04 レッツ・フィッシング!
設営は、無事に完了した。
時間を確認してみると、まだ午後の二時前である。これならば、存分に釣りを楽しめるはずであった。
「まだ火起こしには早いから、とりあえずお米を水に漬けておくねぇ」
キャンプギアとともに預けていた米袋と兵式飯盒および二組のメスティンを、作業台たる『祝福の閨』に並べていく。ウォータージャグにはあらかじめ水を汲んでおいたので、『ウンディーネの恩寵』のお世話になる前にそちらを使うことにした。
「……っと、スキュラさんはどうだろう? 一緒に食べるなら、お米の準備をしておくよぉ」
「ふん。あたしは川の恵みさえ口にできれば、満足だよォ。それだって、あんたたちの手を借りる必要はないしねェ」
「左様でありますか。じゃ、お米は気が向いたらということで」
どっちみち、兵式飯盒とメスティンでは合計八合、炊き込みご飯であれば六・五合が限界であるのだ。咲弥はその場の思いつきで、本日も炊き込みご飯を作りあげることに決定した。
前回と今回だけで、米は合計十三合を使う計算になる。五キロ入りの無洗米も、すでに残りは五分の三といった見当であった。
(チコちゃんたちが準備してくれる食材のおかげで、ずいぶん食材費は楽になったけど……米だけは、自前で準備するしかないもんなぁ)
ちなみに本日は、常備しているタマネギとニンニクと鯖缶しか食材を持ち込んでいない。釣りがボウズで終わったならば、それらと異界の食材だけで夕食を作りあげる所存である。それでもドラゴンたちをがっかりさせない自信はあったものの、できれば川魚を使って豪勢な献立を目指したいところであった。
「よし、お米の準備も完了だぁ。それじゃあ、レッツ・フィッシングだねぇ」
咲弥は愛車から、ふた振りの釣り竿と小物類が収納されたポーチを引っ張り出した。
それを見たスキュラが、また「ははん」と鼻を鳴らす。
「いちおう聞いておくけど、あんたはその貧相な道具で川の恵みを収獲しようって魂胆なのかァい?」
「そうだよぉ。何か、問題でも?」
「さあて、どうかねェ」と、スキュラは剥き出しの白い肩をすくめる。
いかにも意味ありげな物言いであるが、それを説明する気はないようだ。であれば咲弥も、無理に聞きほじる気にはなれなかった。
「じゃ、川のほうに移動しよっかぁ。アトルくんとチコちゃんは、自分たちの椅子をお願いねぇ」
「りょーかいなのです!」と、亜人族の兄妹はそれぞれ丸太の椅子を抱え上げる。前回のキャンプで、ケルベロスが切り分けた品だ。咲弥のローチェアと釣果を収納するバケツは、ドラゴンが尻尾で運んでくれた。
小石の川辺にそれらを設置して、お次は釣り竿のセッティングである。
咲弥はアトルとチコの両名に、それを教示することにした。
「まずはこのリールからのばした釣り糸を釣り竿の先端に通して、仕掛けの鉤に結ぶんだよぉ。結ぶのがけっこうややこしいから、実践しながら教えるねぇ」
「ひゃーっ! たしかに、ややこしーのです!」
アトルはそんな風に言っていたが、そのちんまりとした指先はなかなか器用に咲弥の動きを真似ていく。どうやら十歳の頃の咲弥よりは、よほど器用であるようだった。
「もともとじっちゃんは一本しか釣り竿を持ってなかったから、あたしのためにそいつを買い足してくれたんだよねぇ。だから、壊れるまでは使ってあげたくてさぁ」
「こちらは、トシゾウさまのおくりものだったのですね! いのちにかえても、ししゅするのです!」
「いやいや。さすがに命を重んじてよぉ。……うんうん、それでバッチリだねぇ。そしたら、仕掛けに餌をつけるの。今日の餌は、イクラでございます」
咲弥がポーチから餌用イクラのケースを取り出すと、チコが「わあ」と瞳を輝かせた。
「あかくてきらきらしてて、とってもきれーきれーなのです! まるで、ほーせきのようなのです!」
「こいつは、魚の卵だよぉ。こいつをこう、釣り針にぷすっと刺しておくのさぁ」
「なるほどなのです! デザートリザードをつるときは、キャメットのけをむすんでおくのです! するとキャメットのにおいにひかれて、デザートリザードがくいつくのです!」
「ほうほう。どんな大物でも、アトルくんたちだったら釣り上げられそうだねぇ」
そうして咲弥たちが準備するさまを、ドラゴンとケルベロスとスキュラが無言で見守っている。そちらに向かって、咲弥は笑いかけた。
「よかったら、あとでドラゴンくんたちもチャレンジしてみてねぇ。竿を振るのが難しそうだったら、そこまではあたしが受け持つからさぁ」
「はい。恥ずかしながら、私は釣りというものをよくわきまえておりませんので、まずは見学させていただきます」
ルウは慇懃に頭を下げたが、ケイはうろんげな表情、ベエはいつも通りの陰気な面持ちだ。咲弥としても、ドラゴンやケルベロスが釣りに興じる姿というのは、あまり想像がつかなかった。
(でもケルベロスくんは、鯖缶を美味しそうに食べてたもんな。大物を釣り上げたら、きっと喜んでくれるさ)
そうしてセッティングが完了したならば、いよいよ釣りの開始である。
咲弥が釣り竿の扱いを手ほどきすると、アトルがスイングさせた釣り竿から糸がのびて、重りと釣り針がついた仕掛けが着水した。
「おー、うまいうまい。……あれ? この段階で、糸が張ってるねぇ。リールを逆に巻いて、糸をのばしてみてくれる?」
「こ、こうなのです?」
「うん、そうそう。……ああ、やっと糸がたわんだ。これが、重りが川底についた合図だよぉ。そしたら今度はリールを巻いて、ちょっとだけ重りを浮かせるの。流れのゆるい川底で、重りから先の糸と釣り針をふよふよ漂わせるイメージだねぇ」
アトルにそんな説明をしてから、咲弥はドラゴンに向きなおった。
「ねえねえ。以前より、川が深くなったような気がするんだよねぇ。これってやっぱり、そっちの世界と合体した影響なのかなぁ?」
「うむ。その可能性は、大いにあろうな。川が深いと、釣りに不都合であろうか?」
「いや、このていどの差だったら、要領に変わりはないと思うよぉ。もともと川の深さなんて、一定じゃないしねぇ」
今のところは釣り糸が流されている様子もないし、重りのサイズにも問題はないだろう。それを確認してから、咲弥はチコのほうを振り返った。
「じゃ、チコちゃんはこっちの竿でどうぞぉ。あの大きな岩の手前あたりが、いいポイントだと思うよぉ」
「は、はいなのです! ……でも、サクヤさまのおたのしみをうばってしまうのは、きょーしゅくのいたりなのです!」
「時間はたっぷりあるんだから、何も遠慮することはないさぁ。みんなで順番に、交代で楽しもうよぉ」
咲弥が笑いかけると、チコも嬉しそうにはにかみつつ釣り竿を受け取った。
そしてアトルと同じように、綺麗な山なりの軌跡が虚空に描かれる。やはり、デザートリザード釣りの経験がしっかり活かされているようであった。
「よしよし。あとは魚がかかるのを待つばかりだねぇ。座って、のんびり待ちましょう」
咲弥はローチェアに、アトルとチコは丸太の椅子に腰をかけた。
二本の釣り糸を投じられながら、川面は変わらず銀色にきらめいている。一瞬として同じ形には留まらない、大自然の織り成す幾何学模様だ。黒く陰った樹林を背景に、川面は果てしなく美しかった。
みんなが口を閉ざすと、さわさわとしたせせらぎの音色が鼓膜をくすぐってくる。
三月初旬の山はまだまだ肌寒いが、今日は快晴であるために日差しの温もりが心地好かった。
冬を除くシーズンは、咲弥もしょっちゅう祖父と釣りを楽しんでいたのである。
山では他に為すべきことも少ないし、釣果をあげれば食費の節約にもなる。そして何より、釣りというのは咲弥と祖父の気性に合う遊びだった。
咲弥はその頃と同じ安らかな心地を抱きながら、重りの動きを見るでもなしに目で追いかける。
一分が過ぎ、三分が過ぎ、五分が過ぎ――そこでついに、ケルベロスのケイが声を張り上げた。
「おい! まさか、このままずっと魚がくいつくのを待つだけなのか!?」
「うん、そうだよぉ。あまりに釣れないようだったら、場所を移動するけどねぇ」
「なんだよ、そりゃ! だったら、川にもぐって捕まえたほうが、よっぽど手っ取り早いじゃねーか!」
ケイのそんな言葉に、ドラゴンが「ふむ?」と小首を傾げた。
「川にもぐって魚を捕獲するというのは、我にとっても難儀な所業である。ケルベロスには、そのような真似が可能なのであろうか?」
「……川にもぐるってのは、言葉のあやだよ。でも、川に雷撃でもくらわせれば、一発だろ?」
咲弥は誰よりも早く、「いやいや」と手を振った。
「それはあまりに乱暴だよぉ。あたしの暮らしてる国では、基本的に電気漁も禁止されてるはずだしねぇ」
「うむ。それでは周辺の生き物に悪い影響を与える恐れもあろう」
「少なくとも、あたしが息をしている間はそんな真似を許さないよォ」
ドラゴンとスキュラが言葉を重ねると、ケイは「なんだよー!」とすねた声をあげた。
「そんなよってたかって文句をつけることねーだろ! てゆーか、スキュラまでそこにまざるんじゃねーよ!」
「本来は、あたしが真っ先に文句をつける立場だろォ? すっかり先を越されちまったけどさァ」
スキュラは咽喉で笑いながら、咲弥とドラゴンの姿を見比べてくる。
「それにしても、そっちの小娘が新たな主人になってから半月ていどって話なんだろォ? そのわりには、ずいぶん息が合ってるもんだねェ」
「うむ。我とサクヤは、もとより同調する部分も多いのであろう。トシゾウとて、それは同様であったからな」
そのように語るドラゴンはむやみに誇らしげで、咲弥は何だか胸が詰まってしまった。
そしてその間も、アトルとチコは真剣な眼差しで水面を見据えている。しかし、釣り糸に動きは見られなかった。
「うーん。まだまだ音をあげるには早いけど……やっぱ三月に入ったばかりだと、魚も少ないのかなぁ?」
「否。軽く走査してみたが、こちらの川には多数の魚がひそんでいるようであるぞ」
「そっか。じゃ、餌の効果はどうなんだろ。二つの世界がひっついた影響で、食の好みが変わったりすることもあるのかなぁ」
「それは、判別が難しいところであるな。ひとつずつ、自分で確かめていくしかあるまい」
「うんうん。のんびり楽しみながら、確かめていきますかぁ」
アトルとチコは真剣なあまりに気疲れしてしまいそうだったので、十五分が経過したところで咲弥が一本の釣り竿を受け持つことにした。
自由の身となったチコはほっと息をつき、子猫のように丸めた手で目もとをもみほぐす。コメコ族とやらは生業としてデザートリザード釣りに励んでいるので、このような際にも遊びと割り切るのが難しいのかもしれなかった。
気づけばケルベロスは地面に伏せており、左右の首がすやすやと寝入ってしまっている。真ん中の首のルウだけはきりりとした面持ちで川面を見やっており、スキュラはにやにやと笑いながらずっと立ち尽くしていた。
咲弥は何度か竿を振りなおしてみたが、やっぱり反応は見られない。
そうしてついに三十分ほどが経過して、そろそろスポットを移動させようかと考えたとき――アトルが「あっ」と声をあげた。
「サ、サクヤさま! いま、つりざおがひっぱられたようなかんじがしたのです!」
「おー、ついにアタリがきたかぁ。そしたらさっき説明した通り、竿を倒してフッキングを――」
と、咲弥がそちらに向きなおると、アトルの姿がかき消えた。
そして、アトルの「ひゃーっ!」という声がものすごい勢いで遠ざかっていく。アトルの小さな体は川辺の小石を跳ね上げながら、川に沿って高速移動しているさなかであった。
釣り竿にかかった何かが、アトルごと逃げようとしているのだ。
咲弥のかたわらでくつろいでいたドラゴンがばさりと大きな翼を広げたが、それよりも早くケルベロスが地を蹴ってアトルを追いかけた。
黒い弾丸のような勢いでアトルに追いついたケルベロスが、左の首でポンチョのフードをくわえこむ。それでも水中の何かが抵抗したため、釣り竿と釣り糸がぴんと張り詰めた。
「馬鹿野郎! とっととそいつを、離しやがれ!」
「で、でもこれは、サクヤさまのたいせつな――うきゃー!」
と、アトルはケルベロスもろとも、後ろざまにひっくり返った。
釣り糸が、ぷつりと断ち切られたのだ。咲弥は大急ぎで自分の釣り竿を引きあげて、ドラゴンやチコと一緒に駆けつけた。
「ア、アトル、だいじょーぶなのです? いたいいたいなのです?」
「ぼ、ぼくはだいじょーぶなのです。ケルベロスさまのおかげで、きゅーしにいっしょーをえたのです」
釣り竿を両手で抱え込んだアトルは川辺にひっくり返ったまま、チコに笑顔を返す。しかし、切れた釣り糸がぷらんと頭上に垂れさがると、たちまち「きゃー!」と悲鳴をあげた。
「い、いとがきれてしまったのです! サクヤさまのだいじなしなを、こわしてしまったのです!」
「そんなの、気にすることないよぉ。それよりほんとに、ケガとかは大丈夫?」
咲弥はその場に膝をついて、アトルの姿を覗き込む。
半身を起こしたアトルはうるうると目を潤ませながら咲弥を見返してきた。
「で、でもこれは、トシゾウさまからのたいせつなおくりものなのです。ぼくはサクヤさまのしんらいをうらぎってしまったのです」
「そんなことないってば。こんなに頑張ってくれて、ありがとね」
咲弥が紫色の頭にぽんと手をのせると、アトルは「うー」とぽろぽろ涙をこぼしてしまった。
大役を果たしたベエは深々と息をつき、いっぽうケイは険悪な形相でスキュラに向きなおる。スキュラはのんびり歩いてこちらに合流したところであった。
「おい! 今のは、何なんだよ! 魚ごときがあんな力を持ってるなんて、おかしいだろ!」
「文句だったら、竜王に言っておくれよォ。こいつがおかしな真似をするまで、あんなもんはこの世に存在しなかったんだからさぁ」
「では……あれは世界の融合によって生まれた、新たな種ということであろうか?」
ドラゴンが真剣な眼差しで反問すると、スキュラは「そういうこったねェ」と唇を吊り上げた。
「あいつはとにかくよく食うから、あたしは『大喰らい』って呼んでるよォ。あんまりうじゃうじゃ増えるようだったら他の連中の迷惑になるんで、始末するしかないところけど……ま、今のところは様子見だねェ。あんたたちも、好きにするといいさァ」
「なるほど……それが山の調和を乱す恐れがあるというのなら、一体だけでも捕らえて検分する必要があろうな」
ドラゴンが真剣な声でつぶやくと、涙をぬぐったアトルがぴょこんと身を起こした。
「そ、それでしたら、ぼくがせきにんをもってつかまえるのです! サクヤさまのつりざおをこわしてしまった、せめてものおわびであるのです!」
「ふむ? しかし、釣り竿でもって捕獲することは、きわめて困難であるようだが」
「いえ! ぼくのつりざおをつかえば、きっとつかまえられるのです! ぼくのつりざおは、どんなにおおきなデザートリザードでもつりあげることができるのです!」
ドラゴンは、「左様か」と目を細める。
ドラゴンの優しい眼差しに見つめられながら、アトルはいつになく凛々しい面持ちになっていた。




