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巨人伝説研究家<角田六郎>の事件簿  作者: 坂崎文明
武蔵野八幡宮の蕨手刀の謎〔エッセイ〕
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武蔵野八幡宮の蕨手刀と坂上田村麻呂の謎

 征夷大将軍の坂上田村麻呂と言えば、東日本の蝦夷討伐で有名だが、天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂さかのうえのかりたまろ(31歳)の次男、または三男(諸説あり)として誕生した。母親は畝火浄永(うねびじょうえい)の娘である。 

 坂上氏(さかのうえうじ)自体は、渡来系氏族である東漢氏の阿知使主を始祖とし、坂上直志拏を氏祖としている。

 代々、弓馬や鷹の道、馳射などの武芸を得意とする家系として、武門を家業として朝廷に仕えていた。

 田村麻呂以後も史書によると、陸奥守、陸奥介、鎮守府将軍、鎮守府副将軍など、陸奥国の高官が多く輩出されている。


 だが、その生誕地については不明なことが多いとも言われている。

 陸奥国田村庄(福島県田村市周辺)で誕生したという坂上田村麻呂奥州誕生説、蝦夷出身であったとする坂上田村麻呂夷人説がある。黒人説まであるらしい。

 実際、福島県田村市のHPによれば、大滝根山を本拠としていた賊(鬼?)の首領である大多鬼丸を討伐する際の伝説が残っている。


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大鏑矢神社  鏑矢を放ち、落ちた場所に陣を敷いた。あるいは、鏑矢を奉じて戦勝祈願した。

明石神社と夜明石 明神様境内の石に座って夜を明かし神託を得た。

白鳥神社  白鳥の導きがあったことから白鳥大明神を祀った

船引〔地名〕 征討で傷ついた兵士〔あるいはは死者〕を舟で引いて運んだ。

大越〔地名〕 田村麻呂の軍が大声を上げて進軍した。【大声】が転じて【大越】。

(福島県田村市のHPより引用)

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 ただ、この陸奥国田村庄(福島県田村市周辺)は後に、坂上田村麻呂の子孫が住み着いていた場所であり、そのために、そういう伝承が残ってる可能性もある。


 この辺りの伝説は私が生まれた岡山県の吉備津神社の温羅(ウラ)伝承(桃太郎伝説の起源と言われる)によく似ていて、温羅(ウラ)も百済の皇子あるいは鬼と呼ばれていて、孝霊天皇の皇子である吉備津彦命(キビツヒコノミコト)五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト))に退治されてしまうのだ。

 製鉄に関わる古代氏族(吉備秦氏=物部氏)などが、鬼と呼ばれることが多いのだが、温羅(ウラ)も製鉄に関わっていて、朝鮮半島からタタラ製鉄をもたらした百済系の皇子だったのだろうと思う。

 その製鉄技術こそが「鬼の宝」だったのだろう。


 話を坂上田村麻呂の生誕地に戻すと、父親である坂上苅田麻呂が天平宝字元年(757年)に授刀衛少尉(じゅとうえいしょうい)に任官してる。

 天平宝字8年(764年) 日付不詳には中衛少将(ちゅうえしょうしょう)に昇進した。

 授刀衛少尉も中衛少将も天皇や皇太子の警衛などを担う役割(SPのような物)であるから、坂上田村麻呂の生誕した天平宝字2年(758年)には京都の御所近くに屋敷があるはずで、そこで生まれたと思われる。

 坂上田村麻呂の生誕前年の天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱から、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱などでも活躍していて、官歴から見ると、その間継続して皇族の護衛官を務めていたと思われる。 

 坂上田村麻呂奥州誕生説、蝦夷出身であったとする坂上田村麻呂夷人説は英雄に付き物の伝説だろう。

 

 延暦21年7月10日(802年8月11日)、征夷大将軍の坂上田村麻呂は大墓公(たものきみ)阿弖流為(アテルイ)」、盤具公(いわぐのきみ)母礼(モレ)」らの降伏を受け入れて、共に平安京に向かった。

 捕虜としてではなく、三人は同行して平安京に到着したという。

 田村麻呂は「阿弖流為(アテルイ)母礼(モレ)らを蝦夷に返して東日本を治めさせよう」と主張して助命嘆願をしたが、平安京の貴族たちは「蝦夷は野性獣心で、二人を生きて返せばまた反乱を企てる」として反対して、802年8月13日に河内国(明確な場所は不明)にて阿弖流為(アテルイ)母礼(モレ)は処刑された。


 最後に、武蔵野八幡宮で蕨手刀が出土した謎についてだが、大ケヤキの根元から出てくる事自体が奇妙であり、誰かが埋めて、それをどうして掘り返すことができたのかも不思議な話である。

 通常、蕨手刀は東北の蝦夷の円墳の副葬品として出土する例が多く、関東地方で出てくるのも珍しい。

 非公開であるのもおかしな話だし、蝦夷が狩猟用として好んで使った蕨手刀(騎馬や徒歩のゲリラ戦でも使用された説あり)が、何故、関東地方にあるのかも不明である。


 ただ、坂上田村麻呂は好敵手だった蝦夷の大墓公「阿弖流為(アテルイ)」、盤具公「母礼(モレ)」らについて、おそらく、畏敬の念を抱いていたと思われる。

 それは田村麻呂がふたりを捕虜として扱わず、生かして蝦夷に返して東日本を治めさせようとしていたことからも容易に想像がつく。

 ならば、その蝦夷の蕨手刀についても敬意のようなものを抱いていた可能性が浮上してくる。


 明確な証拠はないが、これはあくまで仮説、推測にすぎないが、この蕨手刀は武蔵野八幡宮のご神体だったのかもしれない。

 だが、江戸の大火などで焼失してしまったか、何らかの理由で表に出せなかったかして、大ケヤキの根元から出て来たことにしたのではないか。

 そして、今、その蕨手刀がご神体的な宝として、武蔵野八幡宮に戻って来たのかもしれない。

 あるいは、この蕨手刀は阿弖流為(アテルイ)の形見のようなものだったのかもしれないと思ったりもする。

 第六話 武蔵野八幡宮の蕨手刀の謎〔エッセイ〕


 第三回角川武蔵野文学賞の一般文芸部門に応募した作品です。

 カクヨムで☆31の高評価作品だが、落選。

 今回は569作品→一般文芸部門(12作品)、ライトノベル部門(21作品)という感じ。

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