角田六郎の夢日記
「お兄ちゃん、巨人のお部屋に行こう」
舞香は口癖のように繰り返すが、六郎にはその力がないのが分かっていた。
「舞香、お兄ちゃんには無理だよ。僕には角がない」
そう、舞香には角があった。
お下げ髪の額にひとつ、小さな角があった。
ぱっと見はおできのように見える小さな突起である。
巨人に仕える一族である、古代氏族の<角田家>には稀にそういう者が現れる。
その者は巨人と意志を通じさせることができるという。
「大丈夫、舞香が連れてってあげるよ」
気づけば、六郎は舞香に手に引かれて、細長い岩肌の石室のような空間に迷い込んでいた。
淡い緑色の燐光のような物が壁を照らしている。
燐光は腐敗した生物などから生じた黄リン(白リン)が空気中で酸化する時に、青白い光を放つ現象であると言われている。
蛍光も同じような物であるが、より寿命が短い光である。
方解石のような蛍光鉱物もあるが、おそらく、何らかの生物によって生じる光だろう。
その細長い岩肌の石室はしばらく続いたが、そこを抜けると、突然、視界が開けた。
天井はとても高く、三十メートルほどあり、横幅と奥行きも同じぐらいある。
その洞窟のような空間の奥に、おぼろげに何かの遺跡のようなものが浮かび上がっている。
よく見ると、それは人形のようにみえた。
燐光のお陰で、次第に目がなれてきたら、それが巨人が王座に座ってる姿だと分かってきた。
これはおそらく、六郎達の先祖が作った巨人信仰の遺跡ではないか。
その時、巨人の像が突然、動いたようにみえた。
「お兄ちゃん、行ってくるね。ここで、お別れよ」
妹は六郎の手を離して、巨人の像に近づいていく。
「…舞香、何処に行くんだ? 待ってくれ!」
六郎は声を張り上げた。
身体は何故か金縛りにあったように動けない。
伸ばした右手は虚しく空を切った。
†
「いつも、その夢はそこで途切れるんだ」
六郎は手にした古い夢日記を閉じながら、助手の星に話しかけた。
大学ノートなので、黄ばみが酷く、もうボロボロである。
「なるほど。それは【夢幻回廊】というものかもしれません。秘密結社<天鴉>の三大氏族で【鏡の民】である月読家にはそういう伝承が伝わってます。つまり、その場所は夢の中からしか行けない場所ですね」
星は残念そうに目を伏せた。
夢日記は舞香と別れた7歳の時からつけている。
舞香とはぐれた直後はよく同じ夢を見ていたが、最近、数年間はとんと見なくなった。
ほとんど、その存在を忘れかけていた。
45歳になった角田六郎は古墳などに封じられている巨人に関わる怪異現象を扱う、巨人伝説研究所の所長を務めていた。
先日、巨人にまつわる三級遺物【猫の手】事件の際に知り合った、武蔵野美術女子大生の神頼紗弥加の友人の夢の中に舞香が現れて、六郎の名前を呼んだ。
ひょっとしたら、舞香はまだあの巨人の神殿にいるのかもしれないと感じた。
【夢幻回廊】、いつか、その夢への回路を開いて、妹に、舞香に会いたいと六郎は強く思った。
その日は、いつか、来るのだろうか?
それは分からないとしても、願い、祈りつづけていれば、それが実現するような予感があった。
もう、逢えないと思っていた妹に、夢の中だとしてと、逢えたのだから。
「…お兄ちゃん」
そして、今も、妹の悲しそうな声が六郎の耳に、確かに残っていた。