02 温泉巡り
それから、数時間後――咲弥は再び、軽ワゴン車で七首山を目指していた。
たとえドラゴンが発見した温泉が使用に耐えうるものだとしても、こちらには何の準備もなかったので、いったん帰宅するしかなかったのだ。
祖父の遺してくれた家に帰りついた咲弥は、まず昨日提出した仕事のレスポンスを確認した。そちらに手直しが必要であったら、キャンプの日取りも変更を余儀なくされるのだ。
果たして、仕事の発注主たる元先輩からは『オールオッケーだよー!』という温かなメールが届けられている。咲弥は「よっしゃ」と小さくガッツポーズを作ってから、キャンプの準備を整えることにした。
取り急ぎ、昨晩使用した食器類や調理器具を洗浄して、あらためてコンテナボックスに積んだのち、逸る気持ちを抑えてディスカウントストアを目指す。温泉を楽しむために、いくつかの品を買いそろえる必要があったのだ。
それらの物資も車に詰め込んで、咲弥はいざ山道を辿っている。
二日連続でキャンプに向かうというのは初めての行いであり、上手くいけば連泊も実現する。咲弥の胸は、時間が経つごとに高鳴りを増していた。
そうして、もっとも手近な空き地に到着すると、そこにはすでにお馴染みの面々が待ち受けている。朝方に別れたばかりの、ドラゴンとケルベロスと亜人族の兄妹だ。アトルとチコはきらきらと瞳を輝かせており、三者三様の面持ちをしたケルベロスもぱたぱたと尻尾を振っていた。
「お待たせぇ。チコちゃんたちも、お仕事は大丈夫だったかなぁ?」
「はいなのです! さいきんはおいしーしょくじのおかげで、しゅーらくのみんなもげんきいっぱいいっぱいなのです!」
「だからぼくたちは、はたけのおしごとをがんばりなさいといわれたのです! はたけのおしごと、がんばってきたのです!」
頬を火照らせた兄妹に続いて、ドラゴンも発言した。
「昨日、釣り竿の準備のために集落におもむいた際、我もひさびさにコメコ族の長老と言葉を交わすことになった。こちらが報酬として与えている食材の滋養によって、コメコ族はさらなる活力を授かることができたようだ」
「ほうほう、それはおめでたいことだねぇ」
「うむ。それで、アトルたちの力がなくとも、集落の仕事に支障は出なくなったようであるな。なおかつ、空いた時間はサクヤをもてなすようにと言いつけられたとのことである」
「はいなのです! サクヤさまとごいっしょできて、うれしーうれしーなのです!」
「サクヤさまとおあいできないひは、しゅーらくのおしごともがんばるのです! サクヤさまとおあいできるひにも、はたけのおしごとをがんばるのです!」
咲弥は懸命に自制をして、二人のふわふわの頭を撫でるに留めた。
二人も逃げるのを我慢して、幸せそうに「あうあう」という声をもらす。これにて、両名とのコミュニケーションは円満に完了した。
「それじゃあ、ドラゴンくんたちは? 見回りのお仕事は、もう終わったの?」
「うむ。山の調和は長らく保たれているので、見回りの役目もさしたる手間ではない。サクヤが帰宅している間に、滞りなく完了した」
咲弥は片道四十分のディスカウントストアにまで出向いていたし、あれこれ雑用を片付けてきたので、トータルで三時間ぐらいは経過しているのだ。現在は、ちょうど正午に差し掛かろうかという刻限であった。
「では、温泉の検分に参るか。我の背中に乗るがいい」
ドラゴンの魔法で軽ワゴン車を亜空間に封印したならば、いざ空の旅である。
二日連続でこの幸せを味わえるというのは、なんとも贅沢な話であった。
「向かう先には、スキュラの分身も控えている。温泉とはいえ半分がたは水の精霊の領分であるため、やはりスキュラに了承を得る必要があるのだ」
「半分がた? 全部ではなくて?」
「うむ。地熱で温められた温泉は、大地の精霊の領分でもあるのだ。大地の精霊はおおよそ我の支配下にあるので、心配は無用である」
そのように語りながら、ドラゴンはいつも以上の勢いでぐんぐんと天空を翔けていく。
アトルとチコのはしゃぎっぷりに隠されていたが、ドラゴンも気持ちを浮き立たせているのだろうか。そんな風に考えると、咲弥はますます楽しい心地になってしまった。
そうして到着したのは、西から数えて三番目の峰の中腹――山頂の近くには洞穴の宝物庫が存在する峰である。かつてキャンプを楽しんだ場所の足もとに、温泉が隠されていたわけであった。
「この峰には、三種の源泉が存在する。その中に使用の条件に合致する場所はあるか否か、しかと検分してもらいたい」
そのように語りながら、ドラゴンは地上に向かって滑空した。
それにつれて、嗅ぎなれない香りが咲弥の鼻腔を刺激してくる。どこか鉄臭い香りであるが、温泉らしいと言えなくもなかった。
「ああ、やっと到着かァい。まったく、面倒をかけてくれるねェ」
ドラゴンがいくぶん開けた場所に舞い降りると、どこからともなくスキュラの分身が登場した。
水晶のようにきらめく水色のロングヘアーを腰まで垂らした、妖艶なる女の魔族である。その抜けるように白い肌も、髪と同じ色合いをした瞳も、色香に満ちた皮肉っぽい微笑みも、昨日見た通りのものであった。
「しかも、わざわざ熱い湯に浸かりにきたんだってェ? ああ、嫌だ嫌だ。この山にはあちこちに川の流れが行き渡ってるのに、どうして好きこのんで熱い湯なんかに浸からないといけないのさァ?」
「この寒さで冷たい水に浸かると、あたしは風邪をひいちゃうからねぇ。温泉を楽しむ許しをくれて、どうもありがとぉ」
咲弥がのんびり笑顔を届けると、スキュラは「ふん」とそっぽを向いた。
「熱い湯なんざ、半分がたは竜王の支配下さァ。でもまあ半分はあたしの領分だから、あんたたちが悪さをしないように見張らせていただくよォ」
「うんうん。こっちも大事なお山を汚さないように気をつけるから、何か落ち度があったらご指摘をよろしくねぇ」
そんな風に答えながら、咲弥は他なる面々を見回した。
ケイはむっつりと押し黙っており、アトルとチコは不安げな面持ちでおたがいの身に取りすがっているが、昨日に比べるとスキュラに対する警戒心もずいぶん薄まったようである。それでこそ、半日の時間をともにした甲斐があったというものであった。
「ではまず、最初の温泉を検分させていただこう。温泉は、この茂みの向こう側である」
ドラゴンに言われるまでもなく、茂みの向こう側からは強烈な刺激臭が感じられた。
そうして異界の花が咲き乱れる茂みをかき分けて、向こう側を覗き込んでみると――思わぬ光景が、咲弥の目に飛び込んできた。
一転して、茂みの向こう側は岩場である。
ほとんど漆黒に近い岩場が、延々と続いている。そしてそこには、もうもうと湯気がたちのぼっており――そしてさらにその奥には、どろりとした赤い色彩が見て取れた。
岩場のあちこちに、湯が溜まっている。
しかしそれらは血のように赤く、ごぽごぽと激しくあぶくを立てているため、火口の溶岩さながらであった。
「えーと……あそこに浸かったら一瞬で骨になりそうな雰囲気だけど、そんなことはないんだよねぇ?」
「うむ。湯の温度は四十度といったところであろう。源泉に含まれる成分の作用であのように泡立っているが、人間族にも亜人族にも害がないことは解析済みである」
「にゃるほど。まあ、赤い温泉ってのはこっちの世界にもあちこちあるはずだからねぇ。それにしても、これはなかなかのインパクトだなぁ」
おそらくは、黒い岩肌と絶え間ないあぶくと強烈な鉄臭さがそういう印象を強めるのだろう。これこそ、地獄温泉の名に相応しい様相であった。
「で、でも、このにおいはたいへんなのです。おはなが、いたいいたいなのです」
「わ、わたしはおめめもいたいいたいなのです」
と、アトルとチコは両手ではさみこむようにして小さな鼻をふさいでいる。そしてどちらも、涙目になってしまっていた。
「うん。あたしもちょっと、長時間はしんどいかもなぁ。他に候補があるなら、そっちも拝見させてもらえる?」
「もとより、そのつもりである。では、移動するので背に乗ってもらいたい」
咲弥たちは、再びドラゴンの温かな背中にお邪魔する。
しかしスキュラは腕を組んで立ち尽くしているので、ドラゴンがそれを見下ろした。
「ああ、其方は水場に分身を生み出せるのであったな。では、またそちらで」
スキュラは無言で、肩をすくめる。それを尻目に、ドラゴンは低空飛行をした。
火口のごとき温泉を足もとに、ドラゴンは飛行する。鉄臭い蒸気に包まれると、アトルとチコは「ひゃー!」と悲鳴をあげた。
しかし、そんな苦難はすぐに過ぎ去って、異臭は後ろに遠ざかっていく。
山肌に沿って数分ばかり飛行すると、ドラゴンはゆるやかに着地した。
「さして距離は離れていないが、温泉というのは周囲の土壌によって性質を左右されるようであるな。こちらの温泉には、さきほどとまったく異なる成分が含まれている」
確かにそちらは、暗灰色の岩場であり――そして、そこに湧いているのはエメラルドグリーンの湯であった。
まるで南国の海のように、水面が照り輝いている。先刻の血の池地獄とは打って変わった美しさに、チコも「きれーなのですー」とうっとりつぶやいていた。その場に満ちているのも、咲弥にとって馴染み深い硫黄の香りである。
「おー、これは確かに綺麗だねぇ。温泉らしい匂いだしさぁ」
「うむ。これなるは、サクヤの世界で言うところの硫黄泉に該当するようであるな。ただし、湯温はいささか低く、三十度ていどであろう」
ぬるめの温泉も、趣があるものである。が、体温よりも低いとなると、この季節に使用するのは厳しいかもしれなかった。
「夏場だったら、うってつけかもねぇ。候補は、あとひとつだったっけぇ?」
「うむ。最後の候補は、先刻と同じく四十度ていどであったな」
「そっかぁ。そんじゃ、とりあえずそっちを拝見したいなぁ」
すると、どこからともなく出現したスキュラの分身が皮肉っぽい声をあげた。
「なんだ、もう移動かァい? まったく、振り回してくれるねェ」
「世話をかけて、恐縮であるな。次の地には、徒歩で移動しようかと思う」
「だったら、そっちで待ってるよォ。ああもう、暑苦しいったらありゃしない」
スキュラはふわりと身をひるがえして、横合いの茂みの向こうに消えていった。
こちらの一行はエメラルドグリーンの水面を横目に、岩肌に沿って移動する。やがて出現したのは、温泉ならぬ洞穴であった。
「次なる温泉は、この奥に存在するのだ。よって、徒歩で向かう他ない」
ドラゴンは真紅の輝きをほとばしらせて、大型犬サイズに縮んだ。
いっぽうケルベロスも黒い竜巻に包まれて、三体に分裂する。こちらの洞穴は出入り口が狭苦しく、ドラゴンもケルベロスも本来の姿ではつかえてしまいそうであったのだ。
ドラゴンが青白い鬼火を生み出してくれたので、それを頼りに洞穴を進む。
すぐに天井は高くなったが、宝物庫として使用されている洞穴よりは入り組んだ場所であるようだ。あちこちに石のつららが垂れ下がり、鍾乳洞と呼ぶに相応しい様相であった。
「通常は同じ山で種類の異なる源泉が湧くことは、なかなかありえないようであるな。やはり二つの世界を融合させたことで、地層にもさまざまな変化が及んだのだろうと推察される」
「うん、そっか。ドラゴンくんは、こんなお山の隅々まで見回ってたんだねぇ」
「否。我はまず、探知の術式でもって山の全容を把握したのだ。その後は、二つの世界の融合によって不和が生じそうな場所を見回っているに過ぎん」
そう言って、ドラゴンは青白い輝きの中で目を細めた。
「よって、この洞穴に足を踏み入れたのも、これが初めてのこととなる。サクヤとともに目新しい場所を巡るというのは、我にとっても大きな喜びである」
「うんうん。これからも、一緒にこのお山の楽しさを味わい尽くそうねぇ」
咲弥が充足した心地で微笑むと、ドラゴンもいっそう嬉しそうに目を細めてくれた。
そうして数分ばかりも歩を進めると、目の前に岩盤が立ちはだかる。
道は、右手の側に続いているのだ。それで咲弥が何の気もなしに、そちらへと向きなおると――まったく想像していなかった光景が目前に広げられた。
「きゃー! ぴかぴかのきらきらなのですー!」
チコの驚嘆の声が、鍾乳洞にわんわんと反響する。
そちらもまさしく、鍾乳洞らしい様相であったが――そちらは周囲の岩盤が、水晶のように七色の輝きを発していたのだった。




