91話 《小さな番犬》の弱点
──ケルベロ! ケルベロ! ケルケルケルベロ!!
遊戯革命党のアジトの通路を走っている最中、《小さな番犬》が激しく吠え始める。
先頭を走るレキトは息を呑み、右足を着地する寸前で止めた。
数メートル後ろの隊員たちを手で制し、周囲をくまなく見回すと、踏みかけた地点のベルベットの絨毯がわずかに光を帯びている。
栗木燈のギア、《目立ちたがり屋の地雷》が絨毯の下に仕掛けられているらしい。
レキトは両手でスマートフォンを構え、端末上部のイヤホンジャックからライトグリーンの光の弾を罠の一歩手前に撃ち込む。
味方が誤って踏まないように、絨毯に焦げ跡を目印として刻んだ。
《小さな番犬》は「プレイヤーに危険が迫ったとき、犬の鳴き声とスマホの振動で注意を呼びかけるギア」。
敵プレイヤーに攻撃されたときはもちろん、「熱い物に触ろうとしたとき」「傷んでいる料理を食べようとしたとき」など、プレイヤー自身の行動が危険につながる場合も反応してくれる。
罠対策において、これほど心強いギアはないだろう。
先頭を行くレキトが罠を次々と回避していくと、後方にいる綾瀬の声がインカム越しに勢いよく飛び込んできた。
「超順調じゃん、レキト! てか、《小さな番犬》ヤバくね? マジ神ギアだろ!」
「……気を抜くなよ、綾瀬。簡単な罠をわざと見破らせて、相手が油断したところで、巧妙に隠した本命の罠で引っかける。対戦でよくある戦術だ。順調に進んでると思ったときこそ、敵の作戦にハマってることを疑ってくれ」
「はぇ〜、よく色んなこと思いつくな。でも、別に神経尖らせる必要なくね? 《小さな番犬》が罠を見抜いてくれるんだし」
「いや、そういうわけにはいかないさ。遊戯革命党が《小さな番犬》の弱点を突いてくる可能性があるからね」
「《小さな番犬》の弱点? ……はっ! もしかして『可愛すぎて、戦いに集中できない』とかか?」
「そんなわけないだろ。よくそれで『はっ!』って言えたな。──《小さな番犬》の弱点は、『プレイヤーが誤認するリスクがあること』だよ」
《小さな番犬》はプレイヤーに危険が迫ったとき、吠えたりスマートフォンを振動させたりして、注意を促すギア。
死角からの攻撃や遠距離からの狙撃にも素早く察知して、NPCのふりをしたプレイヤーの接近も知らせてくれる。
いつどこで戦いが起きるかわからないこの世界で、常に警戒を怠らず、あらゆる脅威をいち早く知らせてくれる姿は、まさに「番犬」という名にふさわしいだろう。
だが、《小さな番犬》が吠えて伝えるのは、あくまで「危機が迫っている」という断片的な情報だけだ。
どんな危険が、どこから迫ってきているのかは、プレイヤー自身が周囲の様子から判断しなければならない。
おそらく《小さな番犬》がプレイヤーに考えさせる仕様になっているのは、『Fake Earth』が「人間の脳を研究するゲーム」だからだろう。
かつて《小さな番犬》が吠えた脅威を「拳銃を持ったNPCの警察官」だと誤認し、実は「警察官のプレイヤー」だったことに気づけず、後手に回った記憶が蘇った。
──厄介なことに、暁星や豆田とはディズニーランドで戦ったときに、《小さな番犬》が危険を察知する場面を見られている。
── 例えば、《目立ちたがり屋の地雷》を仕掛けた床の真上に、赤外線センサー式で大量の刃物が降ってくる天井の罠を組み合わせるなどして、《小さな番犬》の吠えた原因を誤認させるような対策をしてくる可能性が高い。
だから、レキトは不安を感じずにはいられなかった。
遊戯革命党が《小さな番犬》で簡単に見破れる罠しか仕掛けていないことに。
たまたま《小さな番犬》が罠に強いことに気づかなかった──わけがない。
元メンバーの伊勢海の話によれば、遊戯革命党のプレイヤーには、『分析力の高いブレイン』と『人が嫌がるところを見つける天才』がいる。
ただ「《目立ちたがり屋の地雷》を絨毯の下にいくつも隠す」だけなんて、そんな見通しの甘い作戦で済ませるとは思えない。
結局、敵の狙いが最後までわからないまま、レキトたちは罠に一度もかかることなく、ボス戦を予感させる扉の前に辿り着いた。
「ここは下がっていてください。我々9番隊が先に突入します」
3人の隊員を従えたアントの隊長らしき男が、秘密の研究室を思わせるスチール扉の前へと静かに進み出る。
全員が巨大なバリスティックシールドを携え、頑丈な防具で身をがっしりと固めていた。
レキトが赤色のスマートフォンの画面を見ると、リーゼントのかつらを装備した《小さな番犬》は、改造バイクでホーム画面を爆走している。
……とりあえず吠えていないので、扉を開けた瞬間に「手榴弾が爆発するブービートラップ」などは仕掛けられていないらしい。
レキトは先陣を9番隊に任せて、七海たちプレイヤーが集まる隊列の中央に下がった。
「どうしたの、遊津っち? 険しい顔して」
「遊戯革命党の狙いを考えてたんですよ。俺たちがアジトに攻め込むことはわかってたはずです。それなのに、《小さな番犬》で簡単に突破できる罠しか仕掛けないのは不自然でしょう?」
「なるほど、そういうことか〜。でも、まあ深読みしなくていいと思うよ。たぶんだけど、私、なんとなく理由わかっちゃったし」
七海はあっけらかんとした口調で言った。
「……どういうことですか、七海さん? 教えてください」
「あくまで私の予想だよ。たぶん遊戯革命党が仕掛けた罠は、私たち以外の侵入者が万が一来たときに撃退するためじゃないかな? 逆に言うと、私たちには《小さな番犬》で罠を見破らせて、安全に進んでもらいたかったってわけ」
「俺たちを安全に進ませる? そんなことして何の意味が?」
「そんなの決まってんじゃん。『お前たちは直々に殺す』っていう意思表示だよ。私たちの中にはギルドの裏切り者がいて、仲間の仇がいて、全員が1年以上かけたゲーム攻略プランを邪魔しようとしてるからね。
普通にウザい奴らをこの手で叩きのめしたい。
全然合理的じゃないけど、こういうのは理屈じゃないでしょ?」
七海は涙袋が際立つ目でウィンクする。
「あなたも少しわかるでしょ?」みたいな言い方。
けれども、レキトにはまったく理解できなかった。
敵を直接倒したい気持ちが理解できないのは、レキトがプレイヤーキルできないことと関係あるのだろうか?
ふと心臓を指でガリガリと引っ掻かれるような感覚を覚えた。
「……総員、戦闘準備。前方に注目せよ」
先頭にいる9番隊隊長の低い声がインカムから聞こえる。
レキトが視線を前に向けると、扉の前に立つ隊長は右手を掲げて、無言で指を一本ずつ折って「5……4……」とカウントを示した。
今から遊戯革命党との戦闘が始まろうとしているのに、余計なことを考えている余裕はない。
妹の美桜、兄の優斗、そして恋人の真紀──この世界で大切な人たちの顔が、次々と思い浮かんだ。
透明化した綾瀬が息をすうっと吐き、全身の力を抜く音が聞こえた。
明智は猫耳のヘッドホンを頭に装備した。
七海は好戦的な笑みを浮かべた。
伊勢海は前髪を震える手で掻き上げた。
杏珠は無表情のまま、《もしも光の絵の具があるとしたら》を起動した。
レキトは口の中にフリスクを一粒放り込み、奥歯でガリッと噛み砕いた。
「起動、アプリ兵器。──《白夜閃光弾》」
9番隊隊長が掲げた手を振り下ろした瞬間、青髪の女性隊員が扉をわずかに開けて、A字盾のロゴが刻印されたスマートフォンを中へ滑り込ませる。
すかさず音を立てずに閉めると、扉の向こうで閃光が炸裂して、眩しい光が隙間から溢れ出た。
続けて青髪の女性隊員が扉をふたたび開き、9番隊は巨大なバリスティックシールドを構えて突撃する。
他の隊のNPCたちも間髪入れずに雪崩れ込み、レキトたちもすぐに後を追う。
扉の向こうへ足を踏み入れたとき、《小さな番犬》が激しく吠え始めた。
『ケルベロ! ケルベロ! ケルケルケルベロ!』
《小さな番犬》の吠える声に連動して、赤色のスマートフォンが振動した。
「DANGER」のポップアップが点滅した。
レキトは親指でホームボタンを長押しして、対プレイヤー用レーザーを起動する。
端末上部のイヤホンジャックに電気を溜めて、敵の姿を確認でき次第、味方の間を縫って撃ち抜くと決めていた。
だが、レキトは待ち受けていた相手を見たとき、頭の中が真っ白になった。
対プレイヤー用レーザーを撃つどころか、両手でスマートフォンを構えることもできなかった。
アントの隊員たちも足を止めて、武器を構えたまま迷いの色を目に浮かべていた。
七海たちも驚いた顔で動けずにいる。
「……なんでこんなところに?」
《小さな番犬》が激しく吠える中、レキトは一言つぶやくことしかできなかった。