Ⅲ 予感 -12
昂は宿屋の外に出た途端、その匂いに気が付いた。
カランの実だ。
カランは針森でも使われる、痛み止めの薬効がある実だ。正しい用法用量で使用すれば、何の問題もない。使い続ければ、効果が薄くなってくるぐらいだ。
蘭が青の薬師の仕事を助けていたころ、昂もよく目にしていた。
ただこのカランは、使い方を間違えると、やっかいな代物になる。実を発酵させると、幻覚作用をもたらす、麻薬となる。カエルムほど効果も常習性はないが、安価なので広く出回っていた。いくら効果がそれほどでなくても、簡単に手に入れば、何度も吸うこととなり、体や精神を蝕む。ガザでは最近、禁止されたはずだ。
この近くで発酵させているのだろうか。
カランを麻薬に仕立てる時は、発酵させたものを乾燥させる。乾燥させてしまえば、これほどは匂わない。
昂は頭に巻いていた黒い布を外すと、鼻と口を覆った。発酵臭を嗅いだだけで麻薬の効果が現れるのかは分からないが、匂わない方がいいだろう。そもそもずっとこの甘ったるい匂いを嗅いでいると、幻覚に陥らなくても気持ち悪くなる。
彩もこの匂いが気になって、匂いをたどってしまったのだろうか。
時々布を浮かせ、匂いを確認しながら進むと、港に建て棄てられている、倉庫のような建物にたどり着いた。
いかにもだな。
扉は横開きだがさび付いている。開けると音がしてしまうかもしれない。
ぐるりと見回すと、建物の横に窓がついていた。高いところについているが、開けてある。それはそうだろう。この匂いだ。密閉された空間では耐えられない。
昂は倉庫の横にあった木によじ登ると、窓に飛び移った。飛び上がる時、木に体重をかけたので、木はボキッと折れてしまった。飛び移った窓も、ギシギシと音を立てる。昂はしばらく窓から顔を出さず、頭を引っ込めて窓にしがみついていた。落ち着いてから、そろそろと頭を上げてみる。
窓から流れ出てくるカランの発酵臭に思わずウッとなったが、無事に倉庫の中を眺めることができた。
中には二十人ばかりの人間がいた。誰も音を気にして、上を見上げている者はいない。皆一様に布で鼻と口を覆い、眼鏡までかけていた。
せっせと実をつぶしては、大きな箱のようなものに並べている。
その作業を十人ほど。後の半分は、作業台の周りを囲って、作業する人間を監視しているようであった。
全体を眺め終わって、昂は「おや」とまた視線を戻した。
すみっこに小さいものが横たわっている。
ゾワリ。昂の身体が総毛立つ。
彩だ。
眠っているのか、気絶しているのか、目を閉じ、身じろぎもしない。その口と鼻は何も覆われておらず、むき出しだった。
まずい。
昂はするりと窓に身体を滑り込ませた。
窓の内側に滑り込んでみたものの、まさか作業場のど真ん中に下りるわけにはいかない。昂は窓に張り付いたまま下を見下ろした。
今は夜中。火がカランに燃え移らないように、だいぶ離れたところに灯り用の火がともされていた。
おかげで作業台の近くは、ぼんやりと薄ぐらい。作業している者たちは、一心不乱に作業に打ち込んでいる。というか、後ろで見張りの者たちが威圧しているので、気が抜けないのだ。見張りの者は手に細い棒を持っている。昂はそれに見覚えがあった。狼公の館でお世話になった、側用人頭殿が愛用していたものだ。よくしなり、的確に打ち据えることができる。
作業している者は、させられているのだろう。ということは、気にするべきは十人の見張りの者たちだけだ。
どうするかな。
奴らが彩をどうするつもりでここに寝かせているのか分からない。ただ気を失っているのを、寝かせているだけだ。縛られているわけでもない。カランの匂いにつられて迷い込んできた子どもを、どうしていいか分からず、床に放置しているだけかもしれない。
まぁ、でも……
昂は自分を叱咤した。甘い期待は持たない方がいい。どう考えても善良な組織ではない。
それに、外の空気を早く吸わせてやりたい。子どもがこんなカランの発酵臭の中にいていいはずがなかった。
昂は気合を入れて、下に飛び降りた。近くにいた見張りが、ぎょっとしたように振り向く。
昂は彼らには目もくれず、明かり用の灯篭を蹴り倒した。一気に作業場は混乱に陥る。
「何だ⁈襲撃か!」
「火を消せ!火を!」
「扉を開けろ!煙にやられるぞ!」
誰かが扉を開ける音が聞こえた。予想通り、ギギギギーと錆びたような音を立てている。
床を這うようにして彩の近くまで来た昂は、扉が開いたと同時に、彩を抱えて飛び出そうとした。
「おっと」
飛び出そうとした昂は、何か固くて大きいものにぶつかった。ひょいっと抱えられる。
必死でつかんでいた彩も、引きはがされてしまった。見上げると大きな男が無表情で昂を見下ろしていた。片手で昂を抱えている。もう片手で引きはがした彩を、隣の男に渡していた。
こちらはただの優男に見える。彩を受け取ると顔を覗きこんだ。
「お人形さんみたいだね」
くっつきそうなほど顔を近づけている。昂は大男の腕の中で暴れた。
優男は昂を見ると、おやっと目を見開いた。
「君も綺麗な顔をしてるね」
で?と首をかしげる。
「君たちは何者?僕の大事な工場になんてことしてくれたの」
顔を上げると、工場は濛々と火の手を上げていた。優男は、中から飛び出してきた見張りの男を捕まえると、淡々と言った。
「何、出てきてるの!中でカランを守らないと、大損害だよ」
そう言って、火と煙が溢れている倉庫の中へ顎をしゃくった。見張りの男がうろたえた顔で優男を見ると、大男が昂を抱えたまま、男を倉庫の中へ蹴り入れた。
ぎいぃぃやぁぁぁ
裂いたような悲鳴が上がり、炎が一段と燃え上がった。
「あーあ、駄目か」
優男はどうでもよさそうに嘆いた。
その時、優男の腕の中で彩が身じろぎした。虚ろな意識でも、喧騒と異臭を感じ取ったのか、顔をしかめた。
「彩!」
大男の腕の中で昂は叫んだ。
彩が微かに首を動かす。
「昂?」
優男は二人を見比べる。
「君たち面白いね」
優男の興味は、完全に昂たちにうつったようだ。燃えさかる倉庫に背を向けてしまっている。
聞き知らぬ声に、彩がビクリとした。
「誰?」
不安そうな声が、昂の耳を打った。
反動をつけ、膝を身体ごと大男の腹に打ち込む。一瞬、大男の力が弱まったのを逃さずに、昂は大男の腕をくぐって下から這い出た。
「彩!」
優男の腕から逃れようとする彩を、昂が奪い取ろうとした瞬間。
大男はもう手間をかける気はないようだった。無造作に、剣を振り上げた。その殺気を、昂は体の背面全てで感じ取った。
死ぬ
直感で分かった。一撃だ。
「殺すな」
優男が短く言ったのが聞こえた。シュンッと素早く何かをまわす音。
ゴンッッッ!
鈍い音がして、昂は暗闇に落ちた。




