02 隠棲の巨人
それから、およそ三十分後――咲弥はひとりドラゴンの背中に乗って、空中飛行を楽しんでいた。
温泉の洗い場で身を清めて、アトルとチコを畑に送り届けたのちのことである。ケルベロスは先行して山の見回りを開始して、咲弥とドラゴンはロキなる魔族のもとに向かうことになったのだった。
「以前にも伝えたかと思うが、ロキは他者との交流を望んでいない。我など比較にならないぐらい世をはかなみ、この山で静かに余生を送っているのだ」
「ふうん。仙人みたいに、達観してる感じ? それとも、頑固親父タイプかなぁ?」
「どちらかといえば前者であろうが、そうまで達観はしておるまいな。伝説上のロキというのは、邪悪で狡猾とされているが……その名を受け継いだあやつは、幼子のように純朴で繊細であるのだ」
「そっかぁ。あたしとしては、仲良くしたいところだけど……あんまり迷惑がられないように気をつけるよぉ」
「うむ。サクヤは自分らしく振る舞うだけで、ロキに疎まれることはなかろうと思うぞ」
そんな優しい言葉を告げながら、ドラゴンはぐんぐんと前進した。
七首山の山頂を足もとに見る、天空の高みである。ロキはもっとも東側の峰の外側に住まっているということで、アトルたちが働く畑から二つの峰を跳び越える必要が生じた。
こうまで高みに舞い上がると、山の外まで一望できる。向かって右側は咲弥が暮らす村落で、左側はダムや送電の鉄塔が並ぶ僻地だ。そしてそれぞれその最果てには、もっと立派な町並みが見て取れたが――ドラゴンたちが住まう世界においては、四方が砂漠なのだという話であった。
「ロキには、このもっとも東側の峰の管理を任せている。もとよりあやつは、この場所を終の住処と定めていたのでな。そうして二つの世界を融合させたのちも、この峰だけは我が手を下すまでもなく完全な調和が保たれていたのだ」
「へえ、すごいねぇ。ますますお礼を言わなくっちゃなぁ」
「うむ。我も世界を融合させる許しをもらいに出向いて以来、こちらの峰に足を踏み入れる機会はなかった。キバジカの肉も使い魔に託していたので、ロキ本人と顔をあわせるのは二年近くぶりとなる」
ドラゴンが二つの世界を融合させてから、あと二ヶ月ほどで丸二年となるのだ。それはすなわち、咲弥が祖父と最後のキャンプを楽しんでからも、同じだけの歳月が経つということであった。
「じっちゃんも、ロキくんとは顔をあわせなかったんだよねぇ?」
「うむ。ケルベロスやアトルたちも、同様である。とにかくロキは、他者との交流を疎んでいるのでな。もしかしたら、スキュラやユグドラシルも使い魔としか接していないのやもしれん」
それは、なかなかの筋金入りである。そんな相手にのこのこと近づいてもいいのかという疑問はなくもなかったが――咲弥は、ドラゴンの判断を信じることにした。
「なお、ロキはあらかじめ退魔の結界の対象から外しておくことにする。サクヤが結界に守られているだけで、かつてのスキュラのように警戒することもありえようからな」
「うん。ドラゴンくんが信用してる相手なら、あたしも同じぐらい信用するよぉ」
「うむ。ロキに危険がないことは、我が保証しよう。ロキほど争いを好まない魔族は、この山の外にもそうそういないはずであるからな」
そのように告げるなり、ドラゴンはやおら滑空した。
最東端の峰を、跳び越えたのだ。咲弥がドラゴンの温かな首を抱きすくめて落下の光景を楽しんでいると、ドラゴンの巨体は空中で急停止した。
「ひさしいな、ロキよ。ぶしつけで申し訳ないが、其方に願いたき儀があって参上した」
空中に留まったまま、ドラゴンはそのように言い放った。
目の前には、ごつごつとした岩場の山肌がうかがえる。しかし、どこにも人影はなかった。
「これなるは、トシゾウからこの山を受け継いだサクヤである。かねてより、其方に挨拶をしたいと申し述べていたので同行していただいた。其方が他者との交流を望んでいないことは承知しているが、サクヤの挨拶を受け入れてもらえようか?」
まるでドラゴンは、山そのものに呼びかけているかのようだ。
そしてその場は無人であるので、もちろん答える者はいなかった。
「えーと……ロキくんは、どこにいるんだろう? 岩の陰とかに隠れてるのかなぁ?」
「うむ? ロキは、目の前であるぞ。この巨体では、隠れようがあるまい」
「んー? それじゃあ、あたしには見えてないってことなのかなぁ?」
何か魔法でもかけられているのかと、咲弥は懸命に目を凝らす。
すると――暗灰色の岩場に、二つの黒い亀裂が走った。
横一文字で、長さはそれぞれ三十センチていどの亀裂である。
そうしてみしみしと音をたてながら、その横並びになった亀裂が幅を広げていき――そこに生じた暗がりに、ぼうっと黄色い鬼火のようなものが灯されたのだった。
「世話をかけるな。どうか容赦を願いたい」
ドラゴンが穏やかな声音で呼びかけると、さらに新たな亀裂が生まれた。
二つの亀裂の下側で、今度は一メートル以上の長さがある。そしてそちらの亀裂も鈍い音色をたてながら幅を広げていき、その向こう側から地鳴りのごとき声を放った。
「挨拶……無用である……」
咲弥は、心から驚かされることになった。
声を発したのは口であり、最初に開かれたのは二つの目であり――つまりはこの岩場の山肌が、ロキそのものであったのだ。
「……びっくりしたぁ。本当に、山がしゃべったのかと思っちゃったよぉ」
「うむ。もとよりロキは、岩山のごとき巨人であるのでな。そうして何年も同じ場所に座しているものだから、すっかりまぎれてしまったのであろう」
よくよく見ると、それは確かに岩山のごとき巨人であった。それが山肌の斜面の窪地か何かに、両腕で膝を抱えて座り込んでいたのだ。
巨人も山肌も暗灰色をしているため、それが保護色になってしまっている。しかも、巨人の巨体も苔むしたり、場所によっては草や花が根付いているのだ。こうまで山に溶け込んでいたならば、そうそう見分けがつくはずもなかった。
座っているので判然としないが、きっと立ち上がれば十メートルにも及ぼうかという巨体であろう。ずいぶん頭でっかちで、腕や足は巨木のように逞しい。鼻や耳は見当たらず、目や口は黒い裂け目に過ぎない。ただその目の奥に宿された黄色い瞳の輝きは、とてもひそやかであった。
「はじめまして、ロキくん。あたしは、大津見咲弥ってもんだよぉ。このお山を大事に守ってくれて、どうもありがとうねぇ」
咲弥があらためて呼びかけると、巨大な口もとがみしみしと軋んだ。
「挨拶……無用である……言った……」
「ごめんごめん。どうしても、お礼の言葉だけは伝えておきたくってさぁ」
遅ればせながら、咲弥はワークキャップを外して頭を下げた。
「そもそもあたしなんかがお山の持ち主だって言い張るのは、おこがましい話なんだけどさぁ。でも、こっちの世界では、あたしがこのお山を受け継ぐことになったし……あたしは死ぬまでこのお山を大切にするって決心したから、それだけでも伝えておきたかったんだよぉ」
「…………」
「それで、ロキくんが守ってたのはそっちの世界のお山なんだから、あたしなんかにお礼を言われる筋合いはないって思うかもしれないけど……ドラゴンくんが二つの世界を融合してくれたおかげで、あたしはすごく楽しい毎日を過ごせるようになったからさぁ。やっぱりロキくんたちにも、お礼を言わずにはいられない心境なんだよぉ。だから、ありがとう」
咲弥は懸命に言いつのったが、やはりロキは答えようとしない。
するとドラゴンが、ゆったりと声をあげた。
「では、これより後はこれまで通り、使い魔を通して話を伝えさせてもらいたく思う。其方に願いたき儀があるので、どうか一考してもらいたい」
岩の巨人は無言のまま、みしみしと音をたてて黄色い瞳をまぶたに隠した。
それを見届けて、ドラゴンは上空に舞い上がる。どうやらロキ本人との接見は、これで終了のようであった。
「ロキは、ああいった気性であるのだ。サクヤが気分を害していないことを願う」
「無理やり押しかけたのはこっちなんだから、何も文句なんて言えないさぁ。ロキくんのほうこそ、気を悪くしてないかなぁ?」
「うむ。存外、気を安らがせていたようであるぞ。これもひとえに、サクヤの人徳であろうな」
ドラゴンのそんな言葉を聞きながら、咲弥はふっと背後を振り返った。
さきほども視線を巡らせた、七首山の向こう側である。咲弥の世界における七首山の東側には広大なる雑木林が広がっており、さらにその先は荒涼とした岩場で、その先にようやく舗装された道路やひなびた町の様子がうかがえる。
だが、ロキの目に映るのは――茫漠たる砂の海であるはずだ。
その身が苔むしるほど長い年月を同じ場所で過ごし、ひたすら不毛の砂漠を眺めているというのは、いったいどのような心持ちであるのか。咲弥には、想像することも難しかった。
「では、着陸する」
ロキの住まう峰を飛び越えたところで、ドラゴンは再び滑空する。
目指すは、手前の峰との狭間にある窪地であった。
「ロキに用向きがある際は、いつもこの場で使い魔を呼び出しているのだ。キバジカの肉も、この場で受け渡している」
そのように語りながら、ドラゴンは地上に降り立った。
何の変哲もない、岩場である。先刻のロキがいた場所と同じように、暗灰色のごつごつとした岩場が森の狭間に広がっていた。
「さて。我々の話を聞いてもらえようか?」
咲弥が岩場に降り立つなり、ドラゴンがまた誰にともなく呼びかけた。
今度はどこにどのようなものがひそんでいるのかと、咲弥が目を凝らしていると――目の前の岩塊が、もぞりと蠢く。そして、硬そうな岩肌がぐにゃぐにゃと変形して、やがて巨大な生き物に変じたのだった。
背丈は二メートル以上もあり、どっしりとした分厚い体格をしている。まさしく岩の巨人という風格であったが――ただし、幼子が粘土で作りあげたようなシンプルかつ可愛らしいデザインである。
小山のごとき胴体に丸太のように太くて長い腕を垂らし、足は巨大な足首から先しか存在しない。頭と胴体に明確な区分はなく、その顔もぽつんと丸い目の穴があいているだけで、鼻も口も耳も存在しなかった。
なおかつ、色合いは暗灰色のままであるが、質感はなめらかな感じに変容している。岩の巨人というよりは、岩の色合いをした巨大な不定形生物が無理やり人の形を作ったかのようで、外見からは硬いのかも軟らかいのかも判然としなかった。
「こちらがロキの使役する、ゴーレムという名の使い魔である。ロキの意思によって操作されているので、スキュラの分身と同じようなものであるな」
咲弥にそんな説明を施してから、ドラゴンは暗灰色のゴーレムに向きなおった。
「足労をかけて、恐縮である。実は大地の精霊の力で、流し台というものを作ってもらいたいのだ」
ドラゴンが長い尻尾を振りかざして、その先端をゴーレムの丸い頭の上に置いた。どうやら、咲弥が伝えた流し台のイメージを、さらに転送しているようである。
ゴーレムが黒い目の穴にぱちぱちと黄色い光を瞬かせると、ドラゴンはすみやかに尻尾を引っ込めた。
「如何様であろうか? こちらの岩場で作ることがかなえば、幸いであるのだが」
ドラゴンの言葉に、ゴーレムはふるふると頭を横に振った。関節や継ぎ目も見当たらないが、自由自在に動けるようである。
「コノイワ、ミズ、シミヤスイ……カタチ、ツクッテモ、スグ、ホウカイスル」
口も持っていないゴーレムが、それこそロボットのような声音で告げてくる。
ドラゴンは「左様であるか」と思案深げに目を細めた。
「では、別なる場所の岩を見つくろう他あるまいな。重ねがさね足労をかけるが、同行を願えようか?」
「……リュウオウ、キゲン、ソコネタナラ、ワガハイ、イッシュン、ハイトカス」
「そのように無体な真似はせぬと、なんべんも言い置いておるであろう? 同行を了承してもらえれば、きっとサクヤが恩義を返すであろう」
ドラゴンに笑いを含んだ眼差しを向けられた咲弥は、迷いなく「うん」と応じた。
「あたしにできるのは、キャンプ料理のおもてなしぐらいだけどねぇ。ロキくんは、美味しいごはんに関心はあるのかなぁ?」
「うむ。仙人のごとき生活に身を置いているロキであるが、魔族である以上は食の楽しみを忘れることもかなうまい。だからこそ、我もキバジカの肉を届けていたのだ」
ゴーレムは、何も答えず棒立ちである。
丸い目しかない顔であるので、内心はまったくうかがえなかったが――きっと怒ってはいないのだろうと、咲弥は好意的にとらえることにした。




