Ⅲ 予感 -21
部屋に戻されると、ほっとすると同時に、昂の傷の深さに息を呑む。
彩は目は見えなくても、昂の呼吸、動き、そして傷の持つ温度でそれが分かった。
駆け寄って、抱きつきたくても、傷に障るだろうと我慢をする。
そんな彩の様子を察してか、昂は手を伸ばして引き寄せてくれる。そして毎日同じことを訊く。
「大丈夫だったか、彩?」
何かをされたわけではないので、彩は毎回こくりと頷く。いつもはそれでも腑に落ちないといった沈黙が落ちるのだが、今日は違っていた。
「崙に少し聞いた。何かされているわけではなさそうだったが、辛そうだとも言っていた。大丈夫じゃないだろう?」
心配された嬉しさより、驚きの方が先に来てしまった。
「崙はしゃべれたの?」
昂は、はははと笑って、俺も驚いたと頷いた。
それにしても……と彩は言う。
「その傷、崙がしたんでしょ?それなのに、わたしの心配をしたりしたの?」
昂からも戸惑いの空気が流れてきた。
「俺もよく分からない。崙が獏の敵にはなることはないとは言っているけど」
「わたしたちの敵でもない?」
「それは楽観的過ぎるかな」
しかし、崙自ら進んで昂たちを苛んでいるわけではない。獏の命令に従っているだけだ。
そんなことより、と昂は彩の頭をなでる。
「大丈夫じゃないだろ?」
優しい声に彩はとろりと包まれた。
自然と体が震え出し、閉ざされた目からも涙が出てくる。
あの声。
彩は目が見えない分、人の声には敏感だ。声からその人の性質から感情、時には本人すら認識していない本心まで、分かってしまう。
獏の声は、邪気に満ちていた。どうすれば人が傷つくか、人がどのように苦しむか、それを感じる喜びが、狂った音域の中でかき混ぜられていた。まるで自分がかき混ぜられているような感覚に陥り、彩は獏のそばでその声を聞いている間中、震えていた。
初日に、彩が思わず耳を塞ごうとすると、獏は喜んで彩の手を縛った。次の日からは、彩は嫌がっているのを悟られないように、ただじっと耐え続けた。
獏はそんなことはお見通しとばかりに、しゃべり続けた。
いつ終わるかも分からないそのおしゃべりに、彩は叫び出すのを必死にこらえていた。
「可愛そうに」
心からの憤りと哀しみ、気遣い。昂の声音は嘘を含まない。
彩は安心して、抱きしめてくれる昂の腕に、自分を委ねた。
こんな風に彩のことを気遣ってくれるのは、今まで奏しかいなかった。育ててくれた口伝師頭の玲は、彩たちに愛情をかけるには、何かがつかえているような感じだった。優しくしよう、気遣おうという空気は感じるのだが、何かがそれを引き止めている風だった。だから彩は、玲に感謝しているし、単純に好きだとも思っているが、自分を委ねることは出来なかった。
「大丈夫だよ、彩。なんとかするから」
昂の声を聞きながら、彩はもう一人、声音に嘘がない人のことを想った。
凛はどうしているだろう。
わたしたちが二人とも帰らなくて、心配しているだろうか、悲しんでいるだろうか、あてもなく探しているだろうか。
狼公の館で、手を引いてくれた凛を思い出す。
凛はきっと、なんとかしようとしているに違いない。それがどんなに無謀なことでも。
一人で無茶をしていなければいいけど。
……ふと、思い出す。
そう言えばあの人は、自分の名を呼ぶ声に応える時にだけ、声が揺れる。




