足音夜話
舞ちゃんの家は大阪の、昔は豪商たちの邸が並んでいた土地の一画にあります。
舞ちゃんのお父さんは普通のサラリーマンですが、土地と家だけは先祖代々受け継いだ、それは立派なものです。庭には池と、古い石灯篭があります。
そしてここだけの話、このうちには「出る」のです。
もうお父さんのお父さん、つまり舞ちゃんのおじいちゃんが子供の時分から、ずっと出ていたそうなので、かなり昔の幽霊ということになります。
足のないはずの幽霊の、湿ったような足音が、廊下からぺたぺたと聴こえるのです。
雨降りの晩もあれば、お月さまが真ん丸の晩もあります。
決まったように、ぺたぺたと。
冬などは、素足で寒くないかしらんと舞ちゃんは思ってしまいます。
そして、これは子供にありがちなことですが、いつか幽霊の正体を明らかにしたい、と、そう思うのでした。
ある蒸し暑い夏の晩。
ぺたぺたぺた。
じめっとした空気のせいか、いつもより湿った音が、もうお布団の中にいた舞ちゃんの耳に聞こえました。舞ちゃんは、なぜか、「今だ」と思いました。そんな時って、大人にだってあるものでしょう?
そしてタオルケットをどけると、廊下に面した部屋の障子を開けました。
ぺたぺたの音がふと止みます。
そこにいたのは、時代劇などで見るような、着物を着た綺麗な女の人でした。水色の着物に青い絽の打掛を羽織り、とても雅な様子です。
舞ちゃんは、つい最近「雅」という言葉を知ったのですが、こういう人のことをそう言うのだろう、と子供ならではの鋭い感性で思いました。
女の人は舞ちゃんを見ると微笑みました。
どこか悲しそうな笑みに、舞ちゃんの心がしくしくとなります。
「お姉さん、何してるん?」
――――あの人を、探してるんや。
「あの人って?」
舞ちゃんが尋ねると、女の人は、どこか遠いところを見る眼差しで答えます。
――――大事な人。うちの、いっとう大事な。うちはこの家で生まれ育った。幼馴染がいて、その人のお嫁になるんやて、ずうっと思うてた。せやけど、その人、自分とこの店の番頭に騙されて。身ぐるみはがされ勘当された。最後に、遠くに行くからと、ひと目うちに会いに来てくれた。一緒に連れてってて頼んだけど、あの人、首を振ってなあ。苦労させることが分かってるさかい、それはできひんて。……うちの前から、消えてしもた。
舞ちゃんには女の人の言うことの全部は理解できませんでしたが、女の人が好きな人と離れ離れになったのだということは、悲しみの内に悟りました。女の子は、そうした感覚に関しては、大層、大人びているものです。
「うちにできること、ある?」
女の人の唇が、優しく弧を描きます。紅を刷いたような唇は、艶を帯びて、なんとも美しいのです。
――――あの人の、形見の品でもあれば、うちもきっと成仏できるねんけど。
「形見の品ね。解った」
舞ちゃんが請け負うと、女の人はまたぺたぺたと廊下を歩いて行きます。仄かに白い素足は闇の中でぼうと光り、降る雪のようでもありました。
翌朝、舞ちゃんは、お父さんに夕べの話をすっかり語って聞かせました。舞ちゃんのお父さんは、子供の話を馬鹿にすることなく、黙って聞いてくれました。
「そう言うたら父さんが、うちにゆかりのある人から来た手紙が、蔵にある言うてたなあ。何でも差出人の名も宛名もないけど、代々大事にされてるそうや。待ちや」
朝食を食べ終えたお父さんは、蔵の鍵を持って蔵に入り、しばらくすると黄ばんだ紙を持って戻ってきました。
「これや」
「何て書いてあるん?」
「自分は元気にしてる、あなたの幸せを願うてます、てな。それだけや」
「それだけ?」
「せや。それだけや。せやけどな、たったそれだけの文章でも、もろた相手には値千金いうことがある」
あの女の人もそうなのだろうか。
舞ちゃんは半信半疑で夜を待ちました。
やがて、あの、ぺたぺたとした音が聞こえてきて、舞ちゃんは飛び起きました。枕元に置いていた手紙をそっと手に取ります。
女の人は、舞ちゃんを見ると虚ろな笑みを浮かべました。
相変わらず悲しくなるような笑みに、舞ちゃんは手紙を差し出しました。
「あんな、これ、蔵にあったんやけど」
女の人は手紙を受け取ると、食い入るように文面に目を通しました。
やがてぽつりと言います。
――――あの人の字ぃや。うちに見せんよう、隠されてたんやな。せやけど、破りも燃やしもせんと、とっておいてくれた……
ぽた、ぽた、と、降る熱い雫は、女の人の涙でした。涙は手紙を湿らせます。
やがて一頻り泣いた女の人は、舞ちゃんに頭を下げました。
――――おおきに。これで、ようやっと逝くことができそうや。
女の人の身体が、どんどん透き通っていきます。
それはとても綺麗で、そしてなぜか胸の痛むような光景でした。
舞ちゃんは、自分の頬が涙で濡れていることにしばらくして気がつきました。
明くる朝、お父さんにその話をすると、そうか、ええことしたな。そう言って、舞ちゃんの頭を優しく撫でてくれました。
それ以来、ぺたぺたの音が聞こえることはなくなったのです。