Ⅲ 予感 -11
「姫様!姫様!」
乳母の声が遠くから聞こえてくる。乳母は声が大きいので、ターシャの部屋のはるか遠くから呼ばわっても、声が聞こえるのだ。
しかし結局目の前まで来るのだから、遠くから声を張り上げて呼び立てるのは、何の益があるのだろうとターシャ姫は思った。
「姫様!」
ついに乳母殿が部屋の扉を開けて、ターシャと対峙した。
「聞こえているわ、キト」
姫様と呼ばれたターシャは、両耳を手で覆って、しかめ面をしてみせた。
しかし生まれた時から一緒の乳母には、一向に効かない。何も目に入らないかのように、キトはターシャにつかつかと歩み寄った。腰に手をあて、上からターシャを見下ろす。
臣下としてはあるまじき態度だが、キトはターシャにとって母親みたいなものだ。ターシャはまだ十歳。母親代わりのキトの役割は、現役である。
「陛下がお見えです」
そら見たことかというキトの表情に、ターシャはげんなりする。さんざんお説教は聞いた。陛下が帰った後、また一から同じことを言われるのは、想像に難くない。
「遅かったわね」
ターシャが嘯くと、キトは呆れた顔で腰にあてていた手を離した。
「お召し替えを」
職務を全うしようとするキトに、ターシャはあからさまに嫌な顔をする。
「え、これじゃダメなの?」
簡素なドレスだが、別に寝巻ではない。家族に会うのに、どうして「お召し替え」をしなくてはならないのか。
「お父様に会うだけでしょ」
そう言うターシャに、キトはピシリと叫んだ。
「大公様です!」
キトの叫び声と同時に、朗らかな笑い声が聞こえて、ターシャとキトは同時に振り返った。
「お父様!」
「陛下!」
同時に叫び、キトは慌てて跪き、ターシャは父親に飛びつく。
「あちらでお待ち頂くよう申し上げたはずですが……」
跪いたまま言うキトの恨み言に、大公は娘を抱きしめたまま笑って宥めた。
「ごめん、ごめん。待ってられなくてさ。お召し替えはいいよ。娘に会いに来ただけだから」
父親の腕の中で、ターシャがほらねという顔で、キトを見た。
「そうやって陛下が甘やかされるから、自由奔放にお育ちになられたのですよ」
キトはため息まじりにそう言うと、静かに部屋を出ていった。
キトが扉を閉めるのを見送ると、大公アランはターシャを離した。
「あまり乳母殿を怒らせるなよ。そのうちひっくり返ってしまうぞ。大切にしてあげないと」
そう言うアランに、ターシャは心外という風に目を見開いた。
「お父様に言われたくありませんわ。お父様こそ、コルをそのうち心労で死なせてしまいますわよ」
「……うむ」
辛辣な娘に、父親は黙るしかなかった。大公側近のコルニクスは、無茶をする主人のせいで、万年胃痛持ちだ。
「ところで」
咳ばらいをして話を変える。今日は別に娘と戯れに来たわけではない。このこましゃくれた娘は、先日とんでもないことをしてくれたのだ。まだ、知っている者は限られているが、それでも関係者は騒然としている。
この子も、話を受けた相手も、どこまで本気なのか。本来なら、子どものたわごととして相手にもされないことだが、第二公女であるこの娘と、話を受けた家は、一癖も二癖もある。周りが冗談だと相手をしない間に、どんどん話を現実のものとしかねない。
「俺が何の話をしに来たのか分かるな?」
普段の口調に戻って、アランはターシャに訊いた。長椅子に座るように、促す。
ターシャはちょこんと長椅子に腰掛けると、あっさりと言った。
「ユースティス様に求婚したことですか」
あっけらからんという娘の目を、アランはじっと見た。十歳の娘の本心を見極めようと試みる。
「なぜそんなことを?」
「好きだからです。このまえの式典のときお見掛けして、恋に落ちたんです。この人しかいないと」
ターシャはしゃあしゃあと言ってのけた。その瞳はちっとも恋している風には見えない。
「お前はまだ十歳だぞ」
「わたしが適齢期になるまで待っていたら、ユースティス様は結婚されてしまいます」
確かにそうだろう。ユースティスは二十二歳だ。名家サボン家の長男で、将来も開けている。今から縁談が山となって舞い込むだろう。
「もちろんわたしだって、すぐに結婚できるとは思っていません。婚約でいいのです。結婚を約束して下されば」
アランは目を細めて、娘を眺めた。十歳の娘をこんな目で見る父親は自分ぐらいだろう。
「サボン家がどんな家か知っているだろう?なにが目的だ?」
アウローラ公国が太陽国であった時から、サボン家は中枢を担う名家として、国の行政に携わってきた。軍人ではないが、国軍への影響力が強く、それをちらつかせては、中枢に根を下ろしてきた家であった。
大公とは距離を置いており、どちらかというと批判的だ。
「だから、ひと目ぼれ……」
「ターシャ!」
父親の大きな声に、ターシャは片手を上げた。「分かりました」と一言言う。
父親である大公は有能な人物だ。今、この国が公国として、尊厳を保っていられるのは、このアラン大公のおかげだった。正道も貫こうとするが、物事には裏も存在するということを、実地として知っている。
「ユースティス様はあのサボン家の中にあって、現状を憂いてらっしゃる。太陽神を見捨て公国に成り下がったこの国を嘆きつつ、また策謀をめぐらす父親を軽蔑しています。清廉な精神にあふれ、職務には有能です。この人を、このままあちらに取り込まれると危ない。しかしこちらのものにすれば、とても強いと思います」
「だが、俺たちは嫌われているのだろう?」
太陽神から少し国を遠ざけた張本人は、そう眉を顰めた。
「大丈夫。彼はこの国は愛しています。中に入って改革できるのなら、飛びつきますよ」
十歳とも思えないセリフを吐いて、ターシャは笑う。
一体誰に似たことやら。子どもとは思えない観察力と分析力。しかし、ターシャはまだ十歳。いくら頭が良くても、子どもだ。
「だからと言って、まだ十歳の娘を差し出すわけにはいかない。ミアじゃだめなのか?」
ターシャの姉であるミア第一公女は、十四歳。王侯貴族であれば、婚約してもおかしくない歳である。
ターシャは首を横に振った。
「お姉さまは駄目ですわ。いいように使われてしまうのがオチです。それに第一公女の夫は大公になる可能性が出てきます。それは駄目です」
確かにミアは深窓の姫君らしく、おっとりしており、控えめな性格だ。キトあたりは、ミアの清楚な様子にぞっこんだが、国を支えるには弱かった。
それにしても……とアランは、熱弁をふるう幼い娘を見て、内心ため息をついた。
姉に対してまでも、駒のように考えてしまうのは、可哀そうなことだ。
「それに……」
黙ってしまった大公に、ターシャは楽しそうに言い足した。
「わたしがユースティス様を好きなのは本当です」
くくく、とターシャは思い出し笑いをした。
「だってあの人、面白いんですもの」




