Ⅳ 運命 -7
「クウ……」
アウローラ公国国軍大将コルニクスは、手紙の名前を反芻してみた。旧友の懸念を、たとえそれが根拠のないものであっても、彼はおろそかにしない。きな臭い匂いに敏感なその鼻を信用しているからだ。
「あいつか」
最近名前が挙がらなかったので、記憶から呼び起こすのに、一瞬だけ時を要した。
鮮やかに二十年前の情景が思い起こされる。平原にひしめくガザの兵士たち。決死の覚悟で布陣する太陽国。双方の陣地から中央に進み出てきた二頭の馬。その背には両国の妃が、それぞれまたがっていた。その二人を守る少年。二人を何者からも侵させまいとする気迫は、使者に立った妃二人を、見えない壁で守っていた。
あの少年も針森の人間だと知ったのは、後のことだ。
その後破竹の勢いで進軍する現ガザ国王の側で、血路を開いたのは、その時の少年だったと聞いている。
その俊敏な動きは、もはや人間のものではなく、悪魔のようだと恐れられたと聞く。
十年前に少年の名前を聞かなくなった。死んだのかと思っていたが……。
そこまで考えて、コルニクスは自嘲した。死んだことになっているのに、まだ生きている者を知っているではないか。それも針森の村で。
「またあの村か」
クウが何を企んでいるのか分からない。旧友が伝えてきたのは、彼がこの国にやってくること。ターシャ公女とユースティスの婚約騒動を利用して、何か企んでいるかもしれないこと。
そして、二十年前に針森を焼かれたことを、まだ恨んでいること。
「それ、俺のことが書いてあるの?」
一人でいるはずの部屋で、知らない声が聞こえて、コルニクスはギョッとし、すぐさま傍らの剣を掴み、立ち上がった。
風を感じ、振り返ると、いつの間にか開いた窓辺に男が座っていた。
「貴様、どうやってここに」
兵を呼ぶか逡巡した隙に、男はすぐそばに立っていた。
「俺の話を訊きたいんでしょ」
顎で手紙をしゃくる。男はもう少年ではなかったが、当時の面影はあった。あの時、遠目ではあったが、何も見逃さないように遠眼鏡でしっかり見ていたから分かる。
「クウか」
低い声で確認すると、空は意外にもニコリと笑った。
「それナナライからでしょ。そりゃ、その手紙より、俺の方が着くのが早いに決まってる」
もっともなことを言って、彼は面白がるようにコルニクスを見た。
「少し前に俺の村に二回襲撃者が現れた。たぶん飼い主は別々だと思う。一組目は何かを探りに来た。二組目は誰かを殺しに来た」
コルニクスの脇を冷たい汗が流れた。
「どっちも返り討ちにしちゃって、話が訊けなかったんだ」
尋問や拷問は苦手なんだ、と空の目がキラリと光った。
「で、あんたはどっちの飼い主?」
コルニクスも空の目を見返す。
「知らん。初耳だ」
そういうコルニクスの声が耳に入っていないかのように、空は続けた。
「まぁ、あんたは裏切ることは出来ない。たぶん噂が本当か確かめたかったんだろう。でもさ」
その目は何も変わっていないように見えた。しかし急に、慈悲を知らない恐ろしい目のようにも感じられた。
感情を一切殺した目。
「蘭も信もそれは許さないと思うよ」
懐かしい名前を聞いて、コルニクスは眩暈を覚えた。
「忠告したからね」
空の姿は消え、声だけが風に乗って聞こえた。




