Ⅱ 外側 -29
だいぶ陽が落ちてきた。凛は彩の手を握った。
彩を入れてきた箱や、小枝の束などは、薪が積んである小屋に突っ込んだ。これから身一つで、裏門から少し離れたところにある裏木戸から抜ける。もちろん鍵がかかっているが、ロカがこっそり取って来てくれた。
おそらく殺されたであろう男の妻は、しきりに夫と息子の安否を気にしていたが、凛は何とかはぐらかしていた。今、心を折らせてはだめだ。何が何でも、妻と娘は助けたかった。
時間になっても昂は現れなかったが、逃げ出したことがばれれば終わりだ。外に出られる場所など限られているし、すぐに見つかってしまう。
彩は渋ったが、こうしている間にも、囚われていた部屋を誰かが、確認に来ているかもしれない。
「あなたがここを出れば、昂も出てくるわ」
そう彩に言い聞かせると、女二人に頷いた。
「行きましょう」
そう言うと、歩き出した。なるべく隠れては行くが、どうしても裏庭を突っ切らなければいけないところがある。
彩も他の二人の子どもも、静かに歩いてくれている。凛はほっとした。
闘技場の辺りの大騒ぎはこちらまで聞こえてくれるが、それは遠いざわめきで、この辺りはしんと静まり返っていた。
建物の陰を伝って進み、いよいよ突っ切ろうとしたところで、背後から声がふりかかってきた。
「ほら見ろ、やっぱりまだいただろう」
凛は振り返ると同時に、皆を背後に隠した。一人は見覚えがあった。先ほどの差し入れを渡したひげもじゃの兵士だ。ではもう一人が、奥にいた兵士か。
酒は飲まなかったのか。
ひげもじゃは凛の顔を見て、声を上げた。
「さっきの姉ちゃんじゃねぇか!」
「だから、酒はのむなっていっただろ?」
当然と言った顔で、もう一人の兵士が言った。
凛は服の中に隠していた短剣を取り出した。
ひげもじゃが面白そうに、口笛を吹く。
「へぇ、姉ちゃん使えるのかい?」
一応剣術は習った。あくまで自分の身を守るための、護身用だ。しかも凛は熱心ではなかった。むしろ嫌いだった。
天賦の才能があったわけでもなく、訓練も真面目ではなかった。腕前は推して知るべしである。
真面目に訓練しておけばよかった。凛は心底悔やんだが、もうどうしようもない。
「逃げて!」
後ろで固まる彩たちに向かって叫んだが、だれも動かない。
彩は凛の服の裾を掴んでいる。女が兵士たちに向かって、懇願するように叫んだ。
「他にも逃亡者を見つけたの?」
ひげもじゃは女とその娘の顔を見ると、ああ、と納得したように頷いた。
「あれはあんたの旦那と息子かい?そりゃ、気の毒だったな。まぁ、女は売り先がたくさんあるから、殺されねぇよ。なぁ、姉ちゃん」
わざと見当違いなことを言って、凛に向かってニヤニヤした。
女の顔は恐怖に歪み、口がぽっかりと開いた。一呼吸遅れて、そこから悲鳴がほとばしった。
それは奇妙に間延びした悲鳴で、いつまでも止むことはなかった。娘が驚いて泣き出す。
どうしたらいい?
どうしたらいい?
凛は焦るばかりでどうしようもなかった。もう一組の親子も、パニックを起こしかけている。
その時、ドスッという鈍い音がして、見ると、ひげもじゃの兵士が倒れていた。
続いて、もう一人の兵士の上に、黒い布を頭にまいた男が飛び降りてきた。そのまま男の膝が兵士の頸に入り、兵士は昏倒した。
男は立ち上がると、凛に笑顔を向けた。
「ごめん、遅くなった」
「昂!」
凛が叫ぶのと、彩が昂に飛びつくのが、ほとんど同時だった。
昂は彩の顔を見ると、一瞬ほっと頬を緩めたが、すぐに厳しい顔になった。
「今ので、兵士たちがこっちに向かってる。急ごう」
そう言うと、叫んだままの口の形で、呆然としている女の許に行き、膝をついた。側で震えている娘の手と母親の手を繋がせる。
「娘さんの手をしっかり離さないで」
母親の目に光が戻ってきた。
「いいですか。あそこの扉を出たら、きちんと閉めて、どこか適当なところでじっとしていて下さい。夜が明けたら、町に向かって」
昂は母親にそれだけ言うと、凛に鍵を渡すように言った。
「僕たちが動いて、別の場所に兵たちの注意を向けさせます。さぁ、行って」
今度は彩の方を向くと、自分の背中におぶさるように言う。彩が黙って昂の背中にしがみつくと、昂は凛に一言告げた。
「付いてきて。森を抜けるよ」
そう言って、走り始めた。凛は女たちの方を心配そうに見やる。
「大丈夫かしら」
「凛、早く!」
昂が鋭く言う。みんなでいるところを見られたら、元も子もない。
凛も分かっていながら、なかなか駆けだせなかった。
「大丈夫ですよ」
女のうち一人が、しっかりした声で言った。夫と息子を失った女も、娘の手をしっかり握って、頷く。
「早く行ってください」
そう言うと、四人はまっすぐ裏木戸に向かって走り出した。
それを見て、凛も踵を返し、昂と彩を追いかけた。
涙が出そうになるのを、ぐっとこらえる。
わたしは馬鹿だ。
簡単に人の命を預かった気になる。
その結果、抱えたまま自滅するところだった。
昂はその人の命は、その人のものだと知っている。だから、その人に命を持たせたまま、切り開けと言った。
あなたは自分の地位を嫌いながら、自分に驕っているのですよ。
胸に深く刺さったままの言葉が、また思い出された。その人の声音まで。
わたしは変わっていない。何も。
あの時からずっと。




