08 恩讐の果て
ユグドラシルが「ふわあ」と大あくびをもらしたのは、卓上の料理があらかた片付けられて、デザートのイブ焼きを供したのちのことであった。
「あはは。おなかがいっぱいになって、眠くなっちゃったのかなぁ?」
咲弥がそのように呼びかけると、ユグドラシルは子供のように目もとをこすりながら「うむ」とうなずいた。
「今日などは、一日くつろいでおったのにのぉ。これじゃから、竜王に老体あつかいされてしまうわけじゃな」
「ユグドラシルはこの数日、キバジカの捕獲にも力を尽くしてくれたからな。どうか無理をせず、身を休めてもらいたい」
ドラゴンが心配げな声をかけると、ユグドラシルはふにゃんと笑いながらもういっぺん「うむ」とうなずいた。
「サクヤは、明後日の朝までお山に留まるのじゃな? ならば今日は、早々に休ませてもらおうかの」
「うんうん。今日もいっぱいおしゃべりできたから、あたしは大満足だよぉ。よかったら、明日もよろしくねぇ」
「うむ。では、サクヤとロキにねぐらまで見送ってもらおうかのぉ」
その言葉には、ドラゴンがいぶかしげに目を細めた。
それを見つめ返すユグドラシルは、とても透き通った眼差しになっている。それでドラゴンは、いくぶん物思わしげに息をついた。
「ユグドラシルは、我よりも遥かに聡明であるからな。サクヤやロキを困らせるような事態には至るまい」
「へん。油断させるだけ油断させといて、いきなり襲いかかってくるかもしれねーけどなー」
と、ケイはいくぶん警戒している様子である。
しかし咲弥は、ユグドラシルの真情を疑う気持ちにはなれなかった。
「それじゃあ、ちょっと行ってこようかなぁ。ランタンをひとつ借りていくねぇ」
食事の間に日は暮れて、空き地を取り囲む樹木には白い夜想花が咲き誇っている。
咲弥が祖父の形見であるオイルランタンを手にタープの外に出ると、夜想花はいっそう美しくきらめいた。
寡黙だが従順なゴーレムは、無言のままに追従してくる。そうして咲弥たちはユグドラシルを先頭にして、森の中に足を踏み入れることになった。
森の中でも、あちこちに夜想花が瞬いている。月の欠片が森にまぶされているかのような、幻想的な美しさだ。ユグドラシルの小さな背中を追いかけながら、咲弥は夢の中をさまよっているような心地であった。
(夢かぁ。そういえば、今日は昼寝でも夢を見たっけ)
そんな想念を頭に浮かべながら、咲弥はユグドラシルに呼びかけた。
「さっきの広場は、ねぐらの庭先だって話だったよねぇ。そのねぐらっていうのは、けっこう遠いの?」
「いんや。もう百歩もかからんので、案ずることはないぞよ」
道なき道をひたひたと進みながら、ユグドラシルはそう言った。
咲弥が背後を振り返ると、樹木の隙間に夜想花ならぬ輝きがうかがえる。あと百歩ていどならば、帰り道に迷う心配もなさそうであった。
「……わしがこのお山にやってきたのは、もう二十年ばかりも昔の話かの? ロキはそれよりも遥かに昔から、このお山に住みついておるのじゃろ?」
「……ワガハイ、ヨンジュウネンマエ」
「なるほど。竜王が玉座についてから、六十年ほどが過ぎた頃合いか。しかしおたがい、世間の騒ぎと無縁でおることはできんかったわけじゃな」
そう言って、ユグドラシルはくるりと咲弥たちのほうに向きなおってきた。
「ここが、わしのねぐらじゃよ。人間族のサクヤにも、見て取れるかのぉ?」
「んー? 暗いから、何も変わってないように思えるけど……」
そのように答えながら、咲弥はランタンを頭上に掲げてみた。
それと同時に、咲弥は息を呑む。行く先に、途方もなく巨大な樹木が威容をさらしていたのだ。
テレビか何かで観た覚えのある千年杉にも負けない大樹である。その幹を取り囲むだけで、数十人の人間が必要となることだろう。そしてその幹に人間の胴体よりも太い枝が無数に生えのびて、青い若葉を雲のように茂らせていたのだ。その樹木の一本だけで、巨大な建造物に匹敵するような質量であった。
「……初めましてとでも言うべきかのぉ。これが、わしの本体じゃよ」
「ほ、本体? ユグドラシルさんの正体はこのでっかい木で、こっちのユグドラシルさんは分身か何かってこと?」
「うーむ。こちらの姿も、決してかりそめではないのじゃが……かえがきかないのはあちらのほうじゃから、やはりあちらが本体であると称するべきなのじゃろうな」
ユグドラシルはあどけない笑みと透徹した眼差しを同時に浮かべながら、そのように言いつのった。
「わしがもともと一本の木に宿った精霊であったことは、昨日も話したじゃろ? それが、この木であるのじゃ。この木に魔力が行き渡り、そこからあふれた魔力が精霊たるこの身に肉の体を与えた。だからどちらも、正真正銘わしであるのじゃが……この肉の身が朽ちたとしても、また木の実のように生み出すことがかなう。であれば、やはりわしの魂のおおもとは木のほうに宿されておるのじゃろ」
「ほへー……なんだか、すごい話だねぇ。それで千年も生きてるから、こんな立派に育ったのかぁ」
「いやいや。このお山にやってきたのは二十年ほど前と言うたじゃろ? この木が根っこでひょこひょこ歩いたら、それこそ大騒ぎじゃろうよ」
そう言って、ユグドラシルはくすくすと笑った。
「わしは別なる森で生まれ育ったが、その地を支配しようとする人間族によって火をつけられてしまったのじゃ。それでこの肉の身でもって一片の木の実をもぎとり、逃げのびた。そしてこのお山に木の実を埋めて、こうして再び育ったのじゃ。このお山は魔力にあふれかえっておるので、わずか二十年でこうまで育つことができたわけじゃな」
「……デハ、ニンゲンゾク、カタキ?」
ロボットのような声音で、ロキが問いかける。
ユグドラシルは「さてのぅ」と肩をすくめた。
「わしに火をつけたのは人間族じゃが、そやつらはとっくに死に絶えておる。精霊の束ね役であるわしを失った森もあえなく朽ちてしまったため、そこに住みついた者どももともに滅ぶことになったのじゃ。そうしてその人間族も、魔族との戦いに敗れて森に逃げのびてきたのじゃろうから……誰が仇であるかなど、考えるだけ無駄な気がしてしまうのぉ」
「…………」
「それにわしは、このお山で安楽に過ごしておる。生まれ育った森よりも、いっそう安楽なぐらいじゃ。ここまで逃げのびる道行きは過酷そのものじゃったが、今となっては誰を恨む気にもなれんというのが偽りのない本心じゃな」
「……ユグドラシル、ウラヤマシイ、オモウ」
ゴーレムのそんな言葉に、ユグドラシルはいっそう楽しげに笑った。
「うぬなら、そう言うと思うておったよ。うぬはおそらく、このお山そのものに成り果てたいと念じておるのじゃろうからな」
「……ソウ。ワガハイ、ヤマ、ナリタイ。スベテノザツネン、ステサリタイ」
「うむ。しかしわしも、こうして肉の体を持つ身じゃ。決して雑念とは無縁でないし、それを捨て去ったら死ぬのと変わらんじゃろと思うておるよ」
「…………」
「ただやはり、半分がたは木そのものであるので、よその者どもとはまた心持ちが違うておるのじゃろうな。差し出がましい話じゃが、うぬもその領域を目指してはどうじゃろうな?」
「……ソノリョウイキ?」
「うむ。本体をお山に眠らせて、使い魔にして分身たるゴーレムを使役するうぬは、わしとひどく似通っておる。そのまま本体は眠らせて、分身でこの世の楽しさを味わえば、なんの不足もなかろうよ。……何より今は、サクヤという愉快な管理者を迎えた折であるしな」
と、ユグドラシルは屈託なく咲弥に笑いかけてきた。
いっぽうゴーレムは、どこか消沈した様子でうつむいている。
「……ワガハイ、ソノシカク、ナイ」
「それは、うぬが数多くの人間族を傷つけたからかのぉ? しかしそれはサクヤに縁ある存在ではなかったし、うぬも好きこのんで傷つけたわけではなかろ? この世はどこに逃げのびても、戦乱の種が飛び交っておったからのぉ。竜王の掲げる新たな法が正しく認められておれば、争いのない世界を望むこともできたのじゃろうが……誰もがあやつのように心正しく生きることはできんのじゃから、それを言うても詮無きことじゃ」
「…………」
「それにの、そんな話を持ち出されたら、竜王はどうなるのじゃ? あやつは玉座について以来、不殺の掟を守っておったようじゃが……すべての同胞を失った百年前の争乱においては、そんなゆとりもなかったはずじゃ。魔族と亜人族と人間族の連合軍を打ち倒すのに、あやつは何万――あるいは何十万という相手を傷つけたのではなかろうかな」
そんな風に語りながら、ユグドラシルはまた咲弥のほうに向きなおってきた。
「そんな竜王には、サクヤと懇意にする資格はないのかのぉ?」
「そんなわけないじゃん」と、咲弥は心のままに答えた。
「そんなのは正当防衛なんだから、ドラゴンくんはこれっぽっちも悪くないよぉ」
そうして咲弥がくすんと鼻を鳴らすと、ユグドラシルはいっそう優しく微笑んだ。
「どうしたのじゃ? サクヤを悲しい心地にさせてしもうたのなら、謝るぞよ」
「べつに、ユグドラシルさんが謝る必要はないけどさぁ。そんな形で家族をみんな亡くしちゃって、いやいや戦うことになったドラゴンくんの気持ちを考えると……なんだか、やりきれないんだよぉ」
咲弥は目もとににじんだものを手の甲でぬぐい、無理やり笑ってみせた。
「でも、あたしにもユグドラシルさんの言いたいことがわかったような気がするよぉ。きっとロキくんもドラゴンくんとおんなじような目にあって……それで、誰ともおつきあいする気がなくなっちゃったんだねぇ」
そのように語りながら、咲弥はゴーレムのほうに手を差し伸べた。
「そんなのは、もったいない話だよぉ。少なくとも、あたしは昔の話なんて気にしないし……親切で内気なロキくんを魅力的だと思うから、仲良くさせてほしいって思ってるよぉ」
ゴーレムは、うつむいたままである。
ただその丸い穴の目の奥には、何らかの感情がせめぎあっており――そして瞳のない目が、おずおずと咲弥の顔を見上げているように思えてならなかった。
そのように判じた咲弥は、心を込めてゴーレムに笑いかける。
するとゴーレムは、長い腕をのろのろと持ち上げて――丸っこい手の先で、咲弥の指先にちょんと触れてきた。
それは冷たい石の質感であったが、咲弥はドラゴンたちに触れたときと同じぐらい、温かな気持ちを抱くことがかなったのだった。
2025.5/5
今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。




