Ⅲ 予感 -10
「すてき」
初めて海を感じた時、口にした言葉を、もう一度彩は言ってみた。
ザザー ザザー
と海が鳴る。それは潮騒と言うのだと、凛が教えてくれた。
森の鳴る音と少し似ているが、森の音は自分を覆ってくるように感じるのに対して、海の音は遠い所へ音が去っていくような感じがした。
遠い所へ運んでいってくれる波の音。
潮の匂いとやらにも慣れてきた。最初は生臭い気がして慣れなかったのが、彩の鼻にもしっくり馴染み、潮騒の音と共に、彩を遠い国に運んでくれる。
奏がいたら視ることができるのに。
昼間、沈黙の中で、昂がそう想ってくれたのを感じたが、彩は耳と鼻だけで感じるこの感覚も好きになった。人が見たものを視るのは、それに感覚を集中しなくてはいけないので、他の感覚はおろそかになる。
体全体で感じることができるのは、やはり自分の身体を使った時だけだ。
奏はどうかな。
木場を出てから、奏のイメージを視ることはなくなっていた。存在を感じることができないのは不安ではあるが、視ないことが奏の精神の安定を示しているような気がした。わたしたちは今、二人が一人ずつに分かれようとしている時だ。
彩はそんな気がしていた。
昼間と違って、夜はやはり人の喧騒がない分、波の音が身に迫って聞こえる。
この音をよく聞きたくて、夜中にこっそり宿を抜け出してきたのだ。
もともと暗闇の中で生きているので、夜になって暗くなろうが、彩はちっとも怖くはない。
しかし夜中に子どもが一人で歩いていると危ないことくらいは、彩にも分かっていた。
そろそろ戻ろう。
そう思った時、彩の鼻が不思議な匂いを嗅いだ。
潮の匂いではない。
もっと甘ったるくて、腐りかけのようなにおい。
なんだろう?
よく知らない場所で、一人で遠くに行くのは危険だ。目の見えない彩は、知らない場所はうまく歩けない。海に落ちでもしたら、死んでしまう。
だめだ。やめたほうがいい。
それでも甘い匂いは、彩を誘惑して離さなかった。
大丈夫だよ。大丈夫だよ。
少し下に下りるだけ。そこを伝っていけば、ほら、すぐそこだ。
頭がぼおっとしたまま、誘われるように、彩は港に下りていった。
「ねぇ、昂」
揺り起こされて、昂は半分眠ったまま目を開けた。
「なに?」
そこには必死な顔の凛が、昂にすがっていた。
え?なに?凛から誘ってきた?
寝ぼけた頭で、そんなことを考えていると、凛は更に昂を揺すった。
「彩がいないの」
ん……彩?
飛び起きると、彩が寝ているはずの寝台がカラだ。
「え?なんで?」
思わず凛に問うと、凛はふるふると首を横に振った。
「分からない。わたしもさっき目が覚めたの。そしたら、彩がいなかったから、びっくりして」
緑銅での人狩りのこともある。
しかし、さすがに誰かが侵入してきたら、昂だって目が覚める。そこまでのん気ではない自負はあった。
「波の音でも聞きに行ったかな」
海に感動していた彩の横顔を思い出した。静かな夜に潮騒を聞きに出たのかもしれない。
「こんな夜中に?」
凛は納得がいかない顔をする。
「彩は暗闇なんかこわくないだろ。まぁ、でも、出たとしても、この辺だと思うけど」
そう言って、昂は寝台から降り、上着を着た。
「探してくるよ」
「わたしも行く」
凛がそう言ったが、いやいや、と昂は凛を宥めた。よく考えず、なんでも自分がしたいと思うのは凛の悪い癖だ。
「それこそ、こんな夜中に女の人が出歩いたら、面倒が増える。俺、二人も面倒見れないよ」
そう言うと、凛の頭をポンポンと撫でた。
「すぐに見つけてくるから待ってて」
凛はもどかしそうな顔で、何か言おうとしたが、結局頷いた。
「分かった。待ってる」
昂は笑って部屋を出た。




