Ⅰ 孵化 -12
昂はその日家に帰ると、皆はもう寝静まっていた。汲み置きの甕から水を柄杓で掬い、口をゆすぐ。ついでに顔を洗ったが、ちっともすっきりしなかった。
皆が寝ていてよかった。どんなに取り繕っても、今の自分の顔を誰かが見たら、どうかしたのかと必ず尋ねただろう。自分でも、顔が奇妙に歪んでいるのが分かる。
空がいなくなったこと、薬室が荒らされていたこと、青が隠し事をしていること、空を見捨てると言ったこと。どれも現実のこととは思えなくて、こうして何も変わらない日常に戻ってくると、夢ではないかと思ってしまう。青に啖呵をきったが、昂はきちんと事実を消化できていなかった。
そのまま物音を立てずに、寝台に潜り込む。心は昂っていたが、横になると疲労感がどっと押し寄せてきた。
「昂」
寝ていると思った隣の寝台から呼ばれて、昂は思わず息を殺した。
しかし思い直して、声を殺して返事をする。
「何?陽」
「どうするか、決めた?」
潜めた声は、真剣に響いた。
陽はあの日以来、生業のこともガザ行きのことも、話題にしなかった。昂が追い詰められたのは自分のせいだと思っている節もある。
いつも口では昂をこき下ろしているのに、誰より気を使ってくれている。陽は父によく似た出来た男だ。子どもの頃は、そんな陽が気に喰わなかったが、今では素直に弟が自分より出来がいいと認めていた。
口では何と言いあおうと、昂は陽を認め、陽は昂を大切にしていた。
その陽が真剣に訊いてきた。
昂は短く息を吐くと、ゆっくりと言った。決意がきちんと伝わるように。信に告げる時とは別の緊張を昂は感じた。
「ガザに行ってくる。実は空が先に村を出てしまったみたいなんだ。明日村を発って、空に追いつく」
「明日?急だね」
驚きが暗闇の中伝わってきた。
「そう明日」
自分に確認するように、昂はもう一度言った。
口に出すことによって、言葉にして伝えることで、自分の未来を決めていく。
何も分かっていなくても、消化するのを待っていたら、きっと手遅れになってしまう。
今、この時行動しないといけない。何も分からない中で、それだけが昂が確信できることだった。
「そうか」
陽の返事はくぐもっていて、喜んでいるのか、よく思っていないのかも分からなかった。
それっきり、陽が何も言わないので、昂も何も言わず、眠りに落ちた。
翌朝、昂はまかない所の当番でもないのに早起きをし、早くに朝食を済ませてきた。
帰って来ると、蘭はもう身繕いを済ませていた。昂は二人分の食事を円卓に置くと、蘭に言った。
「今日、村を発つよ」
息子の急な申し出に、蘭は驚かなかった。
きちっと昂に向き直ると、ほほ笑んだ。
「信に聞いた。頑張っておいで」
あっさり言われて、昂は拍子抜けした。少しむきになってしまう。
「空が先に行ってしまったみたいなんだ。俺一人で追いかけようと思ってる」
顔色を変えろとまでは言わないが、少しは慌てるかと思った。眉を顰めるくらいしてもいいと思う。
しかし、蘭はそう、と頷いただけだった。
青との約束があって、事実を言えないことをもどかしく思った。危険かもしれないと蘭に言ってやりたい誘惑にかられた。
なんとか踏みとどまった昂に、蘭はふふっと笑った。自分の母親ながら、魅力的だ。信がぞっこんなのも頷ける。
「ちょうどよかったわ。玲様から呼び出しがあったのよ。ご挨拶していきなさい」
玲様とは社に住む口伝師の頭である。口伝師とは、村での出来事を全て自らの頭に納める生業で、身体が不自由な者がなることが多い。幼少のころから、村開闢の歴史をたたき込まれる。神に次ぎ、村で崇められる存在であった。
百年は生きたと言われる桜婆の跡を継いだのが、玲であった。玲は蘭より少し若いくらいだが、その存在感と視える力は圧倒的で、桜婆が亡くなった時、他にも年上の口伝師がいたにも関わらず、玲が頭になるのを誰も反対しなかった。
昂は玲様どころか、社に立ち入ったこともない。食事を運ぶ役目を仰せつかったこともなく、遠い存在の場所であった。
「わ、分かった」
落ち着きがなくなった昂に、蘭はやれやれと首を振った。
「こんなことでおたおたして、大丈夫かしら」
自分でも不安になるが、もう後には引けない。昂は黙って、身支度を始めた。




