87話 Two Order(前編)
(視点人物)
主人公・レキト
「あ! 真紀姉、今お腹が動いたよ! 赤ちゃんが蹴ったのかな?」
「まだその時期じゃないよ、美桜ちゃん。朝ご飯の消化で動いただけ」
「なーんだ、そっか! ……って、それ私がお腹に耳を当てる前に言ってよ!」
「あはは、ごめんね。可愛くてつい黙っちゃった」
真紀は朗らかに笑いながら、両手を胸の前で合わせる。
美桜は甘えるように、わざとらしく拗ねた顔で口を尖らせていた。
ここ『Fake Earth』というゲーム世界で操作するアバター「遊津暦斗」の妹、女子中学生NPC「遊津美桜」。
そしてレキトの恋人であり、妊娠した女子高生NPC「茅野真紀」。
前からなんとなくそんな気はしていたが、2人は本物の姉妹のように仲が良いようだった。
兄の優斗は近くのソファで本を読んでいた。
表紙に書かれたタイトルは、『天才を超える神童の育て方~未来の帝王にするための最強英才教育』。
初めてできる甥っ子に、とんでもなく気の早いことを考えているらしい。
遊戯革命党との決戦の朝、レキトはNPCの家族と恋人とホテルのラウンジで一緒に過ごしていた。
「それにしても、明日でホテル生活も終わりか~。10日間って意外と早かったね」
「映画館があったり、アフターヌーンティーができたり、ここのホテルは色々と充実してたからね。個人的には美桜ちゃんと一緒だったことが一番大きかったかな」
「ね! 私も真紀姉とお泊りできて楽しかった! でも、まさかこんなことってあるんだね」
「ほんとだよね。いきなり警察が来てビックリしたもん。ヒューテック被害のある人は、特別な治療を受けなきゃいけないなんて、私、全然知らなかった」
──厚生労働省が直近で実施した調査の結果、ヒューテック化が確認された者の9割が、過去3ヶ月以内に「ヒューテックに襲われた」経験を持つことが明らかになった。
──そのため、該当者は国の指定する宿泊施設に一定期間滞在して、所定の検査および治療を受ける必要がある……。
これはレキトが美桜たちを安全な場所へ避難させるために、特殊防衛組織『アント』に協力してもらって仕組んだ「嘘」だった。
遊戯革命党の暁星が真紀を殺そうとした以上、親しいNPCたちに危害が及ばないと限らない。
隔離したホテルにはスタッフに扮したSPを何人か配置してもらい、有事の際には綾瀬の《ULTRA PASMO》で瞬時に駆けつけられるように準備していた。
だが、遊戯革命党のプレイヤーたちは、真紀たちのいるホテルに襲いに来なかった。
隠しカメラを仕掛けたが、レキトと真紀の家を訪れた形跡もなかった。
おそらく彼らが真紀たちを狙わなかったのは、レキトたちが対策していることを警戒しているから──ではないのだろう。
【《1万時間後に叶う夢》のチャージタイムが完了すれば、《同類を浮き彫りにする病》のウイルスの性能と効果範囲が大幅に強化され、全世界のNPCを一斉に機能停止にさせられる】
【どうせ一度に片付けるのだから、たかが数体のために出向くのは、労力の無駄でしかない】
NPCを取るに足らない存在と見なしているギルドだからこそ、議論もせずにあっさり決まった光景が、レキトの脳裏に浮かんだ。
──ゲームマスターを倒せば、『Fake Earth』はサービス終了になる。この世界が終わるってことは、当然そこで暮らすNPCも終わるってことだろう。
──いつか君が成し遂げようとすることは、遊戯革命党のゲーム攻略プランとほとんど同じことじゃないか。
レキトは暁星に突きつけられた言葉を思い出す。『Fake Earth』に挑んだのは、ゲームマスターを倒して、凛子を現実世界へ連れ戻すため。
遊戯革命党のNPC機能停止計画を止めたところで、それは問題を先送りにするだけだった。
凛子とゲームセンターで遊んだ日常を取り戻したい思いは変わらないし、これからもずっと変えるつもりはない。
けれども、この世界のNPCはレキトにとって「生きている人間」であり、美桜も優斗も真紀もかけがえのない存在だ。
彼らの人生を奪うようなことはしたくない。
どちらかを選ぶことはできなかったし、どちらも切り捨てずに済むような選択肢も思いつかなかった。
だが、迷いが心にあれば、いざというとき判断が遅れる。
対人戦において、一瞬の遅れは致命的な敗因になる。
遊戯革命党と戦うことを決めた以上、今はただやるべきことに集中するしかない。
レキトは片手をポケットに突っ込み、ライムミント味のフリスクケースを引っ張り出す。
そして、口の中にフリスクを一粒放り込み、奥歯でガリッと嚙み砕いた。
「どうしたの、暦兄? なんか急に怖い顔してるけど」
「ああ、実はまた一人で『検査』なんだよ。いつも俺だけ時間が長いから、さすがにうんざりしててね。美桜に代わってほしいくらいだよ」
「うわ〜かわいそう! 暦兄、ヒューテックに2回襲われてるもんね。私たちは毎日30分くらいですぐ終わるのに」
「まあ、安全のためにも仕方がないさ。大人しく行ってくるよ」
レキトは嘘をついて、赤色のスマートフォンを手に取る。
ロック画面に表示された時刻は午前10時30分。
遊戯革命党のアジトに突入する2時間前。
毎日一人だけ特別な検査を長く受けているのは、七海たちとアジトで特訓するための口実だった。
プレイヤーを取り締まるNPCの治安部隊と協力関係にあるとはいえ、美桜たちにプレイヤーであることをバレるわけにはいかない。
レキトは「妹に気を遣わせたくない兄」を演じて、美桜に安心させるように笑いかけた。
「ちょっと待って、レッくん。シャツの襟のボタンが外れてるかも」
「あれ? いつの間にか緩んだのかな。どっち?」
「いいよ。私がやった方が早いから。じっとしてて」
真紀が歩み寄り、レキトの襟元に指を伸ばす。
優しく触れたボタンは、すでにきちんと留められていた。
どうして彼女は嘘をついて、襟のボタンをつけるふりをしているのか?
レキトは戸惑い、NPCの恋人を見つめる。
「──無理しすぎないでね」
真紀は目を合わせないまま、レキトにだけ聞こえる声でそっと囁いた。
そして、驚いたレキトが言葉を失った瞬間、襟のボタンから指を離す。
真紀はレキトを上目遣いで見上げて、愛嬌のある丸くて大きい目を軽く細めた。
「よし、できた。完璧!」
真紀は明るく言って、満足そうな顔で一歩下がる。
「いいな〜暦兄」と美桜が羨ましそうにつぶやくと、「よくできた彼女だよね」と冗談っぽく自画自賛した。
何事もなかったかのような振る舞い。
さっき囁かれた言葉が空耳だったように思えてくる。
けれども、空耳ではないことは、自分でもよくわかっていた。
きっと真紀は色々と気づいているのだろう。
10日間の検査や治療は嘘であることも、自分たちを安全な場所に避難させるためであることも、毎日レキトが一人だけ検査が長いのには別の事情があることも。
おそらくレキトがプレイヤーであることも。
どうして彼女が真実を知りながら、何も言わないのか?
今のレキトにどんな感情を抱いてるのかもわからない。
ただ、目の前のNPCたちの日常を守らなければいけないと改めて強く思った。
「じゃあ、行ってくる。いつもどおり晩御飯までには帰ってくるよ」
レキトは真紀たちに手を上げて、普段どおり長めの検査に出かける男子高校生を演じる。
美桜と優斗は「「いってら〜」」と声を揃えて軽く返した。
今日が最後の別れになるかもしれないことなど、思いもしないかのように。
真紀は手を小さく振って、レキトがラウンジを出て行くまで見送った。
レキトは人気のないフロアを歩きながら、赤色のスマートフォンを手に取った。
親指でロックを解除すると、《小さな番犬》はホーム画面で毛布にくるまって、呑気そうに涎を垂らして寝ていた。
とりあえず今のところ「危険」は迫っていない。
ということは、さっきから感じている視線は、やはり敵プレイヤーのものではないらしい。
レキトはため息をつき、あいつが予定より早く迎えに来ていることを確信した。
「……そろそろ出てきたらどうだ? ずっと近くにいるのはわかってるぞ、綾瀬」
綾瀬の返事はなく、空気は水を打ったように静まり返っている。
すかさずレキトがLINEで電話をかけると、隣から「大音量の着信音」が聞こえてきた。
無言で着信音が鳴った方を見ていると、背の高い男性アバターの輪郭がぼんやり見えるようになり、オレンジ色の髪が色づいていく。
姿を現した綾瀬は両手で顔を押し潰すようにして、意味不明なほど凄まじい変顔を披露していた。
──おそらく綾瀬が《私は何者にもなれる》で透明になっていたのは、この変顔で笑わせるためだろう。
──定番の驚かせるドッキリだと思わせて、隠れているのを見破ったレキトが気を抜いたところを狙ったに違いない。
だが、レキトは綾瀬の変顔にぴくりとも笑わなかった。
笑いは想像を思わぬ方向に裏切られたときに起きる。
綾瀬が変顔を仕掛けてくることは、なんとなく予想がついていたからだ。
協力プレイで戦う以上、味方と言葉を交わさずに連携できるようになる必要がある。
遊戯革命党との決戦に向けて特訓した10日間、レキトは頭を抱えながら綾瀬を観察し続けた結果、非合理的でマイペースな思考も読めるようになってきた。
──プレイヤー『綾瀬良樹』、学習完了。
視線と視線がぶつかり合った。
綾瀬は両目をぐいっと内側に寄せて、高速で連打するように瞬きを繰り返した。
レキトは綾瀬から目を逸らさず、スクエア型眼鏡をかけ直す。
綾瀬は真顔にすんと戻ると、膝からガクッと崩れ落ちた。
「……完敗だ、レキト。どちゃくそ滑って恥ずかしいから、今すぐオレを殺してくれ」
「なに馬鹿なことを言ってるんだ。これから遊戯革命党と戦うのに、大事な戦力を削るわけがないだろ」
レキトはため息をつく。
あまりにも馬鹿馬鹿しいノリに、肩の力がすうっと抜けて、体が軽くなるのを感じた。
大切な人たちの未来がかかった戦いを前にして、いつの間にか必要以上のプレッシャーを感じていたらしい。
もしかして綾瀬はレキトの緊張をほぐすために、わざと変顔で笑わせようとしたのだろうか?
……いや、単純に面白いと思ったことを、深く考えずに実行しただけだろう。
とはいえ、重くのしかかっていた気負いが取れたのは事実だった。
「綾瀬、ところで、今日の体調は万全だろうな?」
「そりゃ超バッチグーよ! 昨日レキトにアルコールは控えてくれって散々言われたからな。大学の飲みも一次会でちゃんと帰ったぜ」
「いや、待ってくれ。なんで普通に飲みに行ってるんだ?」
「なんでって大事な会に決まってるからだろ。なんたって人生がかかってるんだし」
「人生がかかってる? いったいどういう集まりなんだ?」
「いつも代返で世話になってる、『山室幹夫の初めての彼女を作る会』だよ。
幹夫、マジいい奴なんだけど、逆にいい奴すぎるからモテなくて。それが最近バイトの後輩の女の子と超いい感じでさ〜!
いよいよ次のディズニーデートで告白するって言うから、オレたち商学部の男メン達で色々アドバイスしたんだよ」
──くそ、全然どうでもいい飲み会じゃないか!
レキトは心の中でツッコミを入れる。
声に出してツッコなかったのは、綾瀬に「いやいや、初彼女ほど大事なことはねえよ」と熱弁されて、会ったことのない幹夫のラブストーリーを長々と聞かされる事態を回避するためだった。
とりあえず二日酔いはなさそうだし、話を軽く合わせて、早めに切り上げよう。
恋愛ゲームの会話でヒロインの価値観に寄り添った選択肢を選ぶように、レキトは綾瀬のノリに合わせた相槌を淡々と返すことにした。
「なるほど。たしかに初めての彼女ができるかどうかは重要だな」
「だろ? 幹夫の奴、超気合い入っててさ。3日連続でディズニーを下見したんだぜ。『最高に楽しんでほしいから』とか言って、効率よくアトラクション回る順番とか研究してんの。いい奴すぎてヤバいだろ?」
「……3日も一人ディズニーやるのはすごいな。それで、昨日にアドバイスしたってことは、今日が本番のデートなのか?」
「いいや、それが明日なんだってよ。頑張って1日早めろって言ったんだけど、さすがに予定を急に変更するのは難しいみたいでさ〜。
……まあ、冷静に考えて、誰も今日世界が終わるかもなんて思わねえもんよな」
綾瀬のさらっとした発言に、レキトははっと息を呑む。
元ギルドメンバーの伊勢海によれば、《1万時間後に叶う夢》のチャージタイムが終わるまで、残り8時間。
レキトたちが遊戯革命党との戦いに勝たなければ、NPC機能停止計画は実行されることになる。
世界中にNPCだけを殺すウイルスがばら撒かれて、『Fake Earth』のNPCたちは1体残らず死ぬことになる。
それは綾瀬の友人の3日間かけて下見したデートもなくなることも意味していた。
「だからさ、遊戯革命党の馬鹿げた計画はマジでぶっ潰そうぜ、レキト。
──『人』の恋路を邪魔する奴は許すわけにはいかねえだろう?」
綾瀬は右手を握り、拳をレキトに向ける。
狼みたいな目には真剣さが滲み出ていた。
レキトも左手を丸めて、綾瀬に拳を向ける。
そして、拳と拳をコツンと突き合わせる。
NPCのことを「人」だと同じように思ってくれているのが嬉しかった。
「ああ、元からそのつもりだ。初めてのギルド戦、頼りにしてるぞ、綾瀬」
「もちろん任せとけって! んじゃ、そろそろ集合場所に行こうぜ〜!」
綾瀬は親しげにレキトの肩に腕を回して、両目を閉じて口を大きめに開けた。
レキトがフリスクを一粒放り込むと、綾瀬は「サンキュー!」と嬉しそうに笑って、奥歯でガリッと噛み砕く。
「Set up! ── 特殊防衛組織『アント』の本部に飛ばせ、《ULTRA PASMO》!!!」
綾瀬はギアを起動して、天高くスマートフォンを掲げる。
眩い光がスマートフォンの画面から放たれた瞬間、レキトたちは特殊防衛組織『アント』の本部へワープした。