Ⅲ 予感 -1
ユースティスは書類から目を離し、窓から外を見た。一息つくときは、いつも窓からの景色を見てしまう。そこからはかつての太陽王宮が見える。白亜の壁が夕陽の中に浮かんで見えて、幻想的で美しい。
今ではアウローラ公国の公舎と呼ばれていた。
ずいぶん安っぽくなったものだ。
自分の価値が下がってしまったかのように、ユースティスは自嘲気味に笑った。
その傍に、そっと茶器を持って、佇む少年がいた。
「ああ、ナル、そこに置いておいて」
ユースティスが机の端を、トントンと軽く指でたたくと、ナルと呼ばれた少年は、黙ってそこに茶器を置いた。
「ありがとう」
ユースティスが礼を言っても、ナルは会釈も返さない。用が済んだとばかりに、とっとと部屋を出ていった。
ユースティスが苦笑する。ナルが屋敷に来てから、肩の力がふっと抜けることがある。それまで、力を抜くことが出来なかったユースティスは、それだけでナルの存在を好ましく思った。
ナルを買ってきたのは、父だった。耳が聞こえず、口がきけない少年は、何かと便利だろうと、息子のために買ってきたのだ。
ユースティスはそもそも人を売り買いすることが嫌いだった。そしてたとえ父親でも、自分の使用人のことに口を出されるのが嫌だった。ついでにいうと、俗物な父親が大嫌いだった。
よってユースティスは、父親が買ってきた使用人など、はねつけるつもりだった。
それでも一応、まだ一族の長である自分の父親を無下には出来ず、顔を見てから辞退するつもりで、父の屋敷に出向いた。
そこでその少年を見て、気が変わった。
少年は檻の中で唸り声を上げていた。カッと見開いた目は、ユースティスを睨みつけていた。声を発すること自体が出来ないらしく、鼻から唸り声が漏れていた。
うなり声を発しているからと言って、行動が獣じみていたわけではない。
膝を抱えて座っているが、背筋はきちんと伸びていた。内に籠っているわけではなく、頭を上げて、周りの人間を観察していた。おびえた様子はないが、心は固く閉ざされているようで、人が近づくと、唸って威嚇した。
唸るという行為も、声を発することが出来ず、暴れることを選択しなかった結果のように思えた。
耳は少しも聞こえていないようで、大きな音をたてても、ピクリともしなかった。
ユースティスが近づくと、少年は唸り声を上げ、じっとユースティスを見た。
こちらが値踏みされているような気さえする。
ユースティスはそろそろとしゃがみこみ、座っている少年の目の高さに、自分の目の高さを合わせた。
不思議な間があった。
少年のうなり声は止み、じっと見つめる目に、力がこもったような気がした。
少年に引っ張られた気がして、ユースティスは思わず身を引いた。はっと我に返る。
目をしばたかせると、少年の目は何の力も入っておらず、ただじっとユースティスを見ているだけだった。
おもしろい。
辞退するつもりが、ユースティスはそのまま自分の屋敷に連れて帰ってしまった。
少年に字を書いて見せたが、理解できたようではなかった。しゃべれず、字も書けないとなると、困ったのが名前だ。名前があるだろうが、知り得る手段がない。呼んでも本人は聞こえないのだが、周りの人間は呼び名がないと不便だ。
分からないので、ユースティスはナルと名付けた。
耳が聞こえないので、仕事を教えるのは骨かと思ったが、意外にも仕事を覚えるのは早かった。見様見真似で習得するのは早かったし、人の表情を読むことに長けていた。
最初は胡散臭そうにナルをみていた屋敷の使用人たちも、意外に使える少年を可愛がるようになっていた。




