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物語の初めに。
雨の日、空からの雫は世界をふわりと包み込み、地面を湿らせて音をのみこむ。
1901年 冬 ギルゼルム帝国アルデンタ
大陸国家であるギルゼルムのない陸地であるアルデンタには陸軍の基地がある。
帝国陸軍第732歩兵科連隊はその中にある。雨に紛れて出撃する姿を見たものは何者もなかった。
人ならざる、ものを除いて。
1年後 夏
よく晴れた暖かい日。
日差しは万物にぬくもりを与え、息吹を巡らせる。
アルデンタ陸軍基地の前では、定期市が開かれている。四方を川に囲まれて交通の要衝である上、陸軍基地があるため治安もいいと様々な人が売り買いに来る。
すぐに移動できるよう出店形式である店主たちは売り子を雇ってまで客引きを行っている。チェス盤のように整備されている市を十字に区切る主要路が交差する場所に店を構えるのが、エルバ奴隷店。
この店には売り子がいない。店主はパラソルの下で涼み、店の名前も脇のテーブルに置かれる小さなプレートでしか確認できない。別段接客しないというわけではない。客引きを行う必要がないのだ。
店先に奴隷が座っている。人手が必要な、足場職人や高級貴族のしもべなどがやってきて吟味を始める。
その段階で、初老の丸っと太った白髪の店主が重い腰を上げて接客入るのだ。
その中に32号は座っていた。
12,3ぐらいの男。そういう情報しかエルバはもっていなかった。拾われて五年、これを買おうとする者も一定数はいるのだがなかなか購入には至っていない。
商品に欠陥があるというわけではない。単純に需要がないのだ。性別が違えば、状況も違ったことだろう。実際、先週入荷した57号はすぐに売れた。情報自体は32号と変わりないが、こういう商品には一定層の支持がある。
家事全般はもちろんのこと。本職は夜。
主人の慰み者にされて今頃彼女は欠陥をおこしていることだろう、、、。
だが人の心配が出来るほどの余裕は32号に用意されていなかった。
それはもう、目の前に迫っていた。
キミヲモフ、
新生活 1日目
昼の暑さはもう冷めてしまった夕刻。
市には夕食の材料を買いに来たご婦人が多くみられる。この時間はどこかの妻か使用人しか来ないので
奴隷が買われることは少ない。
32号は今日も変わらずに薄い筵の上に座っていた。ずっといると足が痛くなってくるが、崩すことは許されていない。商品はじっとしていなければならないし、主人の求めたとき以外は喋ってはいけないのだ。
ただ、こういう中でも32号はたくましいもので、人間観察に楽しさを見出していた。何気ないことが
その日の思い出だったりする。
今日の思い出は食い逃げ犯がよろめいてこけたことになるはずだった。
先ほどまで客引きの声や、婦人方の談笑で賑わって市が波打つように静かになっていく。
いつもは威勢のいい野菜売りの店主も今日は打たれた子犬のようになっている。皆がただ一点を見つめて黙っているのだ。
ちょうどそれは32号の目線の先にいた。
女性で濃紺のトレンチコートにこげ茶の革ピストルポート、そしてコートと同じ色のつばの短い制帽。
帝国陸軍の高級将校であることぐらい32号でもわかる。
この国は軍隊とともに発展してきた。そのため軍人取り分け焼香は身分制の高位に当たる。平民が
黙ってしまうのも無理はない。
将校は銀髪を自らの双峰まで下げていて、吊り上がった目じりに収まるのは氷のように冷たい蒼いひとみ。女性的な雰囲気の柔らかささなど微塵もない焼香は、妙に規則正しいリズムで歩いてくる。
目鼻顔立ちの整った軍人が見つめる先には、エルバがいた。
その目線に気付いたのかエルバは立ち上がり、軍人を出迎える準備をした。
「本日はどのようなご用件で?」
こびへつらうような接客で近づいてきたエルバの姿を目に入れた将校は、口の角度一つ変えないまま
引き抜いた拳銃をエルバの額に突き付けた。