャンパーの資質があるみたいだなぁ)
こういう手間を楽しめるかどうかが、キャンパーとしての資質というものであろう。
ただし、数年ばかりもキャンプを続けていると、その手間が面倒に思える時期もやってくる。雨など降らないに越したことはないし、気分や体調によっては雨が疎ましく思える日もあるのだ。
しかしまた日が過ぎると、雨を楽しめる心持ちが舞い戻ってくる。他のキャンパーがどうだかは知らないが、咲弥はその繰り返しであった。
然して現在は、雨を疎む気持ちも生まれない。二年近くも不自由な生活を強いられていた咲弥は、二ヶ月間のキャンプ生活を満喫してもまだまだキャンプの楽しさに飢えていた。
「よし。それじゃあもうひとふんばりしてから、のんびりくつろごっかぁ」
次の仕事は、テントの設営である。
雨の日は、まずタープの下で準備を整えるのだ。
グランドシートの上でインナーテントを組み上げて、その上にフライシートをかぶせてから、いざタープの外に移動させて、ロープとペグの処置を施す。インナーテントには防水の機能が備わっていないし、グランドシートが濡れると後始末が手間であるため、このように取り計らうのが一般的であるはずであった。
注意点は、地面に敷いたグランドシートがフライシートの外にはみださないことである。そこから雨が流れ込んだら、せっかくの処置も台無しであった。
「どうしても外に出ちゃいそうだったら、フライシートの内側に折りたたんじゃってねぇ」
時には陽菜に指示を出しながら、ともにテントを完成させていく。
アトルとチコはこの二ヶ月で何回かの雨に見舞われているので、もう手慣れたものだ。また、そもそも彼らは一年以上も前から祖父とキャンプを楽しんでいたのだった。
やがてテントが完成したならば、タープの下に『祝福の閨』を出してもらう。
さらに、咲弥の愛車からもキャンプギアの一式を運び込み、それでようやく設営も完了であった。
「お疲れさまぁ。ランチの前に、雨具をぬいでひと休みしよぉ」
ぬいだ雨具はハンガーにかけて、タープの内側に張ったロープに吊るす。しかるのちに、咲弥と陽菜はローチェアに腰を沈めた。
陽菜はそれなりに汗をかいているが、やっぱり楽しげな面持ちだ。今日はそれほど気温も低くないので、日が落ちるまでは風邪をひく心配もないようであった。
「まったくよー。こんな苦労の、何が楽しいんだかな」
レジャーシートの上で丸くなったケイが、また文句をつけてくる。しかしそれが、ケイなりのコミュニケーションであるのだ。彼は決して反感を抱いているわけではなく、ただ疑念を抱いているだけなのだろうと察せられた。
「こういう不便さを楽しむのも、キャンプの醍醐味ってことだよぉ。これぐらいの雨だったら、危険なこともないしねぇ」
「ふーん。じゃ、もっとドカドカ雨が降ったら、どーすんだ?」
「そのときは、グランピング感覚で屋根のある場所にお邪魔しようと思うよぉ。第一候補は、ドラゴンくんのお宝が眠る洞穴かなぁ」
「ぐらんぴんぐ? なんだそりゃ?」
「えーと、たしか語源はグラマラスなキャンピングで、設営なしでキャンプを楽しむことだよぉ。まあ、あたしらの場合は焚火台とかを準備しないといけないから、完全なグランピングにはならないだろうけどねぇ」
咲弥が想定しているのは、洞穴のすぐ外にタープや焚火台を設置して、お手軽にキャンプを楽しむ図であった。一般的に、降水量が五ミリから十ミリあたりでキャンプは中止するべきとされているので、それぐらいの大雨になったら洞穴のグランピングを楽しませていただこうという算段である。
「しばらくしたら、梅雨になっちゃうからねぇ。ちなみに、去年の梅雨なんかはどんな感じだったのかなぁ?」
「うむ。確かにその時節は、格段に雨が多かったようであるな。トシゾウと会えない日が続き、物寂しい思いをしたものである」
「そっかぁ。あたしは危険がない限りお邪魔するつもりだから、よろしくねぇ」
「うむ。山中まで出向いてもらえれば、あとは我が案内できるのでな」
ドラゴンが嬉しそうに目を細めたので、咲弥も温かい心地で微笑むことになった。
「でもその前に、ゴールデンウィークだよね。ゴールデンウィークになったら、ひなもいっぱいおとまりしていい?」
陽菜がもじもじしながら問いかけると、ドラゴンを除く面々が小首を傾げる。
その中で、ルウが凛然たる面持ちで反問した。
「失礼。ごぉるでんうぃいくとは、如何なる時節を指しているのでしょうか?」
「じ、じせつ? えーっとね、学校とか会社とかがいっぱいおやすみになる、連休のことなんだけど……」
「がっこう……かいしゃ……」
どうも魔族には、馴染みのない存在ばかりのようである。
陽菜が困った顔をしていたので、咲弥が言葉を添えることにした。
「陽菜ちゃんは七日に五日ぐらいのペースで、学校っていう場所に通ってるんだよぉ。そういう日は半日ぐらい拘束されるから、キャンプに来られないの。で、ゴールデンウィークでは学校も休みになるから、キャンプざんまいってことさぁ」
「なるほど。それでこのたびも、五日ばかりの日があけられたわけですね。そのごぉるでんうぃいくとは、いつやってくるのでしょうか?」
「うーんと、もう目の前なんじゃないかなぁ」
咲弥はサロペットエプロンのポケットからスマートフォンを引っ張り出して、カレンダーを確認してみた。
「うん。いちおう来週末からはゴールデンウィークに突入するみたいだけど、連休になるのは再来週だねぇ。今日から数えると、十四日後だよぉ」
「承知しました。私はサクヤ殿と竜王殿の判断に一任する立場ですので、どうぞご随意に」
「うんうん。でもまずは、家の人たちを説得しないとねぇ。家でおでかけする予定とかはないのかなぁ?」
「うん。畑のお世話があるから、ゴールデンウィークもおでかけはできないの」
言われてみれば、農家にゴールデンウィークもへったくれもないのだろう。であれば、陽菜にも連泊の楽しさを味わってもらいたいところであった。
(でも……もうゴールデンウィークなのかぁ)
咲弥がしみじみと息をつくと、ドラゴンと目があった。
その黄金色の瞳は、とても優しい光をたたえている。そして、その理由も明白であった。
ゴールデンウィークというのは、咲弥が最後に祖父とキャンプを楽しんだ時節であるのだ。
あの楽しい思い出の日から、ついに丸二年が経過してしまうのだった。
(それでもって、それが過ぎたらドラゴンくんとじっちゃんが出会って丸二年ってことになるわけかぁ)
そんな思いを込めて、咲弥はドラゴンに微笑みを返す。
するとドラゴンは、いっそう優しく目を細めてくれたのだった。




