03 対峙
水妖スキュラはじろじろと無遠慮な視線で、咲弥を検分していた。
いっぽう咲弥も、負けじとスキュラの姿を検分している。
やはり、腰から上はきわめて美しい女の姿だ。髪や瞳が水晶のようにきらめいていること差し引けば、なんら人間と変わらない造作である。ただその分、腰から下が巨大ダコというインパクトが絶大であった。
その身には薄物ひとつを纏っているだけで、全身が濡れそぼっているために、女性らしい起伏にとんだシルエットが惜しげもなく人目にさらされている。淡い水色の髪は腰まで垂れており、快晴の日差しを浴びて妖しく美しくきらめいていた。
「……以前にも伝えた通り、この山の所有権はこちらのサクヤに継承された。よければ其方も、懇意にさせてもらいたく思う」
ドラゴンが厳粛なる響きを帯びた声でそう告げると、スキュラは白い腕を胸もとで組みながら「ふふん」と鼻を鳴らした。
「そんなもんは、この山を異界と融合させたあんたの都合だけどねェ。あんたがやってくるまでは、ずうっと気楽に過ごしてたってのにさァ」
「うむ。しかし其方も、異界との融合には同意したはずであるな?」
「そりゃああんたに逆らったら、あたしなんて一瞬で消し炭だろうからねェ。こっちに選択の余地なんてあるわけないじゃないのさァ」
スキュラは白い咽喉をのけぞらせて、挑発するように咲弥たちを見回してきた。
「で? 挨拶なんざ不要だって話だったろォ? どうして今になって、そんな小娘をあたしの前に連れ出してきたのさァ?」
「水の精霊を支配する其方に、願いたい儀があったのだ。どうか、サクヤと言葉を交わしてもらいたい」
「へえ。人間族の小娘が、このあたしに願い事ねェ」
と、スキュラはいっそう妖しく、口の片端を吊り上げる。血の気は薄いがつやつやと照り輝く肉感的な唇で、それがまた何割かの色香を付け加えていた。
「その割には、ずいぶん礼儀がなってないじゃないのさァ。そんな礼儀知らずと口をきく気にはなれないねェ」
「ふむ? 礼儀とは? サクヤは何も礼を失していないように見受けられるが」
「それじゃあ、無礼なのはあんたなのかねェ。あたしがここから一歩でも近づいたら、あんたの結界で弾き飛ばされちまうじゃないのさァ?」
ドラゴンは不意を突かれた様子で、「ああ」と首を揺らした。
「サクヤには、魔族の接近を防ぐための護符を預けている。しかしこの距離でも、言葉を交わすのに不都合はあるまい?」
「こっちにしてみりゃあ、刀の切っ先を咽喉もとに突きつけられてるようなもんさァ。けっきょくあんたは、あたしを力で支配しようって考えなのかァい?」
「否。決して、そういうつもりではないのだが……」
と、ドラゴンは溜息をついてから咲弥のほうに向きなおってきた。
「……サクヤよ。スキュラもケルベロスと同様に、結界の対象から外してもよかろうか?」
咲弥が口を開く前に、ケイが「おいおい!」と声を張り上げた。
「そんな話を、簡単に許すんじゃねーよ! 相手は、あのスキュラなんだぞ?」
「我がかたわらにある限り、サクヤに危険はない。それに、あやつの言い分はわからなくもないしな」
「だけど――!」と、ケイは焦った顔をする。
咲弥は精一杯の思いを込めて、その首を撫でることにした。
「ケイくん、心配してくれてありがとうねぇ。でも、ドラゴンくんが大丈夫って言うなら、きっと大丈夫だよぉ」
「あのなー! お前はだいたい、呑気すぎるんだよ!」
「あはは。それは否定しないけどさぁ。でもほら、ケルベロスくんのときだって、大丈夫だったじゃん?」
ケイは、小石でも呑み込んだかのように押し黙ることになった。
ケルベロスも咲弥に出会ってすぐ、退魔の結界とやらを解除されることになったのだ。そうして咲弥とケルベロスは、現在のような関係性を構築することがかなったのだった。
「では、スキュラに対する退魔の結界を、解除する」
ドラゴンは、尻尾の先端をひと振りした。
咲弥としては、特に何も感じない。しかし次の瞬間、しっとりと湿った白い腕がにゅるりと咲弥の首に巻きついてきた。
「ふうん。本当に、ただの小娘なんだねェ。どうして竜王がこんな小娘に目をかけてるのか、皆目見当もつかないよォ」
妖しい笑いを含んだ声が、咲弥の耳もとから響きわたる。
スキュラは咲弥の身にねっとりとしなだれかかり、肩を抱いているのだ。そのなよやかな肢体は、三月の外気よりも冷たかった。
「この、大ダコ野郎!」と、ケルベロスが臨戦態勢を取る。
するとドラゴンが、苦笑しているような眼差しで「待て」と止めた。
「これなるは、スキュラの影にすぎん。なんの魔力も帯びていないので、悪さをすることはできなかろう。……しかし、このような影を分身として扱えるのならば、結界を解く必要もなかったのではないか?」
「ははァん。結界なんざ張ってる相手と、口をきく気にはなれないからねェ」
咲弥の肩を抱いたまま、スキュラはくつくつと咽喉で笑った。
目の前の水面にも、同じ姿をしたスキュラがこれまで通りに存在している。咲弥にはさっぱりわけがわからなかったが、ドラゴンが落ち着いた顔をしているため慌てずに済んだ。
「それにしても……顔立ちだけは、一丁前だねェ。まさか火竜族のあんたが、人間族の美しさにたぶらかされたのかァい?」
などと言いながら、スキュラは白い指先で咲弥の頬を撫でてきた。
そのくすぐったさに耐えながら、咲弥は「うーむ」と腕を組む。
「いきなり抱きつかれるのって、けっこうなプレッシャーなんだねぇ。でもまああたしもみんなに悲鳴をあげさせた身だし、これが因果応報ってもんかぁ」
「ふふん。落ち着いたもんだねェ。ま、この分身にはあんたをくびり殺す力もないけどさァ」
そんな言葉とともに、スキュラはようやく咲弥の身を解放した。
それで咲弥は、あらためてスキュラと相対する。こちらのスキュラが纏った薄物は地面に広がるぐらい裾が長く、下半身がどうなっているのかも判然としなかった。
「で? あんたはいったい、あたしに何を願おうってのさァ?」
「ああ、そうだったそうだった。実はさぁ、川で釣りをすることを許してもらいたいんだけど、どうだろう?」
「釣り? つまり、川の恵みを腹に収めようって魂胆かァい?」
「うん、そうそう。みんなと一緒に釣りを楽しんで、それを今日の食事にしたいんだよねぇ。よかったら、キミも一緒に食べる?」
「ふん……人間族が、川の恵みをねェ……」
スキュラは皮肉っぽく笑ってから、剥き出しの白い肩をすくめた。
「承知したよォ。ただし、食べきれないほどの恵みを奪うのは許さない。それじゃあ、川の調和が保てないからねェ」
「もちろんさぁ。どうもありがとねぇ」
咲弥はスキュラに笑顔を返してから、他の面々に向きなおった。
すると、ドラゴンを除くメンバーは呆れた顔になってしまっている。あの沈着冷静なルウまでもが、驚きに目を見張っていた。
「んー? みんな、どうしたのかなぁ?」
「いえ……まさかあのスキュラが、人間族の申し出をそうまで易々と許すとは……」
「あのスキュラってのは、どういう言い草さァ? あんたこそ、都では災厄の権化なんて呼ばれてた身だろォ?」
「私は自ら戦いを仕掛けていたわけではありません。あなたこそ、人間族を忌み嫌っていたのでは?」
「ふふん。人間族は忌々しいけど、美しい娘は別口だからねェ」
と、スキュラはまた指先で咲弥の頬を撫でてきた。
咲弥は「うひー」と首をすくめつつ、そのくすぐったさに耐え忍ぶ。すると、ベエがうろんげな視線を向けてきた。
「サクヤは……何故にスキュラの手から逃げないのであろうか……?」
「うん。あたしもいつかまた、ケルベロスくんたちをハグしちゃうだろうからさぁ。自分ばっかり逃げるのは、筋が通らないっしょ?」
「なんだよ、それ! お前もこっちにひっつかなきゃいいだけだろ!」
「だって、ケルベロスくんのモフモフは魅惑的なんだものぉ」
咲弥が手をのばすと、ケイは「だーっ!」とわめきながら首を引っ込める。
その間も、スキュラはねっとりと咲弥の頬を撫で回していたが――ドラゴンは、妙に満足そうな眼差しでそのさまを見下ろしていたのだった。
◇
水妖スキュラから川釣りの許しを得た一行は、あらためて釣り場に移動した。
スキュラが住まっている水場は川の流れが激しすぎるし、咲弥は思い出のスポットの現状を確認しておきたかったのだ。
ただし、咲弥が知るルートは異界の樹木によってふさがれてしまったため、けっきょくドラゴンの飛行能力を頼ることになった。
山麓から一番近い空き地から、山肌に沿って西に数百メートルという咲弥のナビゲートで、ドラゴンはその地に降り立つ。いささか様子は変化していたが、そこにはまぎれもなく渓流が存在した。
「おー、ここだここだ。周りの風景はちょっと違ってるけど、ここがじっちゃんに教えてもらったスポットだよぉ」
咲弥がついついはしゃいだ声をあげると、ドラゴンは「左様か」と優しく目を細めた。
スキュラの前では静かにしていたアトルとチコは、「わあ」と瞳を輝かせている。こちらの川面も銀色に輝いて、大自然の渓流ならではの景観を完成させているのだ。先刻の水場では滝の威容が圧倒的であったが、こちらの川はゆったりと雄大な流れを見せていた。
川幅は、十メートルていどであろうか。山肌に沿って湾曲しており、その果ては樹林の影に消えている。咲弥たちの周囲も緑が深く、川辺だけが丸みを帯びた小石に埋め尽くされていた。
「うんうん、いい感じだねぇ。川も増水してないし、今日はここに設営したいんだけど、どうだろう?」
「うむ。雨に見舞われて増水しようとも、我が結界を張れば危険なことはない。サクヤの好きにするがよかろう」
というわけで、本日はこの地に設営することに決定された。
まずはドラゴンが虚空に魔法陣を描き、咲弥の愛車とキャンプギアの一式を現出させる。石造りの巨大な台座たる『祝福の閨』の上に、咲弥が預けたコンテナボックスと古びた宝箱がのせられており、あとはそこに入りきらなかった数々のキャンプギアも整然と陳列されていた。
「へェ。ずいぶんと仰々しいもんだねェ」
と、いきなりスキュラの声が響きわたり、アトルとチコに「ひゃーっ!」と悲鳴をあげさせた。どこからともなく出現したスキュラの分身が、咲弥たちと一緒になってキャンプギアの一式を眺めていたのだ。
「あらあら、お早いお越しで。キミもドラゴンくんみたいに、空でも飛べるのかなぁ?」
「水妖が空なんざ飛べるわけないだろォ? この分かれ身は、水場だったら好きに生み出せるんだよォ」
スキュラは妖しく微笑みながら、咲弥を見返してきた。
「あたしはあんたたちが川に悪さをしないか見張ってるだけだから、なァんも気にすることはないさァ。好きに準備を進めなよォ」
「ほいほい。ほんじゃ、設営を始めよっかぁ。アトルくんにチコちゃん、今日もよろしくねぇ」
「りょ、りょーかいなのです!」
アトルとチコは、ずいぶん不安げな面持ちになっていた。
しかし、咲弥とともに設営の作業に励んでいると、その小さな顔に元来の無邪気さが蘇っていく。そうして二組のテントが完成した頃には、すっかり笑顔になっていた。
「や、やっぱりサクヤさまのおしごとをおてつだいできるのは、よろこびいっぱいいっぱいなのです!」
「わ、わたしもなのです! あらためて、サクヤさまとさいかいできてうれしーうれしーなのです!」
「あはは。そんなこと言ってると、またあたしにハグされちゃうよぉ?」
咲弥が両手の指をわきわき動かすと、アトルとチコは楽しそうに「きゃーっ!」と声をあげながら逃げていった。
次なるは、二組のタープである。その片方は、のきなみドラゴンの宝物から転用された品々だ。『精霊王の羽衣』なる織物を『聖騎士の槍』で支えつつ三メートルの高みに持ち上げて、ロープを張ったのちに『昏き眠りの爪』を打ち込んで固定する。そのさまを眺めながら、スキュラは「ははん」と鼻を鳴らした。
「まさか、『精霊王の羽衣』を屋根の代わりにするとはねェ。あんたはちょっと見ない間に、酔狂の度合いが跳ねあがったんじゃないのかァい?」
「うむ。道具とは、使ってこそ価値が生じると判じてのことである」
「精霊どもだって、屋根にするためにこんな立派なもんを織ったわけじゃないだろうにねェ」
スキュラは常に皮肉っぽい態度と物言いであるが、べつだん深刻な悪意などは感じられない。それに、ドラゴンのほうもすっかり警戒を解いている様子だ。スキュラと対面する前の緊迫した空気はいったい何だったのかと、咲弥は首を傾げたい心地であったが――しかし、話が穏便に進んでいるのであれば、文句をつけるいわれはなかった。
(ドラゴンくんは恐怖の百年王国の王様、ケルベロスくんは災厄の権化とか言われてたもんなぁ。今のところ、あたしは魔族ってやつを恐れる理由がわかんないや)
そんな感慨を噛みしめながら、咲弥は設営を完了させることになったのだった。




