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04 至福のひととき

 掛け湯を完了させた咲弥とチコは、水晶石の輝きを反射させて七色にきらめく温泉にそっと足の先をつけた。


 掛け湯の際よりもくっきりと、温泉の熱が身にしみいってくる。四十度というのはごく一般的な湯温であるはずだが、やはり咲弥の身もそれなりに冷えていたのだろう。手足の先にわずかな痺れが走るほどの温度に感じられた。


 足先から膝、膝から腰へと、少しずつ湯の中に身を沈めていき――ついに肩まで浸かったところで、咲弥は「あふう……」と悦楽の声を振り絞った。


「あたし、家でも滅多にお湯を張らないからさぁ。これは、なかなかのもんだなぁ」


「は、はいなのです! なんだかとっても、ふしぎなここちなのです!」


 普段は砂浴びで身を清めているというチコは、さっそくなめらかな頬を火照らせながらそのように応じた。


「でも、とってもぬくぬくできもちいーのです! これが、にゅーよくというものなのですね!」


「うんうん。しかも、この環境だもんねぇ」


 周囲は玉虫色にぼんやりと輝く鍾乳洞であり、男子諸君とは光のカーテンによって隔てられている。それで水面もきらめいているものだから、どこもかしこも光り輝いているのだ。しかしいずれも目に優しい光量であったので、咲弥はむしろ眼球まで優しく温められているような心地であった。


 温泉はかなりの広さであり、真っ二つに区切られた片側だけでも十名やそこらは収容できそうだ。それをチコと二人きりで独占できるというのも、まったく贅沢な話であった。


「あ、やっぱりスキュラさんは入らないんだねぇ」


「だから、どうしてあたしが煮えたった湯に浸からないといけないのさァ?」


 頭上から、スキュラの皮肉っぽい声が投げかけられてくる。彼女はいつの間にか、水面から突き出た小山のような水晶石の上に陣取っていたのだ。それでも丈の長いスカートの恩恵で、下半身がどのような形状をしているのかは見て取れなかった。


「ま、こんな場所に居座ってても暑苦しいだけだけど……この忌々しい蒸気にも魔力が溶け込んでるから、そこそこ腹は満たされるみたいだねェ」


「あー、このお湯には魔力ってもんが溶け込んでるんだっけ。あたしらには効果なしって話だったけど、でも気持ちいいなぁ」


 咲弥は背後の岩場に両肘をかけながら、湯の中でぞんぶんに体を弛緩させた。

 玉虫色にきらめく水面が、咲弥とチコの裸身を隠している。もはやお湯そのものが輝いているのではないかという趣だ。その美しい輝きと湯気に含まれる甘やかな香りまでもが体内にしみいってくるかのようで、心地好いことこの上なかった。


(最後に温泉に入ったのは……まあ、二年以上前なのは確かだもんなぁ。温泉って、こんなに気持ちよかったかなぁ)


 キャンプ場はおおよそ山間部に位置するため、温泉が併設されていることが多いのだ。主たるは軽ワゴン車を手にした専門学校生の時代に、咲弥はあちこちの温泉に浸かった経験があった。


(無料で好きなだけ温泉を楽しめるなんて、贅沢な話だなぁ。……じっちゃんにも、教えてあげたかったなぁ)


 そんな風に考えながら、咲弥は光のカーテンのほうに向きなおった。

 先刻までは騒がしかったが、今は静かになっている。ドラゴンとアトルと三頭のケルベロスが仲良く肩まで温泉に浸かっている図を想像すると、咲弥は心まで温かくなってしまった。


「……なんだか、あたまがぽわぽわするのですー」


 と、こちらではチコが恍惚とした声をあげる。

 それで咲弥が振り返ると、下顎まで湯に浸かったチコがとろんとした目つきで虚空に視線をさまよわせていた。


「チコちゃんは初めての温泉だから、加減を考えないとねぇ。いっぺんあがって、体や頭を洗おっか」


「はいなのですー。おーせのままになのですー」


 咲弥は岩場に準備しておいた風呂桶にシャンプーとボディソープと浴用タオルを詰め込んで、ぐんにゃりしたチコの手を引きつつ、温泉の奥側へと進軍した。


「ドラゴンくん、洗い場はこの奥なんだよねぇ?」


「うむ。結界に沿って進んだ突き当りである」


 光のカーテンの向こう側で、赤い影が動くのが見えた。どうやらドラゴンもこちらに合わせて、移動しているようだ。

 そうして温泉の最奥部まで到着すると、小部屋のような空間がぽっかりと口をあけている。こちらも光のカーテンが張られているが、女湯の側だけで四畳半ぐらいのスペースはありそうだった。


 チコに手を貸しながら、咲弥はそのスペースに上がり込む。

 すると、足もとが奥に向かって傾斜していることが知れた。さしたる傾斜ではないが、湯を流せばのきなみ流れ落ちていきそうな角度であり、その最果てには魔法陣が青白く輝いていた。


「その空間にて身を清めて、最後に湯を流せば、すべて『貪欲なる虚無の顎』に辿り着こう。この水晶石は水気を弾く性質であるため、自然の害になる成分がしみこむこともあるまい」


「ありがとぉ。ドラゴンくんには、お世話になりっぱなしだねぇ」


「それはあまりに、水臭い物言いであるな。我はなかなかサクヤに頼られる機会が少なく、物足りないほどであるぞ」


 優しく細めた目が容易く想像できそうな、ドラゴンのダンディな声音であった。

 その温かな身に触れることのできない咲弥は光のカーテンを小突いてから、赤い顔をしたチコに向きなおる。チコは全身を火照らせていたが、目の焦点は定まっていた。


「ではでは、身を清めましょう。まずはこのタオルにボディソープを垂らして、泡立てるんだよぉ」


「わあ、ぷくぷくなのです! ぜつめーしたデザートリザードがはきだす、あぶくみたいなのです!」


「うんうん。趣のある表現だねぇ」


 チコは咲弥の手本を見習いながら、泡立てたタオルをわしわしと手足にこすりつける。その紫色の瞳が、じょじょに明るく輝いていった。


「あわあわのぷくぷくで、なんだかたのしーのです! これでからだがきれーになっているのです?」


「うん。原理は砂浴びと大差ないんじゃないかなぁ。細かい粒子の摩擦で垢を落としてるんだと思うよぉ」


「なるほどなのです! すなあびはきもちいーですけれど、このぷくぷくもきもちいーのです!」


 チコの無邪気な笑顔が、咲弥の胸を深く満たしてくれた。

 しかし次なるは、洗髪の儀である。生まれて初めての入浴であれば、こちらのほうが難易度は高いはずであった。


「このシャンプーってのは、ちょっと目にしみるからさぁ。あたしが頭を洗ってあげるから、チコちゃんはぎゅーっと目を閉じててねぇ」


「りょ、りょーかいなのです! サクヤさまのおてをわずらわせてしまい、きょーしゅくのいたりなのです!」


 チコは固くまぶたを閉ざしたのち、さらに両方の手の平で目もとをガードした。

 そうして咲弥が洗髪を開始すると、チコは床に投げ出した小さな足をじたばたと動かした。


「サ、サクヤさま! ちょっぴりおめめがじんじんするのですー!」


「ごめんごめん。うつむくより、頭を後ろに倒したほうが楽かなぁ」


「こ、こうなのです?」


「うん、そうそう。手早く終わらせるから、もうちょっとだけ辛抱しててねぇ」


 咲弥は爪を立てないように気をつけながら、泡にまみれたチコの猫っ毛をひっかき回した。

 実のところ、他者の頭を洗うなどというのは、咲弥にとっても初めての体験である。咲弥には二歳年少の弟がいたが、親の方針で一緒に入浴したことはなかった。


(まあ、チコちゃんは妹って年じゃないけど……ていうか、実年齢はあたしと変わらないぐらいなんだっけ)


 見た目は五歳児、実年齢は二十歳前後という、実に愉快な存在であるのだ。まあ何にせよ、他人の世話を焼くことが少ない咲弥には、貴重な体験であった。


「よしよし。それじゃあ、泡を洗い流すよぉ。そのままお顔を上げておいてねぇ」


 チコの頭に風呂桶の湯を浴びせて、ようやく洗髪の儀は完了であった。

 チコは動物のようにぷるぷると頭を振って水気を払ってから、「ふひー」と可愛らしく息をつく。


「なんだか、ふしぎなここちだったのです……でも、すっきりさっぱりしたようなここちなのです!」


「うんうん。それじゃああたしも頭を洗っちゃうから、お湯にでも入って待っててねぇ」


「りょーかいなのです! サクヤさまのごしんせつに、あつくあつくおんれいをもーしあげるのです!」


 チコはにこりと無垢なる笑みをたたえてから、七色にきらめく温泉に舞い戻った。

 咲弥はアップにまとめていた髪をほどき、湯で湿してからシャンプーをワンプッシュする。そうして自分の頭をかき回していると、いきなり耳もとに妖艶なる声を吹きかけられた。


「あんたはコメコ族を、家族みたいに扱うんだねェ。あいつらはこっちの世界で、獣も同然の最下層の存在と見なされてるんだよォ?」


「……それは、魔力ってもんを扱えないからなんでしょ? あたしだってそんなもんは扱えないんだから、ご同類だねぇ」


「ふふん。あんたは人間族なんだから、修行次第なんじゃないかねェ」


「そうだとしても、チコちゃんたちを見下す理由なんてないからさァ。大事なのは、人柄でしょ?」


 咲弥は目を開くこともままならないので、とりあえず笑っておいた。


「そういうスキュラさんだって、チコちゃんたちを見下したりはしてないんじゃないの? スキュラさんがそんな意地悪だったら、あたしだって仲良くなりたいとは思えなかっただろうしさぁ」


「ふん。人間族の小娘が、このスキュラ様の内心を見透かそうってつもりかァい?」


「そんなつもりはないけど、相互理解には努めたいところだねぇ。……ひゃー」


 咲弥がおかしな声をあげたのは、冷たい指先で首筋を撫でられたためであった。


「スキュラ殿、このように無防備な人間に悪戯を仕掛けるのは、倫理的にどうかと思いますぞ」


「そんなもん、魔族がわきまえてるわけないだろォ」


 笑いを含んだスキュラの声が、遠ざかっていく。

 咲弥は苦笑を浮かべつつ、頭の泡を洗い流した。


「あー、さっぱりした。……お次はアトルくんともこの喜びを分かち合いたいんだけど、どうしたもんだろうねぇ?」


「うむ。そちらはチコに任せては如何であろうか? 兄妹であれば、裸身をさらしても不都合はあるまい」


「はいなのです! アトルとは、いつもいっしょにすなあびしているのです! アトルにも、あわあわのぷくぷくをあじわってほしいのです!」


 ということで、今度は咲弥が湯に浸かり、洗い場のスペースそのものが光のカーテンで遮断されることになった。

 スキュラは再び小山の天辺に腰を落ち着けている。チコたちがはしゃぐ声を背後に聞きながら、咲弥は存分に弛緩した。


 と――そんな咲弥の視界の端で、何か小さな影が蠢く。

 そちらを振り返った咲弥は、きょとんと目を丸くすることになった。温泉の外の石柱の影に、見るも愛くるしい存在たちが顔を覗かせていたのである。


「えーと……あの新たなモフモフたちは、何かしらん?」


「あれなるは、アルミラージモドキの異名で知られる一角ウサギであるな。魔族たるアルミラージに擬態した、森の獣である」


 アルミラージ――それは咲弥の見知らぬ存在であったが、石柱の影で鼻をひくつかせているのは額にユニコーンのような角を生やした、ウサギの群れに他ならなかった。


「あの角では他者を傷つけることもままならぬし、そもそも一角ウサギはきわめて温和な獣である。そばに寄せても、危険なことはあるまいぞ」


「それは何よりでございます。……キミたちも、温泉を楽しみに来たのかなぁ? よかったら、ご一緒しない?」


 咲弥が手招きをすると、一角ウサギの一体がとぷんと温泉に飛び込んだ。

 それに続いて、残りの者たちも次々に飛び込んでくる。そうしてちゃぷちゃぷと犬かきをしながら、一角ウサギの群れが咲弥のもとに近づいてきたのだった。


「うひゃー。濡れちゃったからモフモフも台無しだけど、これはなかなか反則級のかわゆさだねぇ」


 近くで見ると、それらの一角ウサギは咲弥の知るウサギよりもずんぐりとした体型で、丸っこい毛の塊に長い耳と角が生えのびているような風情であった。

 しかし、つぶらな瞳はウサギそのものであるし、鼻をひくつかせる仕草も愛くるしくてならない。みんな淡い灰褐色の毛並みで、数は五体にも及んだ。


「アルミラージモドキかよ。そいつは見た目のわりに食うところが少ねーし、肉におかしな臭みがあるんだよなー」


 と、ひさかたぶりにケイの声が響きわたる。

 咲弥は「そうかそうか」と笑みくずれつつ、一角ウサギの一体を胸もとにかき抱いた。濡れて毛並みがぺったりしても丸々とした体型であるため、愛くるしさに不足はない。そして、鋭く尖った額の角は、軟質ゴムのような質感であった。


「ではでは、食べずに愛でるといたしましょう。おお、キミはめんこいねぇ。それに、人懐っこいんだねぇ」


「そもそもそちらの一角ウサギは、人間族と遭遇したのも初めてなのであろうな。獣としては高い知能を持っているので、サクヤは敵ではないと見なしたのであろう」


「ふん。呑気な顔をさらしてるから、なめられてるんじゃねーの?」


「それで仲良くできるなら、呑気にすごしてた甲斐があったなぁ」


 咲弥が背中を撫でると、一角ウサギは心地よさそうに目を細める。そして、咲弥の周囲をぷかぷかと浮かぶ四体の一角ウサギも、われもわれもとばかりに身を寄せてきた。


「ひゃっほー。ハーレム状態だぁ。次はモフモフの状態のときに仲良くさせてほしいなぁ」


「ふん! てめーは毛が生えてりゃ、なんでもいいってこったな!」


「おやおや? 思わぬライバルの登場で、ケイくんに焦りが生じましたかな?」


「誰がだよ!」というわめき声に、ざぷざぷという水の跳ねる音が重なる。

 ケイがどのような具合に暴れているのかを想像するのは、楽しい心地であったが――それと同時に、一抹の寂寥感が咲弥の胸に去来した。


「ねえねえ、ドラゴンくん。そのうち水着でも準備してくるから、そうしたら一緒に温泉を楽しもうねぇ」


「うむ? そのようなものを着用していたら、身を清めるのに手間ではなかろうか?」


「それはその通りだけど、やっぱ別々は寂しいからさぁ」


 光のカーテンの向こうで赤い影がゆらめき、それに続いて「左様であるか」というダンディな声が響く。それはやっぱり優しく細められた目がありありと想像できる声音であった。


 しかしその身に触れることはかなわないので、咲弥は一角ウサギのふくふくとした体を抱きすくめる。

 かくして、七首山における初めての温泉タイムはつつがなく終わりを迎えたのだった。

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