Ⅲ 予感 -20
「あの人にたてつかない方がいいぞ。余計に面白がって、遊ばれてしまう」
急に崙がしゃべり始めたので、昂は体が痛むのも忘れて、驚きの声を上げようとした。顔が腫れていて、口を開けるのも痛い。
「あんた、しゃべれたのか」
なんとか口を動かすと、かすれた声が出た。崙の顔を見ようと、顔を上げようとすると、背中が悲鳴をあげた。
食事の後、獏は昂の口を割らせるよう、崙に命じた。その間、彩の面倒は自分が見るからと、彩を連れて行ってしまった。
それから三日間、昂は崙に殴られたり、打ち据えられたりしている間、彩は獏に連れまわされる日々が続いた。
崙はしゃべらず、昂を責めてはじっと見て、口を割るように促していた。こいつは口がきけないんだと、昂は思っていた。
口を割る内容を持ち合わせていなかった昂は、ひたすら耐えるしかない。
「だから、どこの誰でもねぇよ。妹を助ける為に、火をつけたって言ってるだろ」
しかし崙は何も言わず、昂を殴る。ある程度殴ったり、打ち据えたりすると、昂は放置された。
そうなると、連れて行かれた彩が気になる。崙に訊いても、一言もしゃべらなかった。
それなのに、四日目の朝、ひとしきり殴った後、崙は急にしゃべりだした。低くて深みのある、いい声だ。しかし普段声を出していないせいか、だいぶかすれていた。
「おまえが何者で何の目的だったかなんて、あの人はどうでもいいんだよ。興味があるのは、妹のことを心配して身もだえするお前と、痛めつけられて傷だらけのお前に心を痛める妹。それを見るのが楽しいだけだ」
「それだけのために?」
昂はガラス玉のような獏の目を思い出した。
「それがあの人の生きる意味だからな」
冗談じゃない。
昂は怒りに体が熱くなったが、痛みが酷くて、怒鳴ることは出来なかった。
「塗っとけよ」
崙は軟膏を机の上に置くと、昂を縛っていた縄を解いた。
昂は崙に体当たりして逃げようかと試みたが、立ち上がることもできなかった。足が立たずに、前のめりに無様に転げた。
「よせよ。動けない程度には痛めつけた」
崙は憐れみの目で昂を見下ろすと、抱き上げる形で昂を椅子に座らせた。背もたれに傷だらけの背中が当り、昂は悲鳴を上げた。
崙は軟膏を手に取ると、昂の傷に塗り始めた。
「死なない程度にしてやるから、あの人に飽きられるまで耐えろ」
「飽きられた途端、殺されるんじゃないか、あんたに」
皮肉を込めて唸ったが、崙は動揺もせずに首を横に振った。
「あの人は興味を失くしたら、すぐに忘れる。捨てられるだけだ。邪魔をしなければ、殺されることはない」
「……あんた、なんでしゃべんないんだ?」
崙はしばらく無言だったが、その巨体を身じろぎさせた。
「しゃべったら、あの人に舌を切られそうになった」
「え?」
ガラス玉の目が再び脳裏に浮かぶ。
「俺の声が気に入らなかったらしい」
耳の奥に残る耳障りな高音。
「カストラートって知ってるか?」
崙が投げてよこした言葉を、昂は知らなかった。首を横に振る。
「変声期前の美しい高音を保つために、声変わり前の少年を去勢する」
去勢?
その言葉の忌まわしさとおぞましさに、昂は眉をひそめた。
「なんだってそんなこと……」
「その歌声が美しいってんで、重宝される。ただ、人間としては蔑まれる。商品として扱われるからな」
「あいつもそうだって言うのか?」
納得がいかない様子で、昂は痛む首を傾げた。権力者の崑一族である獏が、カストラートにされる理由が思いつかない。
そもそも、あの声は美しいとは言えない。
「さあな」
中途半端に返事をして、崙は部屋を出ようとした。昂が慌てて、引き止める。
「おい、彩は?彩は大丈夫か?」
「大丈夫だ。あの人の側にいさせられているだけだ。それでもあの子には苦痛なようだが」
崙は昂の髪を掴むと、顔を上げさせた。
苦痛に昂の顔が歪む。
「今はな。もしあの人があの子にひどいことをした方が面白いと感じれば、あの子は無事じゃすまなくなる。だから、興味を持たせるなと言ったんだ」
「あんたは助けてくれないのか?」
今まで無言だったのに、急に情報を与えてくれた崙。昂は期待を込めて、崙を見上げた。
崙はフンと鼻を鳴らした。
「俺に殺されそうになったのを忘れたか。俺はあの人の敵にはなり得ない」
そう言うと、崙はさっさと部屋を出ていってしまった。




