01 再開
2024.12/12
・本日から隔日で更新していきます。全8話の予定です。
「終わったぁ」と、咲弥は畳の上にひっくり返った。
咲弥は電源を入れていないこたつに両足を突っ込んでおり、テーブルの上にはノートパソコンが設置されている。
咲弥は五日ばかりもかけて、ついに面倒な仕事を片付けることがかなったのだった。
ここは祖父から受け継いだ家の居間であり、咲弥の他には誰もいない。
咲弥はブルーライトカットの眼鏡を畳の上に放り捨てて、疲れ果てた眼球の周囲を両手でもみほぐしながら、無人の居間にさらなる声を響かせた。
「いやぁ、やっぱ一ヶ月以上ものんびり過ごしてたから、すっかり勘どころが鈍っちゃったなぁ。うまくいけば三日ぐらいで終わるかもとか思ってたけど、甘かったなぁ」
咲弥がこちらの家に転居してから、半月と少しが過ぎている。最初の十日間をキャンプざんまいで過ごしているとついに三月に突入してしまったため、咲弥は日銭を稼ぐための勤労に取り組むことに相成ったのだった。
咲弥は祖父からそれなり以上の資産を受け継いでいたが、それはすべて家と山の維持に回すつもりでいる。あとは咲弥自身の貯蓄だけが頼りであったので、そちらが大きく目減りする前に日銭を稼ごうと決意したわけであるが――最初にまとめて稼いでおこうとはりきったために、五日間も消費することになったわけであった。
しかしこれで、三月上旬のノルマはクリアである。
咲弥のかつての先輩はなかなか割のいい仕事を回してくれたので、月をまたぐ前にもういっぺん同じだけの仕事をこなせば、食費と光熱費を補って余りあるぐらいの収入を得ることができるだろう。
さすれば、あとはキャンプざんまいである。
裏山で待ちかまえている楽しいキャンプメンバーの面影が、咲弥のくたびれ果てた頭をひと息に活性化してくれた。
「そうだそうだ。こうしちゃいられない」
咲弥はスウェットの襟もとに手を突っ込んで、赤い鱗のペンダントを引っ張り出した。
「あー、もしもし。こちら、咲弥でぇす。ドラゴンくん、聞こえますかぁ?」
咲弥がそのように呼びかけると、真紅の鱗がひそやかに明滅した。
そのさまにまた温かい気持ちを抱きつつ、咲弥はさらに言葉を重ねる。
「お仕事、無事に終了しましたぁ。今日の午後一番でそっちに向かえるはずだから、みんなにもよろしくねぇ。……通信、以上でぇす」
真紅の鱗は、また明滅する。咲弥の言葉はすべて聞き取ったという合図であった。
これはドラゴンがこちらの鱗に新たに施してくれた、通信の魔法である。咲弥がアルバイトを始めるとキャンプに出向く日を事前に取り決めることが難しくなるために、連絡の手段を確保することになったのだ。
これは咲弥の言葉を伝えるだけで、あちらの言葉を受信することはできない。咲弥の世界には魔法の文明が発展しておらず、大地や大気の魔力というものもおおよそ眠った状態にあるため、むやみに刺激しないほうがいいだろうという話であったのだ。
まあ、咲弥には理解し難い話であるし、こうして目的は達せられるのだから文句はない。
それに、いつでもドラゴンに見守られているような気分で、幸福な限りである。
咲弥は艶やかに照り輝く鱗の表面を指先で撫でさすりつつ「えへへ」と笑い声をこぼしてから、おもむろに身を起こした。
「それじゃあ、出発の準備だぁ。……そしてその前に、まずはお風呂だぁ」
ということで、咲弥は五日ぶりにして五度目になるキャンプに出陣することになったのだった。
◇
咲弥が仕事を終えたのは正午前で、午後の一時には出発の準備を整えることができた。
時節は三月に突入したが、まだまだ気温は低いため、冬場と変わらぬ装いである。ただ、防寒ジャケットのジッパーをしめずに羽織った状態であるのが、唯一の春らしさであった。
愛車たる黄色の軽ワゴン車に乗り込んだ咲弥は、意気揚々と山林に突撃する。
咲弥の思いに呼応するように、本日はびっくりするぐらいの快晴であった。
数日ぶりに起動された軽ワゴン車も、ご機嫌な様子でエンジンをうならせている。
また、多少の荷物を減らしたために、その動きはいっそう軽やかであった。今後はドラゴンの所有するお宝もキャンプギアとして活用していくことになったので、咲弥も持ち帰る必要のない装備のいくつかを一緒に保管してもらうことにしたのだ。
とはいえ、祖父の遺品を置き去りにするのは忍びなかったので、あちらに預けたのはすべて咲弥が買い集めた品々となる。テント、シュラフ、フォームマット、ローチェア、ローテーブル、焚火台、二台のバーナーなどなど――要するに、祖父の遺品と重複しており、なおかつ自宅での洗浄が不要となるギアを一式預けたわけであった。
ドラゴンたちとて、何かの都合でキャンプに参加できない日はあるかもしれない。そんなとき、ひとりでもソロキャンプを楽しめるように、必要最低限のギアは手もとに残したのだ。咲弥自身の心の安寧のためにも、それは必要な措置であった。
(でも、今日は五日ぶりだからなぁ。アトルくんもチコちゃんもケルベロスくんも、みんな都合が悪くないといいなぁ)
そうして咲弥は三十分ほどかけて、もっとも手近なスポットを目指し――そこに、愛しき面々の姿を見出すことになったのだった。
まず真っ先に目に入るのは、体長五メートルはあろうかというドラゴンの巨体である。
そのかたわらにはトラやライオンのように大きな黒き三つ首の狼、ケルベロスの勇姿も見える。そして、紫色の猫っ毛からヤギのような巻き角を生やした亜人族の兄妹アトルとチコも、こちらの接近に気づいてそわそわと身を揺すっていた。
「やあやあ。みんな、おひさしぶりぃ。元気そうで、よかったよぉ」
咲弥は車を降りるなり、めいっぱい両腕を広げてみせた。
最初に視線がぶつかったのはアトルとチコであるが、内気な兄妹はもじもじとしながらはにかむばかりである。
それではと、咲弥はケルベロスのほうに視線を転じる。
そちらはいつの間にか数メートルほど後ずさっており、遠い位置から真ん中の首たるルウだけが恭しく一礼してきた。
咲弥は両腕を広げたまま、高い場所に浮かぶドラゴンの顔をちらりと見上げる。
するとドラゴンはきょとんとした様子で顔を近づけてきたので、咲弥はおもいきりその首を抱きしめてみせた。
「もー、みんなシャイでまいっちゃうよぉ。ドラゴンくんは、あたしの熱情をしっかり受け止めてくれるよねぇ?」
「うむ。いまひとつ理解は及ばぬが、サクヤも元気そうで何よりである」
咲弥に抱擁されながら、ドラゴンは微笑むように目を細めた。五日ぶりに聞くその声は、やはり果てしなくダンディである。
ドラゴンの温もりを存分に味わってから身を離した咲弥は、こほんと咳払いをしつつ他の面々に向きなおった。
「あー、ちょっとひさびさだったので、ついつい熱情が空回りしてしまいました。どうか今後も変わらぬおつきあいをお願い申しあげまする」
「へん。ガキみてーに、はしゃいでんじゃねーよ」
ケルベロスの右側の首たるケイはそんな愛想のないことを言っていたが、そのふさふさの尻尾はぱたぱたと振られていた。アトルやチコも気弱げな面持ちながら、紫色の瞳をきらきらと輝かせている。それで咲弥も、浮かれ気分をそのまま継続させることがかなったのだった。
(ていうか、あたしが思わずハグを求めるなんて、人生初のことだよなぁ。……これも、みんながかわゆすぎるからだな)
咲弥はひとりで納得しながら、あらためて挨拶の言葉を申し述べた。
「とりあえず、みんなに会えてよかったよぉ。アトルくんとチコちゃんも、畑の仕事は大丈夫だったのぉ?」
「はいなのです! みずまきもくさむしりもかんぺきなのです!」
「そうなのです! ……きょうはサクヤさまがこられるかもというおはなしだったので、いっしょーけんめいがんばっておしごとをおわらせたのです」
と、アトルとチコは嬉しそうな表情で、もじもじとした。
その愛くるしい姿と言葉の内容に、サクヤはついつい「うぬう」とおかしな声をあげてしまう。
「ハグ欲をかきたてられてならないが、自制がきくうちは我慢しよう。……ケルベロスくんは? お山の見回りの仕事は、順調かな?」
「はい。竜王殿のご温情に報いられるように、励んでいます」
凛々しい面持ちで答えるルウの左右で、ケイは知らん顔をしており、ベエは鬱々と目を伏せている。誰も彼も、五日前から変わりはないようであった。
「サクヤこそ、五日にも及ぶ勤労、ご苦労であったな。無事に再会できたことを、心より得難く思っている」
ドラゴンは優しく目を細めながら、そんな風に言ってくれた。
「では、今日は何処に腰を落ち着けようか? 必要な物資は亜空間に準備しているので、好きな場所を選ぶがいい」
「うん。だけど今日はその前に、こいつをお披露目しておくねぇ」
咲弥はいそいそと軽ワゴン車のリアゲートを開いて、そこから新たなキャンプギアを引っ張り出した。
ふた振りの、釣り竿である。
それを目にしたアトルとチコは、二人仲良く小首を傾げた。
「それは、どういったしななのです? なんだか、つりざおににているようなのです」
「そー、まさしく釣り竿だよぉ。……あれ? この釣り竿に見覚えがあるわけじゃないのかなぁ?」
「は、はい。ぼくたちのしゅーらくにも、つりざおはあるのです。でも、おやまでつりざおをどのようにつかうのです?」
アトルのそんな言葉が、咲弥に二つの疑問を抱かせた。
「えーと……アトルくんたちは、砂漠で暮らしてるんだよねぇ? そっちこそ、釣り竿を何に使ってるのかなぁ?」
「すなのうみで、デザートリザードをつるのです。かくれたデザートリザードをつかまえるには、つりざおをつかうのがべんりべんりなのです」
咲弥はまだデザートリザードがどのような姿をしているのかも知らないので、何とも想像することが難しい光景であった。
「それでは、第二の質問です。この釣り竿をじっちゃんに見せてもらう機会はなかったのかなぁ?」
「は、はい。そのしなは、はじめてめにするのです。ふけんしきで、きょーしゅくのきわみなのです」
ぺこぺこと頭を下げるアトルとチコを「いやいや」となだめつつ、咲弥の疑念は晴れなかった。祖父のキャンプに釣りは欠かせないはずであるのに、どうしてアトルとチコにはその楽しさを教えなかったのか――それが、不思議であったのだ。
(そういえば、この釣り竿も押し入れの天袋に押し込まれてたもんなぁ。……まあいいや。それなら、あたしが教えてあげればいいだけのことさ)
そのように思いなおして、咲弥は釣り竿の先端をぷらぷらと振った。
「この釣り竿は、魚を釣るための道具だよぉ。三月に入ったし、そろそろ頃合いかと思ってさぁ」
「さかな……さかな……さ、さかな?」
と、アトルとチコは何故だかおたがいの身に取りすがってしまった。
「あ、あの、サクヤさま……さかなというのは、かわにすんでいるのではないのです?」
「うん。そうだよぉ。この山にも、けっこういい釣り場があるからさぁ。……あれあれ? どうして二人は、そんな不安そうなお顔なのかな?」
アトルとチコは何も答えず、おたがいの身を抱きすくめながらぷるぷると震え始めた。
それで咲弥がケルベロスのほうを振り返ると、そちらもずいぶん不明瞭な面持ちをしている。その中から、左側の首たるベエが陰鬱なる声を発した。
「サクヤよ……其方は本当に、川に向かおうという所存であろうか……?」
「うん。ここから車で五分ぐらいのところに、いい渓流があってさぁ。まあ、今はどんな感じなのか、さっぱりわかんないけどねぇ」
「そうか……この山がこちらの世界と融合してからは、まだ足を踏み入れていないということだな……それでは、そのような考えに至ってもおかしくはあるまい……」
そんな言葉に、今度は咲弥のほうが首を傾げることになった。
「つまりそれって、川が危ない場所になっちゃったってことかなぁ?」
「ええ。川に近づくのは、危険です。どうか思い留まっていただきたく思います」
ルウの言葉に、チコも「そ、そうなのです!」と声を張り上げた。
「かわはとっても、こわいこわいなのです! わ、わたしたちははたけでつかうみずのために、どうしてもかわにいかなくてはなりませんけれど……サクヤさまは、ちかづかないほうがいいのです!」
すると、ドラゴンが厳粛なる声音で「否」と言った。
「この山の所有者は、サクヤであるのだ。すべてを決する権利は、サクヤにある。何者にも、それを邪魔立てすることは許されまい」
「お前、本気で言ってんのかよ! 自分からあんなやつに近づく必要はねーだろ!」
あの強気なケイでさえもが、そんな風に言っている。
そして咲弥は「あんなやつ?」と再び首を傾げることになった。
「川に何か、危ないものでも住みついてるのかなぁ? だったら、あたしも考えなおさないといけないかもだけど……」
「否。サクヤには、望む通りの道を進んでもらいたく思う。あやつがどれほど厄介な存在であろうとも、我がある限りサクヤを危険な目にはあわさないと約束しよう」
ドラゴンは優しく目を細めながら、咲弥に顔を近づけてくる。
とりあえず、咲弥はその温かな頬を撫でながら、事情をうかがうことにした。




