Ⅰ 孵化 -2
「昂……昂っ!」
掛布を引きはがされ、胸ぐらを捉まれ、無理やり引き起こされる。
ぼんやりとした視界の向こうには、怒れる母の冷たい目があった。
「あんた、今朝まかない所の当番じゃなかったかい」
脅すようなその口調に、昂は飛び起きる。
「やべっ、そうだった!」
掛布も敷布もぐちゃぐちゃのまま、昂は家を飛び出した。後ろで仁王立ちする母に、感謝を込めて叫ぶ。
「ありがとう、蘭!助かった!」
はなまつりを無事終え、一応大人になったとされても、生業を決め、修行に入るまでは、まかない所の当番を外れることはできない。昂はまだどちらの親の生業を継ぐか、決めていなかった。
母である蘭は厳しい母親であったが、村人全員の胃袋を守るまかない所には、もっと恐ろしい人がいた。
まかない所の入り口に、その人を見つけ、昂の背筋は凍った。
「おはようございます、朔さん」
朔と呼ばれた老女は、ギロリと昂を睨んだ。
この人に逆らうと、美味しいご飯が食べられなくなる。だから、絶対に逆らうな。それが針森の村人の暗黙の了解であった。針森の村では、村人全員の食事を、まかない所が一手に担う。
「蘭のところの長男坊か。姿が見えないから、ようやく生業を決めたのかと思ったわ、ホレ」
あごで示された方を見ると、弟の陽と妹の夕が素知らぬ顔でノイをこねていた。
あいつら、起こしてくれてもいいのに……
何も言えないでいると、朔は早く入れとあごでしゃくった。そうしてゆっくりと調理場を回り始めた。
蘭に聞いたところによると、蘭がまかない所を手伝っていたころから、朔はいい歳だったそうだ。今ではかなり高齢なはずである。
しかし足腰しっかりと調理場を歩き回り、張りのある声で、他のまかない師や子どもたちを叱り飛ばす。全く、元気な婆さまだった。
くすくすと忍び笑いが耳に入ったので、視線を向けると、いつもつるんでいる三人がいた。バーカと口だけ動かしている。
朔がこちらに背中を向けて、奥の方へゆっくり歩いていくのを確認して、昂は三人の方に近づいていった。
「また寝坊か?」
静が呆れたように言うのを、無言で受けることで肯定する。
「お前も成長しねぇなぁ」
口だけ動かして馬鹿と罵った拓は、まだクックと笑っていた。隣では、爽が無言でかまどの火を調節していた。
かまどの上には大なべが乗っていて、白い液体がコポコポと小さな泡を立てている。今日は乳スープらしい。
「でさ、お前、はなまつりどうだったの?」
拓がこそこそと訊いてきた。完全に手はお留守だ。
四人は同じ歳なので、皆同じ日にはなまつりを迎え、大人になったはずだ。
「ああ、まぁ。大丈夫だったよ」
いきなりの質問に、思わず口ごもりながら答える。はなまつりは儀式の一環だ。どうだったか訊くのは無作法だが、この年頃の若者に口を慎めというのは、無理があるだろう。
しかし、勢い込んで訊いてきた割に、拓の反応は芳しくなかった。
「そうか」
それだけ言うと、大なべをかき回し始めた。
ん?
予想と違う反応に、昂は戸惑って拓を見たが、拓は一心に大なべを見つめている。助けを求めるように、静を見ると、静は苦笑いして首を横に振った。
「拓、駄目だったんだって」
ぼそりと言ったのは、爽だった。興味なさそうに、かまどの火を見つめながら、さらに言葉を続ける。
「大人になれなかったらしいよ」
昂がもう一度、拓を見ると、拓の顔は湯気が出そうなほど真っ赤になっていた。それでもまだ、大なべをかき回している。
「爽……」
静がため息とともに、爽をとがめる。
「いや、だって、拓が話を振ったからさ」
爽は火を崩して、熾火にした。
「人に探り入れてないで、早くやっちゃえばいいんだよ。相手だって可哀そうだよ」
「分かってんよ」
不貞腐れたように言う拓を見ながら、昂は萌に感謝した。よかった、大人になれて。こうやって、同い年の仲間にしたり顔で言われるのは、さぞ腹立たしいだろう。
「ぷっ」
もう出来上がっているのに、まだ大なべを見つめてかき混ぜている拓を見て、笑ってはいけないと思いながらも、思わず吹き出してしまった。感染ったように静と爽も吹き出す。声を立てないように、身体を震わせる三人に、ついに拓が大なべのお玉から手を離し、跳びかかりそうになった時、雷のような朔婆の声が飛来した。
「スープはできたのかい!」
四人はたちまち直立不動になり、スープの完成を報告したのであった。