03 森の祝福
「ユグドラシルが根城にしているのは中央の峰で、東側の峰と面する位置であるな」
天空を舞いながら、ドラゴンがそのように告げてきた。
アトルとチコとケルベロス、そして新たなゲストたるユグドラシルも、咲弥と一緒にドラゴンの背中に乗っている。アトルたちが管理する畑は東から二番目と三番目の峰の狭間に位置するので、その三番目の峰を跳び越える必要があるわけであった。
「えーと、いま足もとに見えてるのが、スキュラさんの住んでる峰だよね。ユグドラシルさんがそれと向かい合う面に住んでるってことは、あの『星の花』が咲く場所の裏側ってことかぁ」
「うむ。宝物を収めた洞穴と温泉が存在する峰は、さらにその向こう側ということであるな」
こちらに移り住んでから一ヶ月目を目前にして、咲弥の七首山マップもじわじわと形を描きつつある。現在のところ、咲弥は中央とその東西に位置する三つの峰を行き来しているようであった。
(って言っても、あたしが足を踏み入れた場所なんて、ごく限られてるもんなぁ。まだまだ探索の楽しみが残されてるってことだ)
亡き祖父に代わって、この山の楽しさを味わい尽くす――それが、咲弥の命題なのである。しかしそれは一生をかけた目標であるので、のんびりマイペースに楽しむ所存であった。
やがてスキュラが住まう峰をまたぎ越したならば、ドラゴンは山肌に向かって急降下する。雄々しくそそりたつ中央の峰の山腹が、目的の地であった。
ただし、山肌が眼前に迫ってもドラゴンは着地せず、そのまま山林に身を投じる。巨大な翼を後方にたたんで、首を真っ直ぐ前方にのばしたドラゴンは、弾丸のような勢いで樹木と樹木の間をかいくぐっていった。
アトルとチコは「きゃー!」とはしゃいだ悲鳴をあげながら、おたがいの身を抱きすくめる。木々はそれなりに密集しているのに、ドラゴンはスピードをゆるめることもなくすいすいと突き進んでいくのだ。魔法の効果で風圧などは感じないものの、これは上空飛行を上回るスリリングなアトラクションであったため、咲弥もたまらず身を伏せてドラゴンの首に取りすがることになった。
そうして十数秒ばかりも山林の隙間を駆け巡ったのち、ドラゴンはふわりと地面に降り立つ。
顔を上げた咲弥は、思わず「わっ」と声をあげることになった。そこにはまた、これまでと異なる大自然の威容が待ちかまえていたのだった。
「これが、わしのねぐらの庭先じゃよ」
ユグドラシルは事もなげに言いながら、ぴょんっと地面に舞い降りる。
しかし咲弥はドラゴンの首を抱いたまま、しばしその光景に見とれてしまった。
それなりの広さを持った、空き地である。
足もとには下生えの草が生えているが、これといっておかしなことはない。円形の空き地を鬱蒼とした樹木が取り囲む、ごくありふれた山の様相だ。
ただそこに、光の雨が降り注いでいた。何の変哲もない山の様相が、不規則にきらめく光の粒によって彩られていたのである。
咲弥は頭上を振り仰いで、この美しい光景の正体を知ることになった。
頭上には森の枝葉が幾重にも折り重なり、その隙間をくぐりぬけた木漏れ日が水滴のようにこぼれ落ちていたのだ。さらに、それらの枝葉が意思あるもののように絶え間なく揺れ動いているために、木漏れ日も一瞬ごとに形を変えるようであった。
「なんか、すごいねぇ……足を踏み入れるのが恐れ多いぐらいだよぉ」
咲弥がそんなつぶやきをもらすと、足もとのユグドラシルが楽しげに笑い声をあげた。
「うぬは、このお山の管理者なのじゃろ? まあ、半分がたはこちらの世界の存在であったとしても、もう半分はうぬのものなのじゃ。誰にも遠慮することはなかろうよ」
「うん……でも、人間が山の所有者になるなんて、あまりにおこがましいんじゃないかって気持ちになっちゃうねぇ」
するとドラゴンが首をねじって、優しい眼差しを向けてきた。
「しかしサクヤがこの山を手放せば、我も門を閉ざすことになろう。サクヤには、どうか末永くこの山を守ってもらいたく願っているぞ」
「……うん。どんなにおこがましい話でも、こんな素敵な山を手放す気にはなれないよぉ」
咲弥はドラゴンに微笑みかけてから、ようやく地面に降り立った。
チコたちはとっくに背中から降りており、感嘆の眼差しを周囲に向けている。どうやら彼女たちも、この場に足を踏み入れるのは初めてであるようであった。
「この先に、お気に入りの場所があるのじゃ。人間族の言葉で言うと、庭園のようなものかのぉ」
ユグドラシルは跳ねるような足取りで、空き地を踏み越えていく。
彼女も鮮やかな緑色の髪をしているため、森の一部であるかのようだ。もしも彼女と初めて対面したのがこの場所であったならば、咲弥もずいぶん厳粛な気持ちにとらわれていたのではないかと思えてならなかった。
そうしてユグドラシルの後を追って、茂みの向こう側を目にしたならば、チコが「きゃーっ!」と歓喜の声をあげる。そちらは一面の、花畑であったのだ。
手前の空き地と同程度の規模で、色とりどりの花が咲き乱れている。そしてその場にも光の雨のごとき木漏れ日が舞っていたので、息を呑むほどの美しさであった。
さらにその場には、甘い香りがたちこめている。
咲弥が知っている花の香りと見知らぬ花の香りが入り混じっているようで、得も言われぬ芳香が紡がれているのだ。視覚と嗅覚の両方から、咲弥は陶然たる心地を抱かされてしまった。
「なかなかのもんじゃろ? 花の精霊たちも、うぬらを歓迎しておるぞい」
花畑の中央まで歩を進めたユグドラシルが、こちらを振り返りながらにこりと微笑む。
まさしく彼女は、樹木の精霊の束ね役――いや、森の化身であるかのようであった。
「どうしたのじゃ? ひさびさの客人なのじゃから、ずずいと進んで精霊たちの祝福を受け取ってもらいたいものじゃな」
「いやぁ、でも、こんなに立派な花畑を踏み荒らすのは、あまりに申し訳ないよぉ」
「そんな心配は無用じゃよ。これだけの精霊が集まっておれば、花を守るのに不自由はないからのぉ」
「うむ。しかしこの姿では、精霊たちの苦労が募ろうな」
そのように申し述べるなり、ドラゴンは真紅の輝きを発して大型犬のサイズに縮んだ。
そうしてドラゴンが、四本の足で花畑に踏み入ると――足もとの花たちがふわりと動いて、ドラゴンの足から逃げてしまう。そうしてドラゴンが通り過ぎると、茶色の地面がまた花に覆い隠されたのだった。
「うひゃー、気色わりーな! どんだけの精霊が集まったら、こんな真似ができるんだよ!」
そのように語るケイは好奇心に満ち満ちた面持ちで、ライオンのように巨大な前足を花畑に振りかざす。するとその下に位置する花たちが大慌てで移動して、土の地面を覗かせた。
「ケルベロスていどの図体であれば、問題ないじゃろ。サクヤたちも、遠慮なく進むがよいぞよ」
咲弥は「うん」と覚悟を固めて、自らもゆっくりと足を踏み出した。
まるで磁石が反発するように、花や茎が逃げていく。さらに花が密集した場所では、地面から根が覗く勢いで逃げていくのだ。咲弥はひさかたぶりに、この地が異界であることを総身で実感することになった。
すみやかに歩を進めたドラゴンは、ユグドラシルの隣にたたずんでいる。
躍る木漏れ日の下で寄り添う二人の姿は、あまりに神々しく――咲弥は自分がこの場所に相応しい存在であるのかと、そんな疑念にとらわれてしまった。
その瞬間、一陣の風が吹きすさぶ。
たくさんの花びらが紙吹雪のように舞い上がり、さらなる壮麗さを演出した。
しかし、どうしてこのような樹木に囲まれた場所に、こんな突風が吹くのか――咲弥がそれをいぶかしく思っていると、チコが「わあ」と感嘆の声をあげた。
咲弥が目を向けると、チコは木漏れ日の輝きを反射させた瞳でこちらを見上げている。
その紫色の頭には、いつの間にか立派な花の冠がかぶせられていた。
「サクヤさま、おきれいなのですー。おひめさまのようなのですー」
「いや、それはこっちの台詞だけど……」
ある種の予感を覚えた咲弥は、頭にのせていたワークキャップを外してみた。
そのワークキャップが、花の冠で飾られている。ただし間近で見ると、それはさまざまな花の花弁が寄り集まって形を成していることが知れた。
アトルも同じ洗礼を受けていたので、チコと一緒にきゃあきゃあとはしゃいでいる。
咲弥はワークキャップをかぶりなおしながら、ドラゴンたちのもとに歩を進めた。
「うむ。サクヤは身を飾る習慣を持たぬようだが、そちらの花飾りはよく似合っておるぞ」
ドラゴンの満足げな眼差しに、咲弥は「あはは」と笑ってしまう。
「豚に真珠じゃなければ幸いだねぇ。ドラゴンくんとケルベロスくんは、お花をいただかなかったんだ?」
「竜王とケルベロスの魔力に、精霊たちが恐れをなしたようじゃな。うぬやコメコ族はいっさい魔力を携えておらんので、精霊たちも気安く振る舞えるのじゃろ」
ユグドラシルがそのように語ると同時に、頭上の梢がわさわさと揺れ動く。
そして何か色とりどりの物体が、ぱらぱらと降り注いできたが――ドラゴンが視線を向けると、それらのすべてが空中で静止した。
「それも、精霊たちの祝福じゃな。どうやらうぬらは、ずいぶん歓迎されておるようじゃ」
咲弥たちの頭上や眼前で動きを止めたのは、どうやら木の実や果実であるようであった。
ドラゴンがぱちりとまばたきをすると、そのすべてが一ヶ所に集結する。そうしてひとまとめにすると、ずいぶんな質量であった。
「人間族やコメコ族が口にしても害のない品ばかりであるな。よければ、食事に活用するがいい」
「……うん。精霊さん、ありがとうねぇ」
咲弥がそのように呼びかけると、今度は梢が笑うようにざわめいた。
「さて。我らの歓迎は、以上じゃな。お次は、うぬらの営みを見物させていただくことにしよう」
ユグドラシルは、あどけない笑顔でそのように告げてくる。
その翡翠のような瞳には、とても透き通った輝きが灯されており――まるで、咲弥が先刻抱いた疑念を見透かされているような心地である。そしてそれは、ドラゴンにも匹敵するぐらい優しげな眼差しであったのだった。




