01 獣と少女
2025.3/18
・今回は全6話で、隔日更新していく予定です。
・なお明日の19日に書籍版の第1巻が発売されます。そちらは合計39ページに及ぶ4編のショートストーリーを収録しておりますので、ご興味を持たれた御方は何卒よろしくお願いいたします。
じわじわと春らしさが増してきた、三月の中旬――咲弥は三日ぶりに、愛車を七首山に走らせていた。
四名の冒険者という思わぬゲストを迎えたキャンプを終えたのが、三日前の朝となる。それで咲弥が祖父の家に戻ってみると、前日に提出した仕事にリテイクをくらっていたため、そちらに多少の時間をかけることになったのだ。それでも中二日でキャンプ生活を再開できたのだから、幸いな話であった。
本日はなかなか気温も上がっていたので、咲弥は装いを新たにしている。防寒ジャケットの着用を取りやめて、最初からサロペットエプロンを着用しており、腰から下はハーフパンツにレギンスといういでたちであった。
もちろん山中では気温も五度ほど低い見込みであるため、春秋兼用のマウンテンパーカーも持参している。しかしスウェットの下には防寒のインナーウェアを着込んでいるため、現時点では出番もなかった。
異界と融合した七首山は先月の段階から南国めいた花が咲き乱れていたので、ことさら季節の変化は感じなかったが――それでも陽射しが春らしさを帯びただけで、見える光景が明るさを増したように感じられた。
たった三日でも、やっぱり世界は日々移ろっているようである。咲弥はその輝かしい世界に心を満たされながら、愛車たる軽ワゴン車を走らせることになった。
(とりあえず、これで今月分のノルマは達成できたもんなぁ。まあ、仕事の依頼があるようだったら、ちょっとは引き受けてもいいけど……とにかくこれで、心置きなくキャンプざんまいだぁ)
さしあたって今回は、これまでで最長の三泊四日に挑もうという所存である。自然、咲弥の心は浮き立ってやまなかった。
今のところ、咲弥は充足した日々を過ごすことができている。
カレンダーで確認したところ、咲弥は今回のキャンプの期間内に転居からひと月目を迎えることになるわけであったが、どこをつついても不満のない日々であった。
祖父の家にやってきた初日にドラゴンと遭遇して、咲弥は今後の指針を定めることになった。それから合計七回のキャンプを経て、亜人族の兄妹アトルとチコ、三つ首の狼ケルベロス、水妖スキュラ、四名の冒険者という面々に巡りあい――そして、現在に至るのだった。
キャンプのレギュラーメンバーであるドラゴン、アトルとチコ、ケルベロスの四名――もしくは六名は、いずれも愛すべき存在である。
いつもダンディで包容力にあふれかえっているドラゴンは魅力の塊であるし、ずいぶん弱気だがとてつもなく愛くるしいアトルとチコも少しずつ打ち解けることができた。言動は荒っぽいが無邪気で陽気なケルベロスのケイも、沈着冷静で礼儀正しいルウも、いつも陰気だが時として頼もしいベエも、それぞれ魅力的な人柄をしている。
水場でのみ姿を現す水妖スキュラはずいぶん人を食った性格であるが、咲弥が反感を覚えるほどではない。これまで山を守ってくれたという感謝の思いを抜きにしても、やはり好ましい存在だ。今後もじっくり時間を重ねていけば、さらに望ましい関係を築けるのではないかという期待を抱くことができた。
四名の冒険者に関しては、もはや顔をあわせる機会もないやもしれないが――最後には、わかりあうことができたように思う。少なくとも、彼らもドラゴンの言い分に納得してくれたのだろう。三日前の朝方、咲弥は笑顔で彼らとお別れの挨拶を交わすことがかなったのだった。
(たったひと月足らずで、ずいぶんな人数と出くわしたもんだよなぁ。それを楽しいと思えるのは、幸いなことさ)
咲弥は学生時代からキャンプとアルバイトに活力のすべてを捧げてきたため、親しい友人というものをあまり持っていない。咲弥が祖父の家に移り住むと告げた際にも、別れを惜しんでくれた人間は数えるほどしか存在しなかったのだ。それでも咲弥はどのような環境下でもつつがない人間関係を築いてきたつもりであるが――現在のキャンプメンバーほど大切に思える存在は、ちょっと他に思いつかなかった。
やっぱり咲弥はキャンプ馬鹿であり、キャンプの楽しさを共有できる相手のことを特別視してしまうのだろう。
然して、咲弥は祖父としかキャンプを楽しんだ経験がなかったために、祖父こそがもっとも大切な存在であるという認識に至り――そして今、初めて他なるキャンプ仲間というものに巡りあったわけであった。
(あとはまあ、あたしもそこそこ偏屈者で……こっちの世界の常識にとらわれないドラゴンくんたちのほうが、気が合うのかもしれないなぁ)
まあ、そんな理屈は咲弥にとっても二の次の話である。
何より重要であるのは、咲弥が充足した日々を過ごしていることであり、それにはドラゴンたちの存在が不可欠であるという事実であった。
(たまにはソロキャンプでも楽しんだら、ますますドラゴンくんたちの大切さを実感できるかもなぁ。ま、そんなことのために、わざわざ他のキャンプ場に向かう気にはなれないけどさ)
そうして咲弥が狭い山道に沿ってゆったりとハンドルを切ったとき――横合いの茂みから、巨大な影が躍り出てきた。
まだ七、八メートルほどの距離があったが、咲弥は慌てて愛車を急停止させる。
それは、咲弥の知識にない存在であった。
外見は、鹿に酷似していたが――ただし、その頭には角がなく、その代わりにサーベルタイガーのごとき雄々しい牙が生えのびていた。
「……なんだ、ありゃ?」
咲弥はフロントガラスに顔を近づけて、その存在を凝視した。
咲弥は以前に海外の大自然をテーマにしたドキュメンタリー番組で、ジャコウジカなる存在を目にしたことがある。そのジャコウジカも鹿に似た外見をしながら角がなく、上顎から発達した犬歯を覗かせていたものであるが――いま目の前に飛び出してきた存在は、そのジャコウジカともまったく似ていなかった。
ジャコウジカはニホンジカよりも小ぶりであったようだが、この鹿に似た何かは咲弥よりも図体がでかい。しかも、長い牙が地面に触れそうになるぐらい首を伏せて、こちらを威嚇するようににらみ据えているのである。それは、まったくもって草食動物らしからぬ所作であった。
何か、剣呑な気配を感じる。
もっとそばに寄れば、獰猛なうなり声でも聞こえるのではないだろうか。凶悪な牙と相まって、肉食獣を思わせる物騒な雰囲気であった。
これは果たして異界の動物であるのか、はたまた魔物であるのか――そういえば、ドラゴンたちが暮らす世界には魔獣と呼ばれる知性なき魔族が生息するのだという話であった。
(……で、魔力ってもんを持った存在は、あたしに近づけないって話なんだよな)
咲弥が首に掛けている鱗のペンダントに、ドラゴンがそういう魔法をかけてくれたのだ。それで咲弥は冒険者の一行と温泉を楽しんだ際、魔力を回復させた二名の女性が数メートルばかりも弾き飛ばされる姿を目の当たりにしたのだった。
(どっちにしろ、この状況じゃ逃げられないもんなぁ。相手の正体もわからないのに、特攻することもできないしなぁ)
こちらの山道は車がすれ違うだけの幅もないので、道をふさがれたら切り返すことも不可能なのである。なおかつ咲弥はこのような隘路をバックで引き返す運転技術も持ち合わせていなかった。
相手が魔族であるならば、ドラゴンが託してくれたペンダントの効力を信じる。
相手が危険な動物であるならば――まずは、出方をうかがうしかないだろう。こちらは車中なので、よほど特別な力を持つ動物でなければ、危険はないはずであった。
そうして咲弥が覚悟を決めるなり、鹿に似た何かが突進してきた。
四つのヒヅメが地面を蹴って、咲弥の乗った車に跳びかかってくる。
黒い双眸を爛々と燃やして、牙の生えた口をくわっと開いたその形相は、やはり肉食獣さながらであった。
そうして咲弥が遅ればせながら、ギアをバックに入れようとしたとき――首に掛けたペンダントがバチッと放電したような音をたてて、鹿に似た何かが後方に吹き飛ばされた。
まるで透明の壁にぶつかったような勢いで宙を舞い、鹿に似た何かはぐしゃりと地面に墜落する。
しかしすぐさま身を起こすと、いっそう物騒な目つきでグルル……とうなり声をあげ始めた。
(……やっぱり、魔族だったんだ)
であれば次の問題は、意思の疎通が可能か否かである。
相手が知性なき魔獣というものであるのならばどうしようもないが、ドラゴンやケルベロスのような存在であるのならば相互理解の道も残されているはずであった。
(まあ、どう見ても言葉なんて通じそうにないけど……あたしの常識だけじゃ判断しきれないからなぁ)
そのように考えながら、咲弥は運転席側のサイドウィンドを全開にして、身を乗り出した。
「こっちは退魔の結界ってやつが張られてるみたいだから、近づかないほうがいいと思うよぉ。よかったら、話し合いで解決させてもらえないかなぁ?」
鹿に似た何かは答えずに、ただうなり続けている。ウィンドウを開くと、その声の獰猛な響きがいっそうダイレクトに伝わってきた。
(はてさて、どうしたものかなぁ。ドラゴンくんに報告するしかないかなぁ)
と、咲弥が鱗のペンダントに触れようとしたとき――何か、ふわりと甘い香りがした。
それと同時に、横合いの茂みからきらきらとした輝きがあふれかえってくる。
まるで、鱗粉か何かが宙を舞っているかのようだ。そしてそのきらめきが、鹿に似た何かをふわりと包み込み――それと同時に、鹿に似た何かは糸を切られた人形のようにくずおれたのだった。
「やれやれ。獣と言葉を交わそうとは、なかなかに酔狂な娘じゃな」
と、謎のきらめきを追いかけるようにして、新たな人影が出現する。
そちらはまぎれもなく人間に似た姿をした、人間ならぬ何かであった。
「しかし、竜王の護符で事なきを得たようじゃな。それがなければ、その奇妙な鉄の乗り物もずいぶん傷つけられたことじゃろう。何せこやつらは、凶暴なのでな」
いかにも老人めいた語り口調である。
ただし彼女は、十歳ぐらいの少女の外見をしていた。
無造作にのばした髪は鮮やかなグリーンで、その瞳も翡翠のように輝いている。華奢な体に纏っているのは簡素なワンピースひとつであったが、胸もとや手首には木の実の飾り物をさげており――そして、緑色の頭には花と草を編んだ豪奢な冠をかぶっていた。
「えーと……その子は、キミが眠らせたのかな? そうだとしたら、どうもありがとう」
「うむ。礼節を知る娘じゃな。ただし、それ以上は近づくまいぞ? わしまで退魔の結界で弾き飛ばされてしまうからのぉ」
あどけない笑顔で、謎なる少女はそのように言いつのった。
不思議な色合いをした髪や瞳を差し引いても、決して普通の存在ではない。彼女の小さな体からは、ドラゴンやケルベロスにも劣らない瑞々しい生命力があふれかえっていた。
「キミも、ドラゴンくんのお友達? あたしは大津見咲弥ってもんだよぉ」
「うむ。うぬのことは、竜王から聞き及んでおる。……確かにその眼差しは、トシゾウとよう似ておるな」
「あ、キミもじっちゃんを知ってるんだぁ? それなら、もっと早く紹介してほしかったなぁ」
咲弥の内の親近感が、猛烈な勢いでふくれあがっていく。
すると、謎なる少女はいっそう無垢なる笑みを広げた。
「トシゾウとも、いっぺん挨拶をさせてもろうたぐらいじゃよ。わしもずいぶん年をくってしもうたので、竜王もいたわってくれたんじゃろ。あやつは、優しい性根をしておるでな」
「うんうん。それは全面的に賛同させていただくよぉ。できればキミとも仲良くさせてほしいなぁ」
「ふむ。そういう無邪気さは、トシゾウとも違おうておるようじゃな」
少女はにこにこと笑いながら、左の手の平を胸もとにあてがい、右の腕を横合いに差し伸べた。
「わしはユグドラシルと呼ばれる、老いぼれじゃ。どうぞよしなにな、お山の新たな管理者よ」




