5.市中
翌日、クリスは異世界に来て初めての朝を迎えた。いつものように目覚まし時計に起こされるでもなく、鳥のさえずりを耳にして、ようやく目覚めた。なんと優雅な朝だろう。時計なんてものはないので、時間を気にすることもない。
とはいえ、いつまでもゴロゴロしていると体面も良くない。とうに眠気は失せていたので、体を起こし階下に降りた。
「おはようございます!」
廊下を掃除していたシエナリリーに元気よく挨拶をされた。朝からすがすがしい気分になる。「ああ、おはよう」と軽く挨拶を返すと、食事を用意するかどうか聞かれたので、お願いしておいた。
「あと、顔を洗いたいんだけど、どこで洗えばいいかな?」
「それなら店の裏に井戸があるので、そこを使ってください。」
(井戸か…)
中世レベルの生活水準なら然もありなんと思ったが、使い方がわかるかどうかという不安があった。実物を目にすると、井戸の側に縄のつけられた木桶が置いてあり、使い方も想像できた。
顔を洗っていて気づいたが、一日風呂にも入らず過ごして、一晩寝たのにもかかわらず、身体はそれほど汚れているように感じなかった。髪もベタついておらず、身体も臭うことはなかった。
そういう世界なのだろうか、それとも自分が異質なのか、どちらにしても、元々少々潔癖な癖のあるクリスにとっては都合がよかった。変にストレスを抱えなくて済む。ただ、それでも多少は気になるので、シエナリリーに渡されたタオルで身体をいくらかぬぐいはした。
上下水道などもそれほど整備されていないのかもしれない。もしもSLGよろしく、権力者になったあかつきには、インフラの整備などもしてみたいものだ。
そういえば、先日からいくらか飲み食いしているのに尿意も便意もさほど感じない。最早物理法則を無視している気がするが、何かこの世界に特別な理由があるのかもしれない。あまり深くは考えないでおこう。少なくとも自分にとっては願ったり叶ったりなのだから。
体を洗い終え、店に戻ると、早速朝食の準備がなされていた。毎度毎度、主人には気を遣わないよう言うのだが、聞き入れる気はないらしい。まあ、本当に一切もてなしが無くなると困るので、昨晩金貨を掴ませた時のように強制することはないのだが…。
「ゆうべはよくお休みになれましたか?」
店主は不安そうな表情で尋ねてくる。そういえば、昨日もクリスを泊めることを躊躇していた。
「はい、おかげさまでぐっすり眠ることができましたよ。」
少しわざとらしかったかもしれないが、クリスは主人にいらぬ心配をかけまいと大げさに快適さを主張した。それを聞いて主人も安堵したようだ。
「今日ご出立なさるのですか?」
「いえ、まずは少し街を回ってみて、それから考えようと思います。もしよければ今日も宿泊させていただいても大丈夫ですか?」
玲也としてもせっかく腰を落ち着かせることのできる拠点を見つけたのだ。なんとか長居させてもらって、その間により多くの情報を収集したい。
「もちろん結構でございます!レーゼリシア卿には充分に代金を支払っていただいておりますので。」
昨日渡した金貨は一泊と食事分、1万から2万円くらいの価値だと思っていたが、予想以上に高額だったらしい。一体この金貨1枚でどれだけの価値があるのだろう。
そんなことを考えながら食事を頬張っていると、ふと窓の外の人通りが目に入った。昨日とは打って変わって、多くの人が通りを行き交っている。
「そういえば、この街の見どころなんか教えていただけますか?」
ちょっとした観光気分である。クリスの意図としては、下手に直接疑問を投げかけるより、曖昧なところから多くの情報を仕入れることができればと思ったのだ。
「見どころ、ですか…」
主人は悩んだ様子で固まってしまった。それもそのはずだ。観光なんて概念は意外と新しいのだ。その日を生きていくのに苦労している時代。街道を歩けば盗賊に襲われるような世界では旅をするのもままならないだろう。それでも主人は答えてくれた。
「見どころ、ではないかもしれませんが、この街はイェルケに宿泊できない商人が数多く立ち寄ります。もしよければ、市場をのぞいてみてはいかがですか?」
主人のアドバイスを元にクリスは出立の支度をした。鎧は着ていくべきか迷ったが、結局着ていくことにした。宿に置いていって、もしも盗まれたらかなわない。
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(やはり脱いでくるべきだったか?)
鎧を着て街を歩いているとどうしても注目されてしまう。また、露骨に避けられるようなことはないのだが、少し人々に距離を置かれているような気がする。少し思い悩んだが、今更引き返すのも億劫なので、視線を気にせず、散策を続けた。
街はそれなりに活気があり、市も開かれていた。市場ではさまざまな果物や野菜に加えて、家畜なども売られていた。地球のものと同じだったり、地球のものと似通っているが微妙にちがっていたり、いろいろだ。黄色いリンゴなどもあった。
(なにか適当に買って、金貨の価値を確かめてみるか…)
今わかっているのは、宿一泊食事付きにしては有り余る価値ということくらいだ。
クリスは店屋の親父に黄色いリンゴがいくらするのか尋ねてみたた。するとやはり「お代はいただけません。どうぞお持ちください」とのこと。
仕方がないので、命令して従ってもらう。金貨一枚を手渡し、適正な値段で購入した時の代金を差し引いたお釣りを出してもらう。出てきたのはずっしりと中に貨幣の入った袋が二つである。中を確認すると、片方には金貨が丸々入っていて、もう片方には銀貨と銅貨が入っていた。
「なんで金貨が増えるんです?」
謎のお釣りの増殖に疑問を投げかけると、不思議そうに店主が答えた。
「これは普通の金貨で、騎士様からいただいた聖金貨とは別物ですが…」
(金貨の上があるのか…)
金の価値もわからない変人と思われてしまっただろうか。少し気恥ずかしくなりながら、換金してもらった袋と購入したリンゴを受け取った。推測するにリンゴは銅貨1枚程度のものだろう。店主からしたら迷惑な客だ。だが、クリスもこの世界に馴染むためには仕方ないと自分を納得させた。
このような時、容量のあるバッグは便利である、金銀銅貨の詰まった袋とリンゴをバッグにしまいこみ、再び歩き始めた。その後、街中をぶらつき、中世西洋の世界を満喫した。
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しばらく歩いていると、街の雰囲気が変わった。先ほどの区域が商業区だとすれば、こちらは職人区だろうか。煙突のある建物が散見され、どこからかハンマーで金属を叩く音がする。
せわしく働いていたのは大人だけではなかった。年端もいかない子どもの姿もあった。子どもは煤だらけで真っ黒になって薪を運んでいたが、よく見ると頭に獣の耳が付いている。
(獣人というやつか…)
クリスは昨晩、宿の主人から耳にした話を思い出す。魔族の一種である獣人族だ。この世界では忌み嫌われているような話だったが、普通に生活してるのだろうか疑問に感じた。
「あっ…!」
獣人の子が躓き転んで、薪をばら撒いてしまった。
「てめて!何してんだ!!」
すぐに怒号が飛び、大柄な男が建物の奥からやってきて、獣人の子を思いきり殴りつけた。子供は勢いよく地面に打ち付けられた。
「ちょっと!」
思わず声をかけてしまった。クリスも自分自身迂闊だと思ったが、見逃すことはできなかった。男がすぐにクリスを睨みつけてきたが、その姿を見るやいなや、すぐにへりくだった態度へと変わった。
「これは騎士様。見苦しいものをお見せしました。」
そう言うと男は獣人の子を建物の奥へと追いやった。
「少しやりすぎでは?」
「いえいえ、やつらはこれぐらいしないと言うことを聞きません。ヒュマの姿かたちに似ていると言っても所詮は魔族。そこらの獣となんら変わりありませんよ。」
男は全く自分に非がないという口調で述べた。この世界の人々による多種族への差別意識というのはかくも根深いものか。
(ほとんど同じ人間じゃないか…)
クリスは苦笑した。そうは思ったものの元いた世界では尻尾も耳も付いていない人間同士がいがみあっていたのだ。それが明らかな身体的特徴の差があれば尚更だと思い直したのだ。
これがこの世界の"普通"なのだ。受けていれていくしかないのだろう。
しかしながら、クリスは胸の内によどんだものを感じた。「義を見てせざるは勇なきなり。」元の世界での印象に残っている言葉だ。ただ見過ごすというのは心苦しい。何かできることはないかと考えた。
「さっきの子と話をさせてもらえませんか?」
「えっ、奴らと話など、騎士様のお耳を汚すだけです!」
主人はうろたえた様子で答えた。今、クリスがやっていることは、この世界の住人にしてみれば、金持ち貴族が好奇の心を慰めるためにわがままを言っているだけに思えるのだろう。それで、もしも害を加えればどんな文句を言われるかたまったものではないといった心情がうかがえる。
「お願いです。これでなんとか。」
クリスはそう言って男の手に金貨を握らせた。男は驚き少しだけ考えるそぶりを見せたがすぐに獣人の子と会わせてくれた。獣人の子は襤褸を身にまとい、ススだらけだったために初めはわからなかったが、近くで見ると女の子のようだ。口元には血が滲んでいる。
(かわいそうに…)
クリスはバッグから布を取り出し、少女の口元を拭った。
「あんな乱暴に扱って、怪我をしたらどうするんです?奴隷と言ってもただというわけでは無いでしょう?」
傍で問題が起こらないかそわそわと様子をうかがっている男に尋ねた。
「こいつらはそう簡単に死にゃしません。この程度の傷ならすぐに回復するんです。まったく気持ちのわりぃやつらだ。」
自然治癒。もしかすると獣人のほうが身体的には人間より優秀なのかもしれない。少女を見ると、これから自分がどうなるのか不安な様子だ。
「ああ、すまない。君、名前は?」
少女はポカンとした表情を浮かべた。その理由を男が説明してきた。
「そいつに名前なんてものはありません。そいつは親も奴隷だったんでね。」
へらへらと話す男に不快感を覚えた。少し険しい表情になっていたのか、クリスが男を見やるとそれ以上話さなくなってしまった。
コホッコホッ
少女は咳き込み、口を抑えた手には血が混ざっていた。
(これはよくないな…)
すぐ治るといってもどの程度のものかわからない。治療してあげたいのは山々なのだが、自分の魔法、エクスヒールが聖魔法だった場合彼女にダメージを与えてしまうかもしれない。ポーションも期待した効果があるかわからない。知識がないというのはなんと不自由だろうか。歯がゆく思いながら、先ほどリンゴを買ったことを思い出しカバンから取り出した。
「はい、これ。傷がよくなったら食べてね。」
少女ははじめぽかんとしていたが、リンゴを受け取るとたどたどしく口を動かした。
「あ、あり…あり…がと、う…」
(言葉も満足に話すことのできないのか…)
彼女が置かれた状況にショックを受けた。この世界の魔族に対する差別というのは、想像以上に酷いものかもしれない。前世では奴隷や差別されている人々との接触など、ほとんどなかったから、そのようなことが世界に実在することをリアルに捉えることはできなかったが、今は違う。今まさに目の前に存在している。彼女は助けを求める声すら上げれない。
前世では、差別階級の人々が自らの力で自由を勝ち取った話は幾度となく聞いたことがあった。だが、あれは本当に幾重にも奇跡が重なった結果の一例ではないのか。目の前の現実がそう思わせる。真に助けを求めている人は、助けを求める声も上げることができない。それに気づいた誰かが協力しなければならないのではないか?「義を見てせざるは勇無きなり」
「…この子を引き取らせていただけませんか?」
(何を言っているんだ俺は…。)
自分の生活さえままならないのに、他人の命を背負いこむなど、前世の自分ではとても考えられないことだった。
「え⁉︎騎士様が⁉︎」
「いくらでこの娘を買ったんですか?」
「そんな、騎士様に、お代なんていただけませんよ…」
目が泳いでいる。本当は金が欲しいのだろう。
「いくらですか?」
「金貨20枚です…」
「金貨40枚出しましょう。譲っていただけますね。」
店主も倍額には驚き、拒否することはなかった。金を受け取るとすぐに首輪を外してくれた。
「さあ一緒にいこう。君は自由だ。」
少女に手を差し伸べた。少女はこの後に及んでもまだ状況が掴めないでいるようだ。クリスは彼女を強く抱きしめた。
「すまない。確かにまだ自由とは程遠いかもしれない。だが、今の生活よりはずっと幸せにする。約束だ。」
少女も抱きしめられながら、頭をなでられると、暖かいものが伝わったのか、その瞳から涙がこぼれ落ちた。少女は鍵を掛けていた。この先に希望なんてないなら、優しい過去もいらない。私の人生は最初から何も無かったのだと。
「なんでっ、なんで…」
なんで今更。なんで私を。なんで…。こぼれ落ちる涙をぬぐうこともせずただ流れ落ちるのを感じていた。