Ⅲ 予感 -9
蒼碇への道のりは、今までのことを考えるととても楽なものだった。なんといっても、乗っていたら連れて行ってくれるのだ。ただし、お尻は相当痛い。昂は馬車を飛び出し走り出したい衝動を何とか抑えて、お尻を座椅子に付けていた。
はす向かいに座る凛をそっと盗み見る。
凛は左手を隣に座る彩に握らせたまま、ぼおっと窓の外を眺めていた。彩はすっかり凛にもたれて寝息を立てている。
凛の物憂げな顔が、なにを考えているのか昂は気になった。凛が何かを隠しているのは明らかだったが、昂は凛が話してくれるまで待とうと思った。
ガザ王の隠密だった空があんな態度だったからには、凛は身分が高いのかもしれない。
それがこんなところでこんなことになっているのは、きっと訳があるのだろう。
不思議と隠し事をされていることに腹立たしさも、悲しさもなかった。ただ、隠さなくても済む存在になってやりたいとは思った。
「蒼碇には行ったことがあるの?」
昂が声をかけると、凛はパッとこちらを向いた。夢から醒めたような顔をしている。
「ううん、初めて。でも話には聞いているわ。とても活気のある港町だって。海路を通って全輪へ運ばれる物資が、荷下ろしされる場所よ」
「へぇ」
凛の憂い顔が少し明るくなった。それだけでも、昂はほっとする。
何かが心にかかっているようで、凛はいつも気が張り詰めている感じがする。囚われ人たちを解放するときも、全員をと言ってむきになったのは、凛の心の靄がそうさせている気がした。
「彩を助けてくれてありがとう」
突然言い出した昂に、凛は目を丸くした。
「わたしが助けたわけじゃないわ」
歯切れ悪く凛がそう言う。
「俺が一人で助けたわけでもないだろ。凛がいたから、助けられた。大事な預かりものだったから、助かったよ」
「預かりもの?」
凛が怪訝な顔をする。
「妹じゃなかったの?」
凛にはそう伝えていた。妹と弟と旅をしている最中に、人狩りにあった、と。
あーっと頭を掻きながら、凛を見る。凛とは長い付き合いになりそうな気がする。ごまかしておきたくはなかった。
昂は凛を手招きした。凛も顔を寄せる。
「彩も奏も、実は俺とは兄弟じゃないんだ。二人が双子なのは本当だけど。ある人のところにこの二人を連れて行くように頼まれた。ある人っていうのが……」
凛は真剣な顔で聞いている。凛は人の話を聞くとき、いつだって真剣だ。
本当に聞いてくれているという実感が、話し手を勇気づける。
昂がその人の名を言おうとした一瞬早く、凛の口がその名を発した。
「凛……ていう人なのね」
「……覚えてた?」
以前、凛という人を探しているという話をした。凛の名前からのついでの話しだったので、凛が覚えているか、分からなかった。
覚えていてくれたことが、昂は素直に嬉しかった。
「覚えてるわよ」
凛は鼻を鳴らして笑った。
それから急に難しい顔になる。
「……どうして、急に、本当のことを言おうと思ったの?ずっと、兄妹ってことにしていたんでしょう?」
凛に言われて、昂は首を傾げた。兄妹の方が話が早いので、偽るのに何の罪悪感もなかった。
ところが、急に、嘘をついている気分になったのだ。
「なんとなく。ごまかしたくなくなったんだよ」
昂がそう言うと、凛は目を何度かパチパチさせた。「そう」とだけ言って、考え込んでいる。
しばらくして顔を上げると、何かを決心したような目で、昂を見た。
「あのね」
ついに打ち明けるか……そう思った時、凛の膝に頭をのせて眠っていた彩が起き上がった。
「変な匂いがする」
彩がそうつぶやいたのと同時に、前で御者が怒鳴った。
「ほら、海が見えてきたぞ。蒼碇だ」
昂は外を見て、声を失った。青い海に、太陽の光が反射して、キラキラ揺らめいている。あんなにたくさんの水を昂は見たことがなかった。
「すげぇ」
昂の鼻も、彩のいう「変な匂い」を嗅ぎとった。嗅いだことのない、少し生温かいような匂い。
「潮の匂いよ」
変な顔をしている二人を可笑しそうに見やって、凛が教えてくれた。
「潮?」
彩が訊き返す。
「海の匂いなのよ」
凛が言い直すと、ふうんと納得したようだった。鼻を突き出して、ひくひくと匂おうとしている。
やがて近づいてくる港町に、昂はさらに目を見開いて驚くことになる。
緑銅に着いた時も、昂はそれなりに驚いた。針森とは比べ物にならないほどの町だったからだ。しかし、所詮はさびれた町だ。のんびりとした雰囲気に、昂はすぐに馴染んだ。
しかし、これは……
蒼碇の町は、昂の想像以上に大きな町だった。
宿場街に続く道でも、港に並ぶ大小さまざまな船に昂の目は釘付けになった。
「あのでかい布はなんだ?」
船の棒に引っ付いた大きな布を、指さして凛に訊くと、凛は楽しそうに笑った。
「昂といると、世間知らずのわたしが、物知りみたい思えてくるわ。あれは帆船の帆よ。あれを広げて風を受けて、海を走るのよ」
「へぇ」
昂は向こう側が見えない海を眺めた。あの先まで、どこまでも行けるのか。
彩を見ると、身体を起こして、鼻と耳で匂いと音を全身で感じようとしている。
奏がいれば、視ることもできるのに。
そう思って、昂は胸がチリリと痛むのを感じた。
昂の思いを知ってか知らずか、彩は両手を広げ空気を胸の奥まで吸い込み吐き出すと、うっとりと言った。
「すてき」
凛はそんな彩の頭を愛おしそうに撫でた。昂も幸福な気持ちで満たされる。
蒼碇は全輪への中継地として、立ち寄っただけだ。一晩泊って、すぐに発つつもりでいたが、少し見て回ってもいいかもしれない。
昂は、御前試合の賞金だと言われて空に渡されたお金を、思い出した。あれだけあれば、少し長く泊まれるだろう。
優勝したわけでもないのに渡された賞金を見て、昂は戸惑ったのだが、空には「優勝みたいなものだから」と言われたのだ。
それにしても、なぜ空から渡されたのか。
思い出しながら首を傾げつつも、昂はすぐに、露天に並ぶ見たことがない魚たちに気を取られてしまったのだった。




