Ⅱ 外側 -8
玲は目の前の男を視た。
痩躯は引き締まり、ばねのようだ。不思議な気を腹の底にため込んでいる。
こんな男に成長するとはな。
この男の幼き日を思い出す。
こぼさないように慎重に桜婆の膳を掲げ持ちながら、少なからずへまをした。その失態を周りは叱りながらも、天真爛漫といってもよいその子ののん気さを、皆愛していた。
「久しぶりじゃな、空。いつぶりじゃ?」
空は手をつき、恭しく頭を下げた。
ゆっくりと顔を上げると、にこやかに言う。
「あの日以来ですよ、玲様。針森の村がなくなった日」
太陽国に帝国ガザが侵攻した折、ガザの国境と接していた針森の村が、ガザに抑えられるのを恐れた太陽国は、村を焼いた。村人はほとんどが先に逃げ出しており、事なきを得たが、村は灰燼に帰してしまった。数年かけて復興したのが、今の村である。
その折、皆が避難したのは社であった。当時、空は薬師の見習いで、怪我人の治療にもあたった。
もう、二十年ほど前のことになる。
「で、わたしまでペテンにかけて、何を企んでおる?」
玲は静かに言った。怒っているようでも、責めているようでもない。事実を言うように、迫っていた。
空の笑顔にちろりと灯りが映った。
「昂はだいぶ追い詰められていたぞ」
重ねて玲が言うと、空も静かに言葉を返した。
「たばかっていたわけではありません。本当に、一時追われて、逃げていたのです」
「どこへ」
「それは言えませんけど」
空は唇に人差し指をあてた。
玲は鼻を鳴らして言う。
「昂をガザへ誘った直後に、追っ手が村に入り、逃げている間に、昂が自分を探しに村を出た。その直後にたまたま村に戻ったと」
「はい」
悪びれもせず、空は頷いた。
「玲様こそ、そう疑っていたのに、彩と奏を昂に託したんですか」
村人でも知る人の少ない、彩と奏の名前を、空があっさり出しても、玲は驚かなかった。
「お前がまだここにいるとは、知らなかったからな」
空は肩をすくめた。
もう何も言いそうにない空に、玲はため息をつく。村が焼けたあの日、出て行こうとする空に、恐らく玲は会った。今ほど視えていなかったので、気配しか感じなかったが、あれは空ではなかったかと今でも思う。次の日から、空の声は社で聞こえなくなった。
あの時、声を掛けていたら、止められていたら、何か変わっただろうか。
「なぜ、二十年もここに寄りつかなかった?」
訊くつもりのないことが、思わず口からこぼれて、玲自身が驚いた。空が少し笑った気配がした。
「あなたにいじめられていましたから」
冗談めかして言う。空は玲より少し年下なだけだ。口伝師見習いとして、社で気を張っていた玲は、失敗してもへらへらして、許されている空が、あまり好きではなかった。だからといって、いじめた覚えはないが。
「まぁ、お前はもう針森の人間のつもりではないのだろう?」
十年も村を離れていた。村の人間はあまり詮索はしないが、ガザ帝国の動乱の渦中にいたらしい。ガザの現帝王の御代が落ち着いたころに、ひょっこり針森に戻ってきた。青の助手として村に居ついたが、社に挨拶も来ず、どこか来訪者のような一線を引いている。
あの日、村を出ていった時から、空の心はもう、針森にはいないのではないか。
「俺は針森の人間ですよ」
少し怒気を含んだ声が、耳を打った。
それから囁くような声が、耳元で聞こえた。
「だから、あの国を未だに許せない」
はっとして、玲は空の心に集中しようとした。しかし空の心は急に雲のようにつかみどころがなくなり、そのうち視えなくなった。
「三人を追いかけますよ」
空の声がそれだけ伝えると、もう空の気配は消えていた。
取り残された玲は、しばらく身じろぎしなかった。




